村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

唐錦

2016-11-14 23:48:21 | お勉強
今日は月に一度の研究会
写真のお菓子は
唐錦カラニシキ
綺麗で美味


からにしき【唐錦】
1,唐織りの錦。
中国産の錦。
2,( 枕詞 )
「裁つ」「織る」「縫ふ」などの語や
それと同音の語にかかる。



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都内某所の茶会へ

2016-11-14 00:32:25 | 茶事 茶会 
芭蕉忌や遠く宗祇に溯る 虚子
旧暦10月12日大阪にて亡くなった

今日は
都内某所の茶会へと出かける
予定ではサカチカさんちで菓子作りだったが
茶会のお誘いがあったので
そのサカチカさんと森金さんを無理やり誘い
菓子作りは土曜日に変更し

それなのに菓子作りは欠席自分勝手だと
少し反省

お道具持ちで有名な先生が
なさる茶会である
何が出るか
楽しみだ

広間にて続き薄茶
つまり濃茶と薄茶両方を頂く
菓子も主菓子と干菓子
立礼席では薄茶だが
菓子は亥の子餅
今日は亥の日だそうだ
胡桃が入って
美味しかった

掛け物も濃茶席は古筆
薄茶席は
四天王寺の国宝
扇面法華経冊子の時代の写し
美しいものだった
茶会は
勉強の場
その後
東博の歌仙展へと
また勉強の場を移動
充実した一日だ



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弁内侍ベンノナイシ

2016-11-12 22:30:36 | 女房三十六歌仙
弁内侍
べんのないし、
生没年不詳は、
鎌倉時代初期に活躍した歌人である。
『弁内侍日記』の作者。
女房三十六歌仙の一人。
藤原信実の娘。
藻璧門院少将の妹、
後深草院少将内侍の姉。
後深草院弁内侍(ごふかくさいん の べんのないし)とも呼ばれた。
(ウィキペディアより)


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紫式部ムラサキシキブ

2016-11-11 23:48:41 | 女房三十六歌仙
紫式部ムラサキシキブ
978〜1016
平安時代中期の女性作家、歌人。
『源氏物語』の作者
中古三十六歌仙、
女房三十六歌仙の一人。
屈指の学者、詩人である
藤原為時の娘。
藤原宣孝に嫁ぎ、
一女(大弐三位)を産んだ。
夫の死後、召し出されて
一条天皇の中宮・
藤原彰子に仕えた


今日は用事が無い
きのうが松山日帰りだったので 疲れているだろうからと
用事を入れなかったのだが
お昼頃
昨日松山にご一緒した
サカ様から電話があった
私はゴロゴロしていたのにサカ様は茶道部の文化祭の用事で今日も明日も
茶会の支度に走り回っているとのこと
サカ様の年齢は84歳だとか
お茶の人は凄い


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松山城二之丸茶会

2016-11-11 00:31:27 | 茶事 茶会 
松山や秋より高き天守閣 子規



今日は愛媛県の松山
友人が茶会をするので
朝早いJALの飛行機で松山へ
帰りは夕方の飛行機
羽田に夜七時過ぎに着いた
松山日帰り茶会の旅だ

茶会は松山城二ノ丸庭園
気持ちの良い広い庭園に
瀟洒な茶室が点在
濃茶席と薄茶席と点心席を回る
薄茶は表千家の先生
濃茶は友人の席持ち
受付は娘様と息子さんに妹さんがお手伝い
旦那様もお顔を拝見賜る機会もあり
家族全員のちからと
温かい愛情とで茶会はなり立っている
素晴らしい美しいと
賛美はつきない
茶席の道具は
席主そのままの
清潔で高雅
花はご覧の通り
見事なる姿
ちらと見える軸は円能斎筆




ハーブの音楽を聞きながら
濃茶のお菓子を頂く
薄茶席ではそれがBGMになり
心地よい
幸せいっぱいの茶会に
仲の良い友人たち12名
参加できたことも
実に嬉しい


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閑坐聴松風

2016-11-09 22:41:17 | 村雨庵 稽古 
妙心寺派玉龍寺
宮前守愚筆
閑坐聴松風
 かんざして
 松風を聴く

今日は水曜稽古
お昼頃からお弟子様が順にいらして
それぞれ炭と濃茶薄茶を稽古して
帰る
濃茶点前は三名ずつ点てる
二回や三回は客になり濃茶を飲む
あまり濃いお茶は二服や三服は飲めない
ほどほどの濃さにて練るようにと
お弟子様には言う


濃いと
茶碗にべっとりついてしまい、
それを清めると
いつかは
配水管
ドロドロ詰まる

ある茶人の茶会では
濃いめの濃茶の後に湯を入れ
薄茶を点て皆に回してくれた

濃茶は高価だ
それを残らず飲むのならまだしも
残して
建水に捨てるのは
もったいない

捨てる茶をなるべく少なく
程々の濃さにて練るように
お弟子様にお願いしよう


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晴れ曇る

2016-11-09 01:04:18 | 紫廼茶話会
晴れ曇る空にぞ
冬も知りそむる
時雨は
峯の紅葉のみかは
  藤原定家


このところ
どこか忙しく
家のことの心配もあり
心も体も荒れているような感じがしていた
そんな時
お稽古に出かけると
待合は
酒井抱一の椿の画
本席は光悦の軸
道具畳は長板に
仁清の水指
茶入は織部
茶碗は古萩

良い茶道具をみるやいなや
ぼーっと曇っていた脳は
シャキーンと冴え渡る
ぼんやりせず
しっかり集中して
ちゃんと観ないといけない

穴があくようには見ない
軽くその当たりを
行ったり来たりして
見るのだ
ふらふらと見ていながら
確認と感動の引き出しを
開けたり閉めたりする
気が付くと
肩の力が抜けて
リラックスしている
自分に気がついた

お茶は
心と体を癒やしてくれる
と実感


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後鳥羽院下野ゴトバノインノシモツケ

2016-11-07 22:29:38 | 女房三十六歌仙
後鳥羽院下野
(ごとばのいんのしもつけ、生没年不詳)、
鎌倉時代初期に活躍した歌人である。
女房三十六歌仙の一人。
日吉社小比叡禰宜祝部允仲の娘。
源家長の妻。
源家清、藻璧門院但馬の母。
信濃とも呼ばれた。


皇后宮(坊門院範子内親王)に出仕後、
1203年(建仁3年)頃、
後鳥羽院に出仕、
翌1204年(元久元年)頃、
後鳥羽院歌壇の有力メンバーであり
『新古今和歌集』編纂にも携わった
源家長の妻となり、
歌人として頭角を顕す。
当初は信濃と呼ばれたが、
1206年(建永元年)8月までには
下野と呼ばれるようになっている。



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壷荘付花月の順

2016-11-06 23:11:34 | 羊遊会
今日は羊の会
七事式の会だ
且座と壷荘付花月と
貴人清次花月

まずお汁粉を食べ
且座をする
以前自分でブログに上げた
且座の順を見直して確認する

炭が終わり香盆を出すころ
炉と風炉とは順が異なる

風炉は
風炉中拝見があるので
灰器も炭斗も下げて
風炉中拝見の後に
香盆を出し帰りに
茶入を棚から下ろしかざる

炉は灰器を下げ
香盆を出し
帰りに棚から茶入を下ろし
炭斗を下げる


壷荘付花月の順

迎付終われば客は袱紗腰
そのまま八畳のまま
折据持出仮座に座り
どうぞ折据お回しを
月花名乗り月壷取りに
口緒解き袋脱がして壷荘
拝見終われば口緒残して
袋に入れ席に着く
花口緒胸壷持ち帰る
同時に客は四畳半
壷月の前運び出す
茶碗建水仮座につくと初花は動く
花建水で席の繰上
薄茶三服
月真行草終えて飾れば
札中央に置直し「松」と名のる
そして花月にすぐ参加
壷荘付花月の順


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小大君コオオキミ

2016-11-05 23:03:40 | 女房三十六歌仙
小大君
こおおきみ、
天慶3年(940年)から
天暦4年(950年) - 寛弘2年(1005年)
もしくは寛弘8年(1011年)頃)は、
平安時代中期の女流歌人。
系譜が伝わらず父母については不明である。
三十六歌仙、および女房三十六歌仙の一人。

はじめ円融天皇の
中宮藤原媓子に女房として仕え、
のち三条天皇(居貞親王)の東宮時代に
下級の女房である女蔵人(にょくろうど)
として仕え、
東宮左近とも称された。
藤原朝光と恋愛関係があったほか、
平兼盛・藤原実方・藤原公任などとの
贈答歌がある。

『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に
20首が入集し、
特に『後拾遺和歌集』では巻頭歌
として採られている。
家集に『小大君集』がある。
散逸家集『麗華集』の断簡
「香紙切」や、 
三十六人集の断簡「御蔵切」の筆者に
擬せられているものの、
研究の進展でこれらは
院政期の筆跡と考えられている。
(ウィキペディアより)

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松風様の古希を祝う茶事

2016-11-05 00:43:35 | 茶事 茶会 
松風さんが古希になった
それを祝い
お弟子様のミカワさんが
友人のバイ様とお二人で
お祝いの茶事を披くという
有難くも
お供に私達もお誘いを受けた

今日は茶事 
すごく良い天気
場所は松戸から新京成に乗る
駅に着いたらタクシー

茶事は始めに待合で汲みだしを頂き
露地に出て迎付



蹲いを使い席入り
本席にて挨拶すると
始めに濃茶薄茶として
聞香
久々に伽羅の香を聞く
そののち席を変わって
別のお部屋へ動く
膳が運ばれ
四つ椀にお向
煮物椀を頂戴すると
亭主半東ともお持ちだし
ワインとケーキ
お料理もパーティーのよう



楽しいお喋りに
これまた美味しいお煎茶
フルーツと
ケーキ
珈琲と
楽しいお喋りは続く
ときわ木のお菓子をお土産に頂いて
大事に帰路についた

さすがミカワ様は大人の女性
おもてなしもスマート
感心至極
互いにお茶をしていたからこその一会
喜びを噛み締め
帰りの車中は 爆睡


神無月
しぐれてさむき
袖がきに
なほ盛なる
白菊の花    一葉

樋口 一葉
ひぐち いちよう
1872年5月2日(明治5年3月25日)-
1896年(明治29年)11月23日)、
東京生まれ。本名は夏子、
戸籍名は奈津。
中島歌子に歌、古典を学び、
半井桃水に小説を学ぶ。
(ウィキペディアより)

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小侍従

2016-11-03 23:23:01 | 女房三十六歌仙
小侍従
(こじじゅう、
生没年不詳:
1121年(保安2年)頃 - 1202年(建仁2年)頃)
は、平安時代後期から鎌倉時代の歌人である。
女房三十六歌仙の一人。
石清水八幡宮護国寺別当光清の娘。
母は小大進。
太皇太后藤原多子の女房として
出仕したため太皇太后宮小侍従
あるいは大宮小侍従と呼ばれ、
また『平家物語』等に記されたエピソードから
待宵の小侍従(まつよいのこじじゅう)
として知られる。
『源平盛衰記』では、高倉天皇の在位中は
阿波の局と名乗っていたとする。


女房として二条天皇、太皇太后多子、
高倉天皇に出仕、
1179年(治承3年)に出家した後、
再び多子に出仕した。
この間に多数の和歌を詠み、
私家集である『太皇太后宮小侍従集』、
『小侍従集』、及び
『千載和歌集』以降の勅撰集、
その他私撰集等に作品を残している。
(ウィキペディアより)


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炉開いて

2016-11-03 00:56:02 | 村雨庵 稽古 
炉開いて美しき火を移しけり
草城

日野草城は
(1901~1956) 俳人。
東京生まれ。
本名,克修(よしのぶ)。京大卒。
「旗艦」を創刊して「ホトトギス」を離反,
自由主義の立場から無季俳句・連作俳句の
新興運動を実践した。
(大辞林より)


今日は開炉
冷たい雨も降り
すっかり冬の気温
大きな炉釜から上る湯気が
やけに白く温かい

昔は必ず炉開の正午茶事をした
お稽古でもおしのぎを出したり
茶会のようにしてみたり
粟善哉やお汁粉出したり
何かしらしたのだが
今年は何も出来なかった

今日は
ふくべの炭斗に呉須赤玉香合
長板一つ置
水指は芋頭の水指
掛け軸は
上田義山筆
花入は竹の一重切
花は庭の嵯峨菊に
姫沙羅の照葉

先週は名残
今週は炉開
1週間でもがらっと変わる
点前も道具も変わる
同じ道具ばかりだと私はすぐ
飽きるのだが
半年ごとの炉風炉の道具替えが実に新鮮で
飽きそうな気持ちを抑えてくれるのだ

今年も何とか
炉開きを迎えられたから
炉開きおめでとう



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和泉式部

2016-11-01 23:07:35 | 女房三十六歌仙
和泉 式部
いずみ しきぶ、
天元元年(978年)頃 - 没年不詳)
平安時代中期の歌人である。
越前守・大江雅致の娘。
中古三十六歌仙、
女房三十六歌仙の一人。

越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。
はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ
太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい
(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。

長保元年(999年)頃までに
和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。
後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。
道貞との婚姻は後に破綻したが、
彼との間に儲けた娘・小式部内侍は
母譲りの歌才を示した。
帰京後は道貞と別居状態であったらしく、
冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、
身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。
紫式部は和泉式部を評して
「和泉式部といふ人こそ、
おもしろう書きかはしける。
されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と
『紫式部日記』に記されている。

為尊親王の死後、
今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。
親王は式部を邸に迎えようとし、
正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。
敦道親王の召人として一子・永覚を設けるが、
敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。
寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、
一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。
長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。
万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが
晩年の動静は不明。
(ウィキペディアより)


小倉百人一首56番
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」



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