無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『今までで一番がんばったビデオかな』『My Sweatiest MV to date.』―だなんて言われたら、貶そうにも貶せないじゃないか…っ!

…なぁんて、そんな事を言う必要もなく。ビデオ自体は私も気に入っているので気を遣わなくてもいいのだ。ありがたい。ただ配信画質がポンコツだと愚痴っただけだ。カメレオンに関しては唐突過ぎて演出不足で特に日本人(?)を相手にしている事を考えると不十分だが自分は特に嫌いじゃないし余計だなとは思わない。ただ、こんなんじゃ不評の声が聞こえてきちゃうだろう、という予測をさせるという意味では余計だった。ちゃんと映像で"説明"すべきだったな、とは思うぞ。

ダンス自体は、まず発想がいいよね。「まさか踊ってくるとは思わなかった」と多くの人が思った筈だ。もうそれでプロモーションとしては大成功。申し分なし。

コンテンポラリー・ダンスというと、トラディショナルなダンスを踊れる素養のない人たちに対して"逃げ"として用意されているジャンル、と書くとかなぁり誤解されそうだが、まぁそう書いとこう。でもそういうアティテュードってヒカルが『荒野の狼』で『輩(やから)』と呼んで蛇蠍の如く嫌っている人種じゃないの?という疑問は、ある。私の方はといえば毎週(でもないけど)月曜日に"なんちゃって意識高い系のアイドル"であらせられるルー子さまの一言を熱心にリツイートしている事からもわかる通り、そんなに嫌いじゃない。なんというかこの段落、コンテンポラリー・ダンスに真剣に取り組んでる人に謝れ。

でもメタルバンドが歌えるボーカルが見つからなかったからって正統派を諦めてギタリストに吠えさせてメロデスやってるようなもんでしょ?(とてもわかりにくいたとえ) いいじゃない、逃げであれ何であれ表現をし続けるのであれば。何かしらやってればいつか当たるかもしれない。

ヒカルだって、まず「踊ってみた」のだ。7年前には『Goodbye Happiness』のミュージックビデオで「歌ってみた」のパロディに挑戦した訳だが、それはプロ中のプロだからこそ出来たこと。滅茶苦茶歌の上手い人が素人みたいに振る舞ったからパロディだ。

今回は、私もダンスの事はわからないが、きっと踊れる人は踊れちゃうんじゃないか。もし仮にYouTubeで『Forevermoreコンテンポラリーダンス踊ってみた選手権』を開催して踊ってみた動画を募ったらヒカルより上手く踊る人続出なんじゃないの。ヒカルの歌を歌ってみる人たちはどう足掻いてもヒカルを超えられないからこちらも微笑ましく毎度聞かせて貰ってるが、踊ってみたで本家超えをされたら……ん、もしかしてそれはそれで面白い、かな? まぁ私はやりませんが(断言)。

ともあれ、ヒカルが『一番がんばった』と言い切ったのだからこのミュージックビデオは宝物である。好き嫌いを超越した「汗の結晶」だ。幾らセンスがあろうと初心者が短期間でここまで踊れるようになるなんて余程集中的に練習したのだろう。お金貰うプロなんだから当たり前、だなんて誰でも言える野暮はそれはそれ。素直にがんばり自体を評価してしまいたい。ファンなんだったらそれ位でいいんじゃないの?

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『大空で抱きしめて』と『Forevermore』の2曲、発売時期が近い事もあり昔でいう両A面シングルのように受け止めているが、どうもこういつもと違う感覚に戸惑っている。

昨年の『真夏の通り雨』と『花束を君に』は、わかりやすかった。こちらの2曲、曲調という面では陰と陽かという程対照的であったが、2曲を続けて聴くと「不幸に対して絶望に打ち拉がれていたが徐々に立ち直ってゆく物語」としてすんなり聴けた。両A面シングルとして捉えても、対照的であるが故にわかりやすかった。

『大空で抱きしめて』と『Forevermore』は、曲調も随分異なるが、それ以上に、そもそもこちらの"音楽に対する接し方"自体を別々にするよう要求しているようにみえる。

『大空で抱きしめて』は異様な曲である。近所のほのぼのポップソングで始まったかと思いきや大空に飛ばされて挙げ句大宇宙に放り出されるような、"聴き手が翻弄される"楽曲である。「…あれ?……あれれれ?」と言っている間に主人公の"しんの(真の・芯の)かんじょう(感情・勘定)"に巻き込まれてゆく。頭の中の世界の話である。

他方、『Forevermore』はリズムの起伏はあるものの、終始曲のムードは一定していて、イントロのストリングスさえ受け入れられば何も考えずに楽しめる。歌詞の卓抜さとか編曲の妙など穿てば幾らでも頭を使った知恵の後が散見され得るが、それもあクマでリスナーが心おきなくこの曲にノれるように、だ。安心して対峙できる楽曲といえる。

頭を掻き回される曲と、どんどん身体がノっていく曲。ほんに、曲調以前に、楽しみ方が対照的な2曲である。しかしテーマは結局貫かれていて、会えない人への思いの強さを歌った2曲でもある。この乖離と連続性の同居が奇妙な違和感というか"こちらの不慣れさ"を暴き出す。どちらも楽曲に魅了されているという点は共通しているのだが。

暗い曲と明るい曲を続けて聴くのにも抵抗のあるケースが少なくないのに、そもそもの聴き方を変えて接しないといけない2曲が続いた、というのは結果論ではあるがヒカルの芸風の幅広さを知らしめる事となった。正直、それがいいことかわるいことか判断できないくらいに戸惑っている。ライブで演奏する時は2曲とも演奏順に細心の注意を払わないといけないかもしれないね。

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