仲間と共有する認知経験が、このように私たちの現実感や物事の存在感の基礎になっていますが、この仕組みは自覚できません。私たちは、単に、物事が客観的にそこに存在している、としか感じません。人類の文化が発展し、文明が発達するほど、現実の客観性は強くなっていきます。高度な文明社会の中で育つ現代人は、仲間の存在とは関係なく、むしろ自分一人で物事を客観的に見て取っていると思い込んでいます。客観的現実というものは当然、そういうものであるはずです。私たちは、客観的現実の中に自分が置かれているから、当然に、自分が周りの現実を感じ取っているのだ、と思い込んでいます。人類の文化も言語も文明も、すべて、人間どうしがこのような現実認識を共有していることを繰り返し互いに確認しあうシステムとしてできあがっているからです。
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