逆に言えば、欲望、意志あるいは意図といわれるものは、そういう仕組みで現れてくる錯覚の一種である。先ほど仮に設けた拙稿本章の仮説を進めれば、そういうことになる。
しかしさて、本当に、そうなのでしょうか?
拝読ブログ:<上海>ルーズベルト・ステーキハウス、すべて最上級の喜び
拝読ブログ:オーラ研究
逆に言えば、欲望、意志あるいは意図といわれるものは、そういう仕組みで現れてくる錯覚の一種である。先ほど仮に設けた拙稿本章の仮説を進めれば、そういうことになる。
しかしさて、本当に、そうなのでしょうか?
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もしそうであるとすれば、私が自分の気持ちだと思っているものは何なのだろうか?
自分の気持ちというものは、私たちの身体がどう動くかを自分で観察することから逆にさかのぼってその原因として想像されるもの、ということになる。あるいは、身体が動く前であっても、これからどう動いていきそうか、というシミュレーションから来る予測を使って、その原因となりそうな気持ちを想像して、それを私たち自身の気持ち、と思い込む。
その気持ちをその行動を起こす原因となる欲望、意志あるいは意図と思い込む。そういう仕組みが私たちの脳には備わっていることになる(拙稿10章「欲望はなぜあるのか?」)。
拝読ブログ:わからないから面白い。
拝読ブログ:スロー時の気持ち [ダーツ]
人間の動きも、ほかの生物と同じように、身体が自動的にそう動くように作られているからそう動くのではないか? すくなくとも、そうだとするほうが話は簡単です。拙稿本章では、いちおう、この考え方を仮説として採用してみます。私たちの行動は、私たちの身体の具合だとか身体内部の状態、過去の記憶、それと、いい匂いがするとかいう身のまわりの環境からくる感覚だけで無意識に機械的に決まってしまう。 そのたびに少し違う行動をとったとしても、それは機械的なゆらぎのようなものにすぎない。とりあえず、そういうことだとしましょう。
そして、そうして機械的自動的に決まった自分の行動を見て、私たちは、後から理由をつけて自分で決めたことにしているのである、としましょう。
拝読ブログ:「脳と魂」養老&玄侑(33)
拝読ブログ:崩壊 α
人間は考えてから考えたとおりに動く、と私たちは思っています。コーヒーを飲もうと思ってコーヒーを飲む。ミルクを飲もうと思って、ミルクを飲む。あたりまえですね。
では、生まれたばかりの赤ちゃんはミルクを飲もうと思ってお母さんのおっぱいに吸いついているのか? どうも赤ちゃんは自分がミルクを飲もうとは思っていないようです。赤ちゃんは何も思わず、ただおっぱいに吸いついている。
人間以外の動物を観察すると、その動きは考えて動いているようには見えない。子牛は母牛の乳房から牛乳を飲もうと考えて乳房を吸うのか? 蝶々は、蜜を吸おうと考えて花にとまるのか? インフルエンザウイルスは増殖しようと考えて人体に侵入するのか? どうもそうではない。自動的にそう動くように生物の身体が作られているだけでしょう。
人間だけがコーヒーを飲もうと思ってコーヒーを飲む。どうもおかしいですね。
拝読ブログ:ミルク記念日
拝読ブログ:母性は本能プラス経験・オランウータンから学ぶ
心理学の実験によれば、似たような見掛けの(実は同一商品の)四足のストッキングを並べられて、好きなものを選ばせられると、被験者は右手に近いところに置かれたものをとる傾向が強い。しかし、それを選んだ理由を問われた被験者の答えは、全員が、自分の好みを選んだ、というものになる。被験者は「こちらのほうがソフトな感じで好きなのよ」などと答えるのです(一九七七年 リチャード・ニスベット、ティモシー・ドカン・ウィルソン『分からないことまでしゃべってしまう』)。
そして私たちは、いったん自分で口にしてしまうと、それが自分の考えだと信じて疑わない。それはしかし、私たちが、「自分の口がそれをしゃべったということは、自分がそれを考えたからに違いない」と思い込んでいるからかもしれない。人間にはどうもそういう傾向がある。シュプレヒコールとか、軍隊の命令復唱とか、そういう原理を利用したものでしょう。
拝読ブログ:filodoroのストッキング
拝読ブログ:中島みゆき「世情」