今回もまた『生まれ変わっても』という歌詞がある。『Forevermore』。
ヒカルの輪廻転生への拘りは甚だしい。どうしてそこまで、と思うほどに。『Hymne a l'amour 〜愛のアンセム』は原詞がキリスト教的世界観(最後の審判、かな?死んで魂が救われるやつ)だったもんだからわざわざ東洋的な転生観を前面に出して自分で歌詞を書いた。『ぼくはくま』の『ゼンセ』もそうだし、『Goodbye Happiness』も勿論だ。そして今回の『Forevermore』も。全く関係ないけど誰か語呂のいい『Forevermore』の愛称、呼び名を考えてくれないか。何も思いつかん。『大空で抱きしめて』はあっさり『おおぞら』で決まった。既にそう呼んでいる。しかし『Forevermore』はどこを切り貼りすればいいのやら。『Addicted To You』を『中毒』にしたような変則的な技が必要なのかな。まぁ私は普段「アディク」って呼んでる気がするけど。『Movin' on without you』なんかは「むびのん」という力業がハマった例だ。それに倣うと「ふぉえばも」…言いづれぇ…。という訳でいい案募集中。
さて戻ると。昔私は輪廻転生の世界観を「論理的には否定できない」と力説した。本当に難しいのだ。「もし生まれ変われても記憶が断絶するのでは意味がない」という反論はよくきくが、意味がないのはあなたの都合で世界の話ではない。
反証ではないが、「では多重人格」をどう説明するのか、という展開をする。「1つの肉体に2つ以上の自我が宿る」のが「多重人格」なら、「2つ以上の肉体に1つの自我が宿る」のが輪廻転生だ。この2つの概念は肉体と自我の対応が「1対1」に留まらず「「1対多」「多対1」「多対多」まで広がるとすればどうなるか、という論理的な思考実験における2番目と3番目であるというに過ぎない。通常信じられているのは1番目のみだが、2番目が実在する以上3番目も真剣に考察する必要がある、というそれだけである。更に、4番目の例はどのような状況なのかという点もまた考察の対象だ。即ち「多重人格の輪廻転生」である。転生してきた人格同士が1つの肉体に宿ったり、2つ以上の肉体に跨って多重人格を構成したりと、ここにくると飛躍的に複雑度が増す。しかしまずは、輪廻転生が実在するかどうかを知らなければならない。
再三繰り返すが、これはオカルト的興味ではない。実際に論理的に輪廻転生の不可能性を主張するのは本当に難しいのだ。少なくとも、私には無理だ。ないならないで構わない。ヒカルの歌の多くがファンタジーになるだけである。しかし、もしあるとしたら…? このテーマは、あまり邪険に扱わない方がいい。信じる必要はないが、疑うには難しすぎる事柄なのだから…。
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