無意識日記
宇多田光 word:i_
 



日本人はベースに興味がない、という話。ギタリストは昔から人気がある。三大ギタリスト、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックなどは有名だろう。リッチー・ブラックモアは既述の通り異様な人気だ。エディ・ヴァン・ヘイレンやイングヴェイ・マルムスティーンなどは言うまでもないだろう。しかし前回記した著名なベーシストのうち、上記のギタリストたち並みに名前が知られているのはジョン・ポール・ジョーンズくらいか。ポール・マッカートニーは超有名だが別にベーシストとして評価されている訳ではない。

日本人がベーシスト、ベース・プレイに興味を示さない理由。正直に言えばわからない。しかし、常に書いている仮説ならある。

まず、日本の住宅事情だ。アメリカの家はデカい。お隣さんまで距離があるから大きな音で音楽が鳴らせる。日本は密集住宅だからそれに適さない。特に重低音というのは音量がなくては真価が発揮されない。つまり、そもそも低音が鳴らされていないという話。

もうひとつは、普段の可聴領域だ。日本語の発音は英語のそれに較べて低音が少ない。Rの発音のように喉の奥に空間を作ったりせず、口先で喋るような感じ。だからそもそも普段から低音に耳を傾ける機会が圧倒的に少なく、耳が低音に慣れていないのではないか。つまり、低音に慣らされていないという話。


低音が鳴らされていない事と低音に慣らされていない事。この2つがあわさって日本人の「低音への無関心」が形成されているような気がする。あクマで仮説に過ぎないが。


さて。そんな日本人に対して『Forevermore』は低音を派手に利かせてきている。嗚呼、漸く本題。ここにこの曲への評価の鍵…というか、好かれるか無関心かの分水嶺があるように思えるのだ。次回はそこら辺の話から。

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土曜日の晩にきいた「ZABADAK楽屋におけるDEEP PURPLE論争」は笑った。要はディープ・パープルが好きな人と嫌いな人が言い争いになったという話なのだが、「ミュージシャン同士が好き嫌いを論じられる」という点に於いてパープルが如何に日本で有名なのかがわかる。もし知らないバンドだったら論争にもならない。好きだの嫌いだの言える位に何度も耳に入っていなければならない。パープルは偉大なのだ。

どれ位にパープルが偉大なのかといえば、70年代の昔から泣く子も黙るレッド・ツェッペリンと共に「2大ハード・ロック・バンド」として奉られ祭り上げられてきた程なのだ。

といってもこれは日本だけの話らしく。確かに、70年代の全米年間チャートを見てみても、ツェッペリンは上位進出の常連だがパープルは全くと言っていいほど出てこない。唯一、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」だけがヒットシングルとして記録されているが(「ハッシュ」も売れたぞ、とかツッコミが入りそうだ)、ぶっちゃけそれだけの一発屋である。正直、ツェッペリンとは、少なくともチャート・アクションにおいては全く勝負にならない。同じ土俵で勝負していたとすらいえない。ハードロック・バンドとしてツェッペリンに対抗できていたのはブラック・サバス(オジー・オズボーンの居たバンドだ)位なものだが、彼らはどちらかといえば「元祖ヘヴィ・メタル」だろうな。

なぜパープルがそこまで日本で人気だったのか。単純に、音楽が日本人向けだったのだ。同時代にエマーソン・レイク&パーマーが後楽園球場でコンサートを行った事からもわかるように、日本ではキーボードをフィーチャしたクラシカルなメロディーを織り込んだロックが大人気だったのである。この傾向は90年代まで続き、イングヴェイ・マルムスティーンなどはオリコンの"総合"チャートで週間1位をとり武道館で来日公演を行った。そういうのが好きな国民性だったのだ。

しかし、裏を返せば、日本では欧米で「ロックらしいロック」として人気のあるバンドの人気が低い。ツェッペリンとパープルが「2大ハードロックバンド」と呼ばれたのは、今さっき書いた通り日本でのパープルの人気が図抜けてたのもあるが、レッド・ツェッペリンが海外ほど人気ではなかった、という理由もあったのだ。即ち(海外からみれば)ツェッペリンの過小評価とパープルの過大評価が合わさって「2大」という形容が形成可能だった訳だ。


ツェッペリンの他にもザ・フー、先述のブラック・サバス、カナダのラッシュ、イギリスのモーターヘッドやアイアン・メイデンなど、海外では20万も30万も集めるフェスのオオトリを務めるバンドが日本では武道館すらままならない。ザ・フーなんてエアロスミスと抱き合わせで漸く来日できた、という位に人気がない。

なぜここまで格差が出来たのか。理由は結構単純だ。日本人はベースに興味がないのだ。ディープパープルはキーボードとギターに比重を置きすぎる余り、アレンジ面ではベースが殆ど存在感を示していない。ロジャー・グローヴァー(パープルのベーシストね)の技量が高いか低いか、かなり熱心なロックでもわからない。それ位何もさせてもらえないのである。

一方、日本で人気のないロックバンドたちには凄腕のベーシストが居並ぶ。ザ・フーのジョン・エントウィッスル、ツェッペリンのジョン・ボール・ジョーンズ、ブラックサバスのギーザー・バトラー、ラッシュのゲディ・リー、モーターヘッドのレミー・キルミスター、アイアン・メイデンのスティーヴ・ハリスなど、そのサウンドだけで圧倒する伝説級のプレイヤーが目白押し。

しかし、日本人は彼らに興味がないんだな。ではなぜそんな事に…という話からまた次回。ちゃんと続く予定よ。

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TBS日曜劇場「ごめん愛してる」の中盤で『Forevermore』のアコースティック・ギター・インストゥルメンタル・バージョンと思しき音源が流れた。オリジナルを聴き慣れているのもあるが、やはりドラマチックなメロディーラインだなと再認識。テレビドラマのバックグラウンドミュージックにうってつけなのは、リズムや歌を抜いても変わらない。

売上も好調で、iTunesStoreではドラマの放送がある度に3位付近に返り咲いている。逆にいえばまだまだ認知度を上げる事は可能で、開拓すべき余地が市場に残っているという事だろう。即ち、ここからドラマの視聴率が上がっていけばもう一伸びが期待できると。頑張れ日曜劇場。…と言っても、ググればここからの展開がわかってしまうリメイク・ドラマ。注目されても余計なネタバレが増えるだけかもしれず、居心地がいいかは微妙な所。このまま中空飛行を続けてくれた方が好都合ではあるかもしれない。


ヒカルの新しいツイートはコードの書き方について、だった。B♭mにB13を汚く書くと読みづらい、という話。このコード、直接には今までのヒカルの曲にあまり出てこなかったかもしれない。ちゃんと参照した訳ではないけれど。もしかしたら、また誰かと共演しているのかも。

ここ20年余りヒップホップカルチャーがアメリカンポップス(っていう言い方は皮肉にしかならないが)の中心を占めるようになってコラボレーション、つまりクレジットの上ではフィーチャリングがどどんと増えた。更に2010年代に入って"DJの世代"に入ると、彼らが歌う訳でもないのでフィーチャリングの人数がどんどん増えていき、最近では一体何人名前を連ねるの、結局一体この曲は誰の曲なの、という事態が増えてきた。

これは、アメリカの音楽市場のメインストリームがストリーミングに移りつつある事と因果関係があるのだろうか。クレジットが長くなればなるほど、プレイリストを侵食できる機会が増えるとするならば、今後2〜3年はこの傾向が続くのかな。海の向こうの事情は知らない。いやこっち側の事情も知りませんが。そのうち長大クレジットに対する対処もストリーミングサービスの中で出されていくかもしれない。そっちが先、かな。

海のこちら側である我々はそんな事を気にする必要はない。ヒカルの場合自分がネタ切れになってアルバム用に10曲以上揃えられなくなってきたら誰かの手を借りる傾向がある。間違ってもアルバム全体がフィーチャリングで埋め尽くされる事はない。とすると、B♭mB13はたまたま珍しいコードで歌ってみただけ、なのか或いは既にネタ切れ…アルバム制作終盤戦なのか…? まだちょっと早過ぎるな。焦らず行こう。

…でも、油断は禁物だよね。『This Is The One』が前のアルバムから間隔1年弱で出たんだから。

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『大空で抱きしめて』は『Forevermore』とは対照的に、殆どベースが聞こえない曲である。いや、鳴ってるのかなこれ。鳴ってたとしてもメタリカの「メタル・ジャスティス(...and Justice for All)」並みにベースの音が小さい。ベースレスみたいなもんじゃないだろうか。

それだけに、クリス・デイヴの役割は大きい。リズムの起伏を殆どひとりで担っている。ギタリストの"奥ゆかしいが自信に満ちたいい仕事"がなければ独壇場と断じていた所だ。

特にこの曲は、導入部から奏でられるあの「ほのぼのスキップビート・キーボード」がサビメロに至る頃には消え失せているという独特の構造をもつ。メロディーの推移に沿って曲調が変化していくのだ。それでも最後まで軽快さを失わないのは、前にも触れた通りクリスのリズムが一貫しているから。

特にシンバル・ワーク(ハイハット…要するにシーシー鳴ってるヤツね)には注目だ。最初から件の「ほのぼのスキップビートキーボード」にシンクロしたリズムを奏でているのだが、既述通りキーボードは途中で消え失せ、次第に重厚なストリングスたちにとって代わられていく。しかし、クリスのシンバルワークだけは一定なのだ。極端にいえば、この歌の"アイデンティティ(同一性・一貫性)"は彼のシンバルにある、のだ。ここが揺るぎないから曲調の変化が分断されず、流れるようなグラデーションの中で実現されていく。

しかし、奇妙な符割りである。中央で小さく刻む方はほのぼのスキップビートと全く同じリズムを刻んでいるのだが、中央やや左のシンバルは急に裏に移ったり表に帰ったりと妙に捉えどころがない。しかしこれが、キーボード主体の軽やかな場面では楽曲が浮つき過ぎないように印象を引き締め、ストリングス主体の重々しい場面では逆に飄々と"空気を躱して"すり抜けていく。ウワモノの変化に動じない、何とも頼もしい、しかし奇妙なリズムの打ち方である。

これがクリスの即興なら相当なセンスの持ち主だ。私は彼の事をよく知らないから「当代一の凄腕ドラマー」と言われても「へぇ、そうなんだ」としか返せないのだが、このプレイを聞かされるとただ巧いだけではない、楽曲の本質的な部分に編曲で踏み込んでくるような知性を感じさせられる。勿論、ヒカルが細かな譜面を渡して叩いて貰っている可能性も大いにある訳なのでそれがクリスの仕事だと断じるまではいけないのだが、少なくともこの奇妙で複雑なフレーズをたった1人で叩き切っているという時点で感嘆の念を禁じ得ないのだった。

つまりこれまたライブでの変化を楽しみにできる歌が現れたという事だ。このシンバルワーク以外を選択してくれば、この曲のグルーヴが変わるのみならず、この曲の構成美が与える印象にも変化を齎すだろう。最初に言った通り、感情の表現が構造に埋め込まれている楽曲なので、構造の変化は即ち感情表現の変化なのだ。それに沿ってヒカルの歌い方も自然に変わっていくだろう。ドラマーの人選とプレイの選択が歌に影響する。覚えとこな。

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まだ2曲だけだが、ヒカルの次作のサウンドは『Fantome』のそれとは随分と異なったものになりそうだ。

最も顕著―雰囲気の違いに貢献しているのはドラムだろう。前作の『Fantome』ではどちらかといえばカラッとしたドライな音色が支配的で、それは例えば『ともだち』でリゾートちっくな涼しみを演出したりと一役買っていた訳だが、今回は2曲まずクリス・デイヴの音色が先行して新たなる新鮮さを運んでいる。

どの音色も違うが、まずはバスドラのイメージが印象的だ。素の強度が強いのか、やたらと底が分厚いヴィジュアルを与えている。そこに(未だ名も知らぬ)よく動くベースが(特に『Fantome』では隙間を埋めていく為はっきり言って暑苦しい。それを心得てか特にエレクトリック・ギターの憚った距離の取り方が全体のバランスをとる。ヒカルのヴォーカルの音域もあって随分とサウンドヴィジョンの重心が下がった感。菱形だったのが二等辺三角形になったみたいな。

こうなってくると気になるのはホーン・セクション或いはプラス・セクションの位置付けだ。要するに喇叭隊、金管楽器群である。ヒカルの手にかかると、『You Make Me Want To Be A Man』を例にとるまでもなく、ラッパはスッカスカなアレンジに響く事になる。良し悪しは別にして、ホーンだプラスだと言ってもヒカルにはビッグ・バンドという意識がない。

これは弦楽器隊にもいえる事で、ヒカルはオーケストラよりストリングス・カルテット(/クインテット)を好む傾向だ。全体での迫力云々より、個々の出す音がよく聞こえるように、という意図だろうか。しかも、ソロ・パートではなく編曲として楽曲に編み込む時点でそう想定している。

『Fantome』ではその乾いたドラム・サウンドとスッカスカのホーン・セクションの取り合わせが独特の涼やかな空気感を出していた。音が押し寄せてきても盛り上がり切らない、どこか冷めた感覚を残していた。

それが次作では、未だ知的である事は大前提として、もっと熱を帯びたサウンドに変化するのではないか、という展望がたってきた。『大空で抱きしめて』も『Forevermore』も、いずれもストリングスの響きが『Fantome』よりより重厚により芳醇に変化している。更なる3曲め以降で喇叭隊が出現したタイミングで、アルバム全体のサウンド・イメージが掴めてくるだろう。まだまだ先の話でしょうが、楽しみにするのは罪じゃなかろ。

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『今までで一番がんばったビデオかな』『My Sweatiest MV to date.』―だなんて言われたら、貶そうにも貶せないじゃないか…っ!

…なぁんて、そんな事を言う必要もなく。ビデオ自体は私も気に入っているので気を遣わなくてもいいのだ。ありがたい。ただ配信画質がポンコツだと愚痴っただけだ。カメレオンに関しては唐突過ぎて演出不足で特に日本人(?)を相手にしている事を考えると不十分だが自分は特に嫌いじゃないし余計だなとは思わない。ただ、こんなんじゃ不評の声が聞こえてきちゃうだろう、という予測をさせるという意味では余計だった。ちゃんと映像で"説明"すべきだったな、とは思うぞ。

ダンス自体は、まず発想がいいよね。「まさか踊ってくるとは思わなかった」と多くの人が思った筈だ。もうそれでプロモーションとしては大成功。申し分なし。

コンテンポラリー・ダンスというと、トラディショナルなダンスを踊れる素養のない人たちに対して"逃げ"として用意されているジャンル、と書くとかなぁり誤解されそうだが、まぁそう書いとこう。でもそういうアティテュードってヒカルが『荒野の狼』で『輩(やから)』と呼んで蛇蠍の如く嫌っている人種じゃないの?という疑問は、ある。私の方はといえば毎週(でもないけど)月曜日に"なんちゃって意識高い系のアイドル"であらせられるルー子さまの一言を熱心にリツイートしている事からもわかる通り、そんなに嫌いじゃない。なんというかこの段落、コンテンポラリー・ダンスに真剣に取り組んでる人に謝れ。

でもメタルバンドが歌えるボーカルが見つからなかったからって正統派を諦めてギタリストに吠えさせてメロデスやってるようなもんでしょ?(とてもわかりにくいたとえ) いいじゃない、逃げであれ何であれ表現をし続けるのであれば。何かしらやってればいつか当たるかもしれない。

ヒカルだって、まず「踊ってみた」のだ。7年前には『Goodbye Happiness』のミュージックビデオで「歌ってみた」のパロディに挑戦した訳だが、それはプロ中のプロだからこそ出来たこと。滅茶苦茶歌の上手い人が素人みたいに振る舞ったからパロディだ。

今回は、私もダンスの事はわからないが、きっと踊れる人は踊れちゃうんじゃないか。もし仮にYouTubeで『Forevermoreコンテンポラリーダンス踊ってみた選手権』を開催して踊ってみた動画を募ったらヒカルより上手く踊る人続出なんじゃないの。ヒカルの歌を歌ってみる人たちはどう足掻いてもヒカルを超えられないからこちらも微笑ましく毎度聞かせて貰ってるが、踊ってみたで本家超えをされたら……ん、もしかしてそれはそれで面白い、かな? まぁ私はやりませんが(断言)。

ともあれ、ヒカルが『一番がんばった』と言い切ったのだからこのミュージックビデオは宝物である。好き嫌いを超越した「汗の結晶」だ。幾らセンスがあろうと初心者が短期間でここまで踊れるようになるなんて余程集中的に練習したのだろう。お金貰うプロなんだから当たり前、だなんて誰でも言える野暮はそれはそれ。素直にがんばり自体を評価してしまいたい。ファンなんだったらそれ位でいいんじゃないの?

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『大空で抱きしめて』と『Forevermore』の2曲、発売時期が近い事もあり昔でいう両A面シングルのように受け止めているが、どうもこういつもと違う感覚に戸惑っている。

昨年の『真夏の通り雨』と『花束を君に』は、わかりやすかった。こちらの2曲、曲調という面では陰と陽かという程対照的であったが、2曲を続けて聴くと「不幸に対して絶望に打ち拉がれていたが徐々に立ち直ってゆく物語」としてすんなり聴けた。両A面シングルとして捉えても、対照的であるが故にわかりやすかった。

『大空で抱きしめて』と『Forevermore』は、曲調も随分異なるが、それ以上に、そもそもこちらの"音楽に対する接し方"自体を別々にするよう要求しているようにみえる。

『大空で抱きしめて』は異様な曲である。近所のほのぼのポップソングで始まったかと思いきや大空に飛ばされて挙げ句大宇宙に放り出されるような、"聴き手が翻弄される"楽曲である。「…あれ?……あれれれ?」と言っている間に主人公の"しんの(真の・芯の)かんじょう(感情・勘定)"に巻き込まれてゆく。頭の中の世界の話である。

他方、『Forevermore』はリズムの起伏はあるものの、終始曲のムードは一定していて、イントロのストリングスさえ受け入れられば何も考えずに楽しめる。歌詞の卓抜さとか編曲の妙など穿てば幾らでも頭を使った知恵の後が散見され得るが、それもあクマでリスナーが心おきなくこの曲にノれるように、だ。安心して対峙できる楽曲といえる。

頭を掻き回される曲と、どんどん身体がノっていく曲。ほんに、曲調以前に、楽しみ方が対照的な2曲である。しかしテーマは結局貫かれていて、会えない人への思いの強さを歌った2曲でもある。この乖離と連続性の同居が奇妙な違和感というか"こちらの不慣れさ"を暴き出す。どちらも楽曲に魅了されているという点は共通しているのだが。

暗い曲と明るい曲を続けて聴くのにも抵抗のあるケースが少なくないのに、そもそもの聴き方を変えて接しないといけない2曲が続いた、というのは結果論ではあるがヒカルの芸風の幅広さを知らしめる事となった。正直、それがいいことかわるいことか判断できないくらいに戸惑っている。ライブで演奏する時は2曲とも演奏順に細心の注意を払わないといけないかもしれないね。

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にしても配信の画質は相変わらず。5分の曲のミュージックビデオの容量が70MB行かない、ってハイレゾファイルより軽いやんか…。今時お金を取るなら画質はBluray以上4K未満、60fps、音質は当然ハイレゾでしょ。確かにこのサイズだとダウンロードトラブル多発だろうから現実味ないけれどそりゃあBluray-Videoで出せばいい。YouTubeじゃ1080pの高画質動画が無料で沢山みれるのにそれより遥かに劣る画質のビデオを400円で売るとか一体何なのだろう。迷わず買った人の言うセリフじゃないですが、せめて映画みたいにSD画質とHD画質の2種類を売ってくんないかな。不可能じゃないと思うんだが。

あいや勿論、Blurayでミュージックビデオ集をリリースしてくれるんならそれで万事OKですのよ。DVD出してくれても両方買うけど。

私は画質にそんなに拘る方じゃない筈なんだが、流石に普段観ている動画の数々より目に見えて画質が低いと再生した瞬間に「あちゃー」となったよ。なんでだろうね、昔は音質にこだわるあまりCCCDすらつっぱねたチームなのに、あんな低画質なオフィシャル・リリースを許していていいんだろうか? 音楽配信は、例えばiTunes Storeではビットレート256kbpsのaacファイル(拡張子はm4a)だけど、これを「48kbpsのmp3ファイルで売りますよ」って言ったら断るでしょ? 今ビデオでそれやってんだよね。別に目を見張る程美麗でなくたっていいんですよ。ただ、周りの環境がもう変わってるんですよ。スマートフォンは大体Bluray画質の動画を再生出来るんです。タブレットやPCなら尚更。うちのディスプレイの解像度は(メッセのスクショサイズでバレてるかと思いますが)3200x1800なので、ミュージックビデオの配信動画の画質は、そりゃあ粗いですよ…。

先程言った通りミュージックビデオを収録したBlurayを単独でも付録でもどこかでオフィシャルリリースしてくれたらこの愚痴っぽい評価はテノヒラクルーしますので、悪しからず。でもそれまでは愚痴るぜ。


ただ、クリエイティブに関しては、画質へのこだわりはもう流石に避けて通れない気がする。デジタル世代に入って、例えばテレビでのスポーツ生中継はカメラワーク自体が変わった。サッカーなどは、解像度が上がったお陰で多少引きの絵でも背番号が読める、顔もわかるという事で俯瞰と局所展開の把握が両立させやすくなったのだ。精度が上がれば表現方法も伝達方法も共に進化するのである。

そこまでいかなくても、例えば映画館の銀幕とお茶の間のテレビでは大きさが違うせいで画面の使い方がまるで違う。劇場版を家で見ていてなんか変に感じるのはこの為だ。映画館なら群雄割拠を引きの絵で描いても様になるが家のテレビだとゴチャゴチャするだけ、なんて事がよくあった。

映像作品を商品としてオフィシャルリリースするなら、そういった要素にも気を配るべきだ。解像度の違いによって作品自体が変質する可能性などを視野に入れていこう。でないと、悪い意味で「宇多田の映像は古臭い」と言われていきかねない。


勿論、私が音源に対して常々「AMラジオから聞こえてきてもちゃんと聴けるようなサウンドを」と言ってるのと同じように、映像作品に関してもたとえ低画質で再生されてもある程度魅力が伝わるようにする工夫は必要だ。しかし、自ら音質/画質を落として提供すべきだと言っている訳ではない。ハイレゾ音源同様、配信映像もこだわりのクォリティーを見せつけて欲しい。折角今のヒカルは(相変わらず)美しいのだから、ワンカットでも多く捕らえて後世にその美しさを伝えましょうぞ。…結局の所私の本音はそこにあるんですか…?(汗)

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『Forevermore』のミュージックビデオ配信販売開始に伴い、メイキングのダイジェスト映像約5分も公開された。いやはや、成り行きでダンスが難しくなっていったのか。あの様子だと、ダンスをし始めてたから踊ってみたというよりは、ここで踊ろうという事で踊り始めたようだ。それであの出来なのだから恐れ入る。ほぼ初心者じゃん。

で、監督から例のエンディングのカメレオンに関するコメントがあった。曰く、「新しい曲、新しい時代が生まれた象徴」なんだそうな………


………そんだけ?


やれやれ、一瞬でも期待した私が馬鹿だった。つまり、何も考えてなかったのね。大方の予想通りか。

何しろこちらはシャフトによる西尾維新の物語シリーズのアニメ化の一区切りに立ち会った所なので、どうしたって映像ワンカット毎にしっかりした意味を求めてしまう。原作からして全体の構成力は突出しているのだが、シャフトにかかれば映像にすら総てのカットに構造的な由来を付する事が出来ると思い知らされたばかりだ。まぁシリーズ始まってもう8年?とか経つので"今更な感心"ではあるのだけれど。

なのでややi_さんの筆致が辛辣になっている可能性がある。もう一週間前だったらこんな風にはならなかったと思われる。

で。カメレオンは結局「新生の象徴」でそれ以上の意味づけは期待出来なさそうだ。問題なのは何故それがウミガメでもカモノハシでもなくカメレオンなのかという点なのだが、時々居る(いや多数派なのかもしれない)英欧の映像監督の傾向だろうか、「ロジックに関心を払わず、フィーリングとインスピレーションで表現する」というタイプなのかもしれない。

これは国民性の差とすら言えるかもしれない。日本人は歌詞にストーリーを求めるので、彼らがリズムや語呂を組み合わせただけの歌詞を歌うのが理解できない。「これどういう意味なの?」「意味なんてないよ?」というやり取りはもう半世紀以上ずっと続いている。歌詞ですらそうなのだから、もっと直観的な映像分野では何をかいわんや。

いや、日本人だけがそういう面に厳しいという訳ではない。例えばピクサー作品なんかは(最近のは知らないけれど昔は)伝統的に、それこそ日本のアニメと同様に「ワンカット毎に緻密に意味を持たせる」事を得意としてきた。国や言語で分けるのは少々乱暴なのだ。兎に角、今回我々はそういう直観的な映像監督にぶち当たった、というだけの話だ。

ほんの少しの気配りの差なんだけどなぁ。例えばカメレオンの誕生場面の後に、実は今までのダンス風景は親カメレオンの眼球に映った映像でしたというズームによるカットを入れる、なんていう結構安直な映像を追加するだけで感想はガラリと変わる。それだけで視聴者は「これは親が子を奪われたという事なのか? それとも彼女(親カメレオン)は夢でも見ている? ヒカルは生命を司る精霊のような存在なのか?」と際限なくストーリーを考えてくれる。ほんの少しインスピレーションに対して関係の言及を行うだけでいいのだ。それを今回の監督はしなかった。それだけである。

例えば今度ミュージックビデオを集めたBlurayをリリースする時にエンディングを延長したバージョンを収録したりなんかすれば面白いんだけどな。それ位はやってもいいと思うぜよ。なんか、色々と勿体無いミュージックビデオである。勿論私は全然嫌いじゃないんだが。

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J-popファンにはお馴染み田家秀樹(たけひでき)さんのラジオ番組「J-pop Talking」で佐野元春がこんな事を言っていた。


「僕は自分の事を詩人と思ってない。詩人とは活字としての言葉を繰る文学的な人たちだと思うんだけど、僕は“言葉+ビート&ハーモニー”、そしてそれを統括する"デザイン"ですよね。詩人のやる事とは違う事をやってると思う…」



非常に示唆に富んだ発言だ。というかこれから書きたいテーマに対して非常にいい口火と思い書き起こさせてうただいた。

佐野元春が言っているのは「詩と詞の違い」或いは「詩人と作詞家の違い」である。詩は、オーソドックスには例えば詩集という書籍の体裁で人々の目に留まる。人々に知られる。勿論ここには"朗読"という方法もあって、耳から詩を感じ取るケースも多々あるのだが、まずは詩は目で読む字で出来ている。

一方、詞―もっとはっきり言えば歌詞は、歌の言葉として耳から入ってくる。詩の実在が「字」ならば詞の実在は「音」なのだ。決定的に違う。

「字」は時間に対して不変である。勿論現実には紙に書いた文字は紙の劣化に伴って次第に(何十年・何百年・何千年に渡って)読めなくなっていくが、我々が理想的に「字」に期待するのは不変そのものである。

一方「音」は空気の変化だ。レコードやカセットテープやCDやメモリーカードは…究極的には「字」であって、本当に「音」に期待するものではない。「音」は再生されるその度ごとに空気に変化を与えそれが耳に伝わらなければならない。「字」と「音」は違うものなのだ。


ヒカルの「詞」と「詩」に対する態度が最も表れたエピソードは『テイク5』だろう。同曲の歌詞を書く時ヒカルは歌詞を書くのを諦め詩を書いた、と述べた。少しわかりにくいが、要するに本来歌詞としてメロディーとリズムに言葉を載せる際に当然の事としてやらなければならない幾つもの基礎的なポイント、例えば音韻(頭韻・脚韻etc.)、例えば抑揚や強勢の同調、例えばリフレインやそれに伴う伝統的な構成、などなどを悉く無視をして、ただ素直にメロディーに合わせて言葉を載せたのだ。ヒカルがここで歌詞として行ったのは「符割りを合わせること」くらいだったろうか。

従って『テイク5』はその歌詞だけで「詩」としての強さを持つ。メロディーを抜いてただ朗読をするだけでも通用するし、歌詞カードに印刷してある「字」だけで、「詩」として十分に成立する。我々の多くからしたら『テイク5』の言葉たちは歌詞としてなんら不服はないところだが、ヒカルはきっとちょっと悔しがっている。

とはいえ、ヒカルも「活字としての歌詞」については並々ならぬ拘りをみせたりもする。その昔11年前の『ULTRA BLUE』では一部の歌詞をカタカナで書き切ったり、語尾の文字間隔を変化させて文章を棚引かせたりと様々な工夫を凝らしていた。配信で買ったり、レンタルしただけだったりした方々は御存知ないかもしれない。お金に余裕が出来たらCDも買ってみましょう。いやフツーにデジタルブックレットつけてくれりゃいいんだけどね…。


近作では例えば「SAYONARA」という言葉を、『真夏の通り雨』では『サヨナラ』、『花束を君に』では『さよなら』と使い分けたりしていた。斯様にヒカルは「字」としての歌詞もかなり重視している。その点も踏まえて『Forevermore』の歌詞をみていきたい…のだが、今夜このあとその『Forevermore』のミュージック・ビデオの配信販売が始まるんだったな。梶さんがまた何か企んでるかもしれないから今宵はいつもなら書く「次回はそこら辺の話から」の一文は書かない事にするかな。

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「ごめん、愛してる」を見ていると"子守歌"がキーワードになっているなと思うが、前も触れた通り、ヒカルが次に"子守歌"を書いてくるかどうかに関しては興味がある。いや、特段ドラマ関連という訳でもなく、自作して子に歌って聴かせるとかしてないのかな、と。

即興で歌う、なんてのは歌手でなくてもする人は居る訳で、なんとなく子守歌っぽい歌を自作する事もままあろうが宇多田ヒカルがそれをやると次世代の子守歌スタンダードが生まれてしまう訳でさぁ大変。シンプルに考えれば既にそれは『ぼくはくま』で達成されている訳で、殊更今後力んで作ろうとする必要はないが、ダヌパの寝顔をみていて思わずついて出た歌をこちらに向かって公開するのに躊躇う必要もまた、ない。

発表されればその子守歌で育つこどもたちが幾らか出てくる。ダヌパだけは何ヶ月か何年か先にそれを体験しているが兎に角、ヒカルのメロディーが幼少の心に刻まれる機会になる事はあんまり言うまでもない。ただ、枕元で歌って聴かせるお母さん方から「音の高低差が激しくて歌いづらい」だとか「符割りが難しくてメロディーに歌詞が載せにくい」とかの"カラオケで宇多田を歌う時あるある"な苦情が来ないような曲調でないと、いけないだろうが。

こういう時フィジカルでシングル盤が出ないかなぁ、と思う。いや勿論表題曲ならいいんだけれども、シングル曲として大々的に売り出すにはパンチ不足だし、アルバムに入れようとしてもなんか一曲だけ雰囲気が違うし…というときに"シングル曲のカップリング曲として収録"というテが使えるか使えないかは大きい。シングルが配信限定になって久しいが、この手法を使えないのは地味に痛い。もっとも、ヒカル自身は「自分の曲は全部アルバムで聴けないとやだ(散逸させたくない)」という意志を持っているので、少々空気が合わなかろうがアルバムに入れてきてしまうと思うけれども。何しろ、『ぼくはくま』が玉座(アルバムラス前位置の事だろう、多分)にどん!と鎮座しているのだから、今更そんな事気にする必要はないかもしれないが。

そもそも『人魚』が既に子守歌風の楽曲で、しっかりアルバム曲として機能しているのだから、そういった心配はご無用なのかもしれない。いずれにせよヒカルお母さんの優しい歌声で歌われる子守歌はいつか聴いてみたいので、次作と言わずいつかどこかに収録してくれたら嬉しいなと思います。

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『Forevermore』のメロディーラインは、本来なら持つであろう「宇多田ヒカルならではの煌めきと輝き」をある程度犠牲にしている。これが全開になると『光』や『Apple And Cinnamon』のような曲が出来上がるのだが、『Forevermore』はAメロからサビに至るまでそういった"派手な動き"を見せず、中低音域を中心とした比較的地味なラインを取り続ける。

これを聴いて、「まるでロックバンドでヴォーカリストが出来上がったバンドサウンドに歌詞とメロディーを乗せろと言われた時みたいだな」と感じた。兎に角自由度が少ないのである。「これのどこに歌を入れたらええねん」とロック・ヴォーカリストはいつも悩む。例えば「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のイアン・ギランのように、はっきりとしたギターリフにあんなあやふやなメロディーラインをつける羽目になる。

それら(ってもう半世紀近く前の曲か)に較べれば、ヒカルは驚くほどよくやっている。ベースとドラムが生み出すグルーヴから外れる事無く、自由度の低い符割りとリズムの中を、綱渡りのようにメロディアスかつキャッチーなラインを捉えている。まるで25mのロングパットを決める時のように芝目を読み切って。ちょっと奇跡的ですらあるよ。

最も驚いたのは、ここまでリズミックなトラックを従えながら、まるで90年代のトレンディー・ドラマのエンディング・テーマ曲のような俗っぽいドラマティックさ、即ち壮大過ぎないが切迫した雰囲気を出すサウンド・トラック的役割を、きっちりと封じ込めている事だ。主体的にグルーヴにノる音楽としての完成度と、ドラマのバックで流れるサウンドトラック・バックグラウンド・ミュージックとしとの完成度をひとつの楽曲の中でどちらに対してもほぼ妥協する事なく高め切っている。綱渡り、ロングパットに加えて弾幕ゲー全ステージノーミスクリアのイメージだ。それをさも自然にまとめ上げて特別な感じを出さない。つくづく、凄い曲だと思う。

これは、「どこからでもメロディーを書ける」という自身からくるものだろうか。『Fantome』ではその自信と余裕を感じさせたのは『荒野の狼』くらいだったが、今回のアルバムではセカンド・シングルからいきなりこれである。無理矢理今後の課題を言うならば、更にここに『光』や『Apple And Cinnamon』のような煌めくダイナミックなリリカル・メロディーを乗せる事だが、まぁそれは次に譲る事にしよう。冥王星に放った探査機が無傷で地球に帰ってくるような難易度なんだがヒカルならいつかやってくれそうで本当に怖い。

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最初は今日から海外でも『Forevermore』のミュージックビデオが観られるようになる、という話だった気がしたが、取り敢えずそれは8月16日からになったようだ。もっとも、現実としては、多くの人が海外のサイトにフル尺でアップロードされたMVを既に観ている状態なのだが。

ミュージックビデオでヒカルはコンテンポラリー・ダンスを披露しているが、そのクォリティーや唐突なカメレオンの生誕以上に重要なのは、この方向性を選択した事実そのものだろう。

元々、全然踊らない人である。自分自身は勿論、バックダンサーすら滅多に起用しない。ニーズとしても、ダンサー雇う位ならバックシンガー、バックコーラスを充ててくれ、という方が大きいだろう。そこを踊った。しかも見る人にとっちゃ妙ちきりんなアプローチで。「コンテンポラリーダンスって、何?」という人も在るだろう。こっちだって知らないよ。

今回もヒカルが監督を務めた訳ではないようだが、かなりの割合で自らの要望は伝えているだろう。それがこういうかつてないカタチになった。つまり、曲自体に"かつてない"要素が存在する事になる。でなければヒカルはこんな風にはしなかっただろう。

「身体性の強い歌だから」というのがまずはあっさりした答である。そして案外、それで十分かもしれない。強力なリズム隊のプレイによって『Forevermore』は、心や頭が反応するよりも早く身体が反応するような躍動感に溢れている。取り敢えず踊りましょう、と。

身体を反応させる音楽的要素=グルーヴとは面白いもので、1人の演奏ではなかなか出せるものではなく、というか、1人で出してもサマになるものではなく、2人以上の演奏を同調させる事で始めて生まれる(サマになる)ものだ。即ち、身体性とは関係性であり外部性なのである。他者同士の一体感と違和感の混在にグルーヴは生じる。

一体感。体が一つになる感覚。違和感。和えるに違う感覚。混ざりながら混ざらない。ここに必要なのは明確な他者の存在だ。何ひとつ共感できない人間などなかなか存在しないし、総てにおいて共感できる存在など絵空事だ。人は、人々は皆その間のどこかで暮らしている。である以上、グルーヴは必ずどこかで生まれるのだ。

故に音楽の中でグルーヴを生むには、ソロシンガーとしてのアプローチより、バンドやユニットとしてのアプローチの方が適している。『Forevermore』はそこに不可避的なバンドサウンドの必要性を孕む。できれば、そこらへんの話を次回にでも取り上げたい―今度こそ、な(笑)。

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『Forevermore』の"バンド・サウンド"について書こうと思っていたが、なぜかもう少し『忘却』について付け加えたくなったので、ややステップ・バックしよう。

賛否両論溢れるリスナーの反応とは裏腹に、ヒカルにとって『忘却』は『Fantome』においてかなり大きな意味をもつ曲だっただろう事は余り疑いがない。たった2曲しか歌えないセッティングだった『30代はほどほど』において『人魚』と共に選ばれたのだから。

『人魚』の方は、ある程度予想通りだった。数ヶ月先とはいえ新しくタイアップが決まっていたし、スタジオライブとなると使える楽器が限られてくる。ハープとドラムスさえあればOKな『人魚』が選ばれるのは自然であった。しかし、もう一曲が『忘却』になるとは、ちばくん(KOHHね)がゲストに来るとアナウンスされるまで毛ほども私は思っていなかったのだ。14年ぶりのライブ・ストリーミング・パフォーマンス、もしかしたら何十万、何百万という人が観るかもわからない。ここは無難に『花束を君に』を歌ってくるかな、なんて思っていたのだ。(余談になるが、18年もやってるアーティストの最新曲が"無難な選曲"になるって凄いよね。発表から僅か半年で『花束を君に』はスタンダード・ナンバーのひとつとして認識され始めていた)

そこに『忘却』である。『忘却』と『人魚』。いいのか? 前も書いた通り『人魚』は殊更地味な曲だ。『忘却』は素晴らしい楽曲だが、肝心のヒカルは出番が半分もない。半分以上、ちばくんがでずっぱりで歌っているのだ。11曲のうちの0.5曲ならまだしも、2曲のうちの0.5曲って25%だ。視聴率だとすると凄い数字。いやそれは違うけれど、せっかくの貴重なライブストリーミング、ヒカルの歌声を存分に堪能したいという向きには何とも釈然としない選曲となった。

そんな事は事前に容易に予想できた筈だ。それでもヒカルは『忘却』を披露した。この曲に対する自信のあらわれだろう。更に年明けには同曲のミュージック・ビデオまで発表した。特にタイアップが決まった訳でもないのに何故だ。『Fantome』の"顔"ともいえる存在になった『道』にはミュージックビデオが存在しないというのに。ここらへんからも、『忘却』に対する重視の度合いがみえる。極端な話、『Fantome』の楽曲の中でも優遇度は屈指ではないだろうか。

珍しいのは、ヒカルがこうやって力を入れてプロモートした曲が、ただ反応が強かったり弱かったりではなく、"拒否反応"というカタチで出てきた事だ。いや勿論、別人の人間の歌声が入っているのだからいつもに較べて拒否が多いのは自然な事なんだが、ヒカルには珍しく、そういった"劇薬的"な要素を、オブラートに包んだり根回ししたりしながら徐々に提示していくのではなく、こうやってただひたすらこの曲を押し出してきた。本来の(というか、昔の?)性格からすれば、出来るだけ拒否反応が出ないようなセッティングに心を砕いた挙げ句に楽曲をリリースしようとするのがヒカルってもんじゃないの、と。

例えばもっとちばくんに親しみを持ってもらってから『忘却』を発表していたら、反応も大分違っていた筈である。彼にBlogを書かせてもよかったし、予めヒカルとの対談を雑誌やホームページで公開したりして、彼のバックボーンや生い立ちを知って貰った上で『忘却』の歌詞を耳にしていたら、違った感想を持ったであろうリスナーは少なくなかったのではないかと思えるのだ。それをせず、いきなりあの歌詞に、アーティスト写真を検索すればイレズミがどうのこうのと物騒で。極論すれば、曲を聴く前の段階から、ちばくんについて検索した人は「KOHHは得体の知れない人物だ」とマイナス・イメージから出発していた、なんて風にも解釈できる。また逆に、アルバムを聴く前にクレジットを確認せずに聴き始めた人にとってはいきなりヒカル以外の声が聞こえてきて面食らっただろう。それが"いい印象"に繋がる事は、なかなか期待できない。

そういったなんやかんやをすっ飛ばして、ヒカルは『忘却』を「どんっ!」と発表する事を選んだ。そこまで手が回らなかったのかもしれないし、意図的かもわならないが、現実としてそうなった上で我々は次のアルバムを待ち始めている。もし次作にまた"KOHH"の4文字が現れたら皆どんな反応をするだろうね。予想もつかないが、ヒカルにとって"新しい"のは確かである。

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ヒカルは長年(18年間)打ち込み系シンガーソングライターという独自の地位を築いてきたから、聴く方もそのつもりで聴く。これはヒカルの世界であってヒカルの歌であってヒカルの言葉である、と。耳を傾けるのは純粋に宇多田ヒカルとの対話である、そう無意識下に植え付けてきた。

故に、過度なコラボレーションはファンの不興を買う。前作でも幾つかコラボレーションがあった。人選からして特別感のあった『二時間だけのバカンス』や、ほぼバックコーラスのみの参加の『ともだち』などは大丈夫だったが、KOHHの語りを存分にフィーチャした『忘却』は大変な抵抗にあった。

『忘却』はヒカルが『Fantome』においてフェイバリット・トラックとして挙げている曲である。リスナーと作り手の感想は頻繁にズレるものだが、『忘却』の場合はそれが甚だしかった。KOHHが云々以前にまず「こちらは宇多田ヒカルの歌声が聴きたいのだ」という大前提としての価値観があり、それをまず反故にした上でKOHHの個性の強さが問題になった。まずは声自体の違和感に始まり、次にその歌詞の感触の違いから来る異物感に襲われ、最終的には「ゲロ」の一言によって汚物感に変わる。斯くして嫌いな人は徹底的に嫌いなトラックが出来上がった。

しかし本来コラボレーションとはそういうものだ。汚物感にまでもっていったのはKOHHの責任だが、異物感まではそもそもそれがコラボレーションの狙いである。違うものと混ざり合う事で生まれる新しい何かに期待してコラボレーションは為されようとするのだ。

バンド・サウンドというのは、恒常的なコラボレーションである。前回書いたようにリーダーに忠実な部下ばかりの集まりは最早バンドというよりソロ・プロジェクトだ。個々が自分のパートに一家言を持ち、それらをどう折り合わせていくかが醍醐味なのである。バンドにとって妥協や軋轢は殆どにおいて必然であり必要なのだ。

では果たして今回の『Forevermore』はバンド・サウンドと呼べるのだろうか。呼ばなくても何ら問題はないしどう呼ぼうが聴こえてくるサウンドに違いは出ないのだがそこら辺は一度考えてみる必要がある気がする。次回に続こう。

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