無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Forevermore』のメロディーラインは、本来なら持つであろう「宇多田ヒカルならではの煌めきと輝き」をある程度犠牲にしている。これが全開になると『光』や『Apple And Cinnamon』のような曲が出来上がるのだが、『Forevermore』はAメロからサビに至るまでそういった"派手な動き"を見せず、中低音域を中心とした比較的地味なラインを取り続ける。

これを聴いて、「まるでロックバンドでヴォーカリストが出来上がったバンドサウンドに歌詞とメロディーを乗せろと言われた時みたいだな」と感じた。兎に角自由度が少ないのである。「これのどこに歌を入れたらええねん」とロック・ヴォーカリストはいつも悩む。例えば「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のイアン・ギランのように、はっきりとしたギターリフにあんなあやふやなメロディーラインをつける羽目になる。

それら(ってもう半世紀近く前の曲か)に較べれば、ヒカルは驚くほどよくやっている。ベースとドラムが生み出すグルーヴから外れる事無く、自由度の低い符割りとリズムの中を、綱渡りのようにメロディアスかつキャッチーなラインを捉えている。まるで25mのロングパットを決める時のように芝目を読み切って。ちょっと奇跡的ですらあるよ。

最も驚いたのは、ここまでリズミックなトラックを従えながら、まるで90年代のトレンディー・ドラマのエンディング・テーマ曲のような俗っぽいドラマティックさ、即ち壮大過ぎないが切迫した雰囲気を出すサウンド・トラック的役割を、きっちりと封じ込めている事だ。主体的にグルーヴにノる音楽としての完成度と、ドラマのバックで流れるサウンドトラック・バックグラウンド・ミュージックとしとの完成度をひとつの楽曲の中でどちらに対してもほぼ妥協する事なく高め切っている。綱渡り、ロングパットに加えて弾幕ゲー全ステージノーミスクリアのイメージだ。それをさも自然にまとめ上げて特別な感じを出さない。つくづく、凄い曲だと思う。

これは、「どこからでもメロディーを書ける」という自身からくるものだろうか。『Fantome』ではその自信と余裕を感じさせたのは『荒野の狼』くらいだったが、今回のアルバムではセカンド・シングルからいきなりこれである。無理矢理今後の課題を言うならば、更にここに『光』や『Apple And Cinnamon』のような煌めくダイナミックなリリカル・メロディーを乗せる事だが、まぁそれは次に譲る事にしよう。冥王星に放った探査機が無傷で地球に帰ってくるような難易度なんだがヒカルならいつかやってくれそうで本当に怖い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最初は今日から海外でも『Forevermore』のミュージックビデオが観られるようになる、という話だった気がしたが、取り敢えずそれは8月16日からになったようだ。もっとも、現実としては、多くの人が海外のサイトにフル尺でアップロードされたMVを既に観ている状態なのだが。

ミュージックビデオでヒカルはコンテンポラリー・ダンスを披露しているが、そのクォリティーや唐突なカメレオンの生誕以上に重要なのは、この方向性を選択した事実そのものだろう。

元々、全然踊らない人である。自分自身は勿論、バックダンサーすら滅多に起用しない。ニーズとしても、ダンサー雇う位ならバックシンガー、バックコーラスを充ててくれ、という方が大きいだろう。そこを踊った。しかも見る人にとっちゃ妙ちきりんなアプローチで。「コンテンポラリーダンスって、何?」という人も在るだろう。こっちだって知らないよ。

今回もヒカルが監督を務めた訳ではないようだが、かなりの割合で自らの要望は伝えているだろう。それがこういうかつてないカタチになった。つまり、曲自体に"かつてない"要素が存在する事になる。でなければヒカルはこんな風にはしなかっただろう。

「身体性の強い歌だから」というのがまずはあっさりした答である。そして案外、それで十分かもしれない。強力なリズム隊のプレイによって『Forevermore』は、心や頭が反応するよりも早く身体が反応するような躍動感に溢れている。取り敢えず踊りましょう、と。

身体を反応させる音楽的要素=グルーヴとは面白いもので、1人の演奏ではなかなか出せるものではなく、というか、1人で出してもサマになるものではなく、2人以上の演奏を同調させる事で始めて生まれる(サマになる)ものだ。即ち、身体性とは関係性であり外部性なのである。他者同士の一体感と違和感の混在にグルーヴは生じる。

一体感。体が一つになる感覚。違和感。和えるに違う感覚。混ざりながら混ざらない。ここに必要なのは明確な他者の存在だ。何ひとつ共感できない人間などなかなか存在しないし、総てにおいて共感できる存在など絵空事だ。人は、人々は皆その間のどこかで暮らしている。である以上、グルーヴは必ずどこかで生まれるのだ。

故に音楽の中でグルーヴを生むには、ソロシンガーとしてのアプローチより、バンドやユニットとしてのアプローチの方が適している。『Forevermore』はそこに不可避的なバンドサウンドの必要性を孕む。できれば、そこらへんの話を次回にでも取り上げたい―今度こそ、な(笑)。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )