さて、ここで問題は、「私はここにいる」という感覚、つまり自分の内面について、私たちはどうやってその存在感を感じ取っているのか、です。私たちは、たしかに、いつでも、自分の内面というものの存在を感じている。それは自分にしか感じられない、はずです。私が他人の内面を直接感じることができないように、他人には私の内面が直接は感じられない、と思える。私の歯の痛みは、私以外には感じられないでしょう(拙稿11章「苦痛はなぜあるのか?」)。私の内面は、(テレパシーは不可能なので)他人には感じられない、はずです。人間と人間が、いくらじっと目を見つめあっても、互いの内面が直接感じられるということはない。
私の外面は、仲間の集団が、それを感じ取ることができる、と思える。ところが、内面に関しては、仲間の集団が、それを直接感じ取れる、とは思えない。私以外の者がそれを直接感じ取る仕組みがあるとは思えない。集団の運動共鳴によって、これを認知することは不可能です。つまり、私たちは、自分の内面というものを、客観的な存在として感じ取ることはできません。それは、視覚や聴覚では感じ取れない。身体の奥の感覚で感じ取るしかありません。内面というものは外面からは感じ取れない。だから、逆に言えば、それを自分の外面ではない内面だ、と言うのですね。
まあ、人間について、外面、内面というときは、人間を、建物や容器のように外側と内側があるものにたとえて言っている。建物などの、外から見える光景を外面といって、中に入ると見える光景を内面という。つまり、外面からは感じ取れないものを内面というわけです。
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