哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

内面という存在

2008年12月26日 | x9私はここにいる

さて、ここで問題は、「私はここにいる」という感覚、つまり自分の内面について、私たちはどうやってその存在感を感じ取っているのか、です。私たちは、たしかに、いつでも、自分の内面というものの存在を感じている。それは自分にしか感じられない、はずです。私が他人の内面を直接感じることができないように、他人には私の内面が直接は感じられない、と思える。私の歯の痛みは、私以外には感じられないでしょう(拙稿11章「苦痛はなぜあるのか?」)。私の内面は、(テレパシーは不可能なので)他人には感じられない、はずです。人間と人間が、いくらじっと目を見つめあっても、互いの内面が直接感じられるということはない。

私の外面は、仲間の集団が、それを感じ取ることができる、と思える。ところが、内面に関しては、仲間の集団が、それを直接感じ取れる、とは思えない。私以外の者がそれを直接感じ取る仕組みがあるとは思えない。集団の運動共鳴によって、これを認知することは不可能です。つまり、私たちは、自分の内面というものを、客観的な存在として感じ取ることはできません。それは、視覚や聴覚では感じ取れない。身体の奥の感覚で感じ取るしかありません。内面というものは外面からは感じ取れない。だから、逆に言えば、それを自分の外面ではない内面だ、と言うのですね。

まあ、人間について、外面、内面というときは、人間を、建物や容器のように外側と内側があるものにたとえて言っている。建物などの、外から見える光景を外面といって、中に入ると見える光景を内面という。つまり、外面からは感じ取れないものを内面というわけです。

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自分自身の身体

2008年12月25日 | x9私はここにいる

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それから、最も身近なものとして、自分の身体がある。これはもちろん、物質です。手や足が見える。鏡に映せば、顔が見える。大きな鏡なら全身が見える。あれ、ちょっと太ったかな、と思っても、それは間違いなく自分だと思える。写真やビデオでも、自分の身体が見える。自分がしゃべっている声が聞こえる。録音した声はちょっとおかしく聞こえるけれども、人に言わせれば、それが本当の私の声だ、という。たしかに、自分のこの人体は、一人の人物であり、動物であり、生物であり、物質の塊だということがよく分かる。私たちは、こういう場合もまた、仲間の集団運動の対象(視線の対象など)として、自分自身の身体を客観的に感じ取っている。つまり、(拙稿の見解によれば)私たちは、自分の身体であっても、(実在の、あるいは仮想の)仲間の集団運動との運動共鳴によって、その存在感を感知する、そして、それによって自分の存在を認知しています。

私たちは、(拙稿の見解によれば)こういうふうに、客観的物質世界の中で感じられるいろいろの物を、それにひきつけられて無意識のうちに反射的に動き出す私たちの脳の仮想運動機構、あるいは、仲間との運動共鳴機構を使って、その存在感を無意識に感じ取っている。「世界ははっきりとここにある」と思う私たちの感じ方は、このような仕組みでできている。

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各種の存在様式

2008年12月24日 | x9私はここにいる

世界の中の物はいろいろある。

人間にまったく関係ない物、ふつう関係がなさそうな物。星、石ころ、草、アリンコ。ごみ、壊れたベンチ。そういう物は、ふつう目に入らない。存在しないと同じです。

きれいな花、おいしそうな実がなっている植物。道端に落ちている一万円札。私のパソコン。紙を切りたいときのはさみ。出かけたいときの自転車。乗車予定の新幹線。こういうものは目に入る。それを触ったり、摘んだり、使ったりする。人間がするそれらの動作の(仮想の仲間の群運動と共鳴する)仮想運動として、身体がその物の存在感を受け入れる。私たちは、身体でそれらの存在を感じ取ります。

犬や猫、パンダやハトなど動物。これは自分がそれに乗り移って、視線を動かしたり走ったり飛んだりしたらどんな感じか、想像できる。その想像の(仮想の仲間の群運動と共鳴する)仮想運動が動物の存在感を作る。こういう物も、一目見るだけで、無意識のうちに、身体でその存在を感じ取れます。

近所の奥さんとか、日本の総理大臣とか、アメリカの大統領とか、人間。こういうものには、自然に乗り移ってその気持ちが分かる。すぐ憑依できる。というか、実物や映像を見た瞬間、私たちは無意識に憑依している。うわさを聞いたり、新聞に書かれた記事を読んだりするだけで、その人物に憑依できる。その人物がその身体をどんな気持ちで動かすか、その視線をどう動かして何を見るか、その口をどう動かしてどんな言葉を吐き出すか、これからどこへ行こうとしているか、その(仮想の仲間の群運動と共鳴するその人物内部の)仮想運動がよく分かる。私たちは、無意識のうちに自分自身の身体がそれに反応することで、それを感じ取っているからです。

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存在という理論

2008年12月23日 | x9私はここにいる

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その集団的な運動形成が共鳴して私たちの身体の仮想運動が形成される。この(仮想の上での仮想になる)仮想運動の形成は無意識で行われる。私たちはそれを、自分の身体の筋肉や分泌腺や自律神経の緊張とその体性感覚へのフィードバック信号で感知する。感知された仮想運動のこの感覚を、私たちは、その対象物質の客観的な存在感として認知する。さらに、視覚聴覚など五感から入ってくる外部環境の遠隔受信信号を、その(対象物質の)存在感にあらためて貼り付けることで、その対象物質から自分の受ける感覚(視覚や聴覚)を、私たちは自覚する。

こうして、(拙稿の見解によれば)私たちは、私たちの身体の外部に存在する客観的物質世界を私たちが私たちの目や耳で感知している、という理論を(無意識のうちに)作り出し皆で共有する拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)

拝読ブログ:「野球のセオリー」は実は錯覚?を検証<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" alt="Comments" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 12pt"></shape><imagedata o:href="http://s.hatena.ne.jp/images/comment.gif" src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.gif"></imagedata>

拝読ブログ:「スターバックスと経済危機との関係」理論

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存在感の生成機構

2008年12月22日 | x9私はここにいる

このような問題は、(拙稿の見解によれば)私たちが「世界ははっきりとここにあるし、同時に、私もはっきりとここにある」と思い込んでいるところからくる。これは(拙稿の見解によれば)錯覚です。便利で実用的であるけれども、錯覚です。地面は平らで太陽は毎朝、東から昇る、と感じるのと同じような、実用的な錯覚です。この、私という錯覚がどこからくるのか? そこを、もう少し詳しく調べてみましょう。まあ、かなり手ごわい問題らしいですが、結論を急がずに、そろそろと慎重に進めましょう。

さて、私たちは、客観的物質世界の中にある物(対象物質)の存在感を感じるとき、(拙稿の見解によれば)まず無意識のうちに仮想の仲間集団に乗り移っている。私たちは、仲間の集団運動に連動する運動共鳴の神経回路を使って、(無意識のうちに)群行動として集団の視線でその対象物質を注目する。私たちの脳内のシミュレーションの上では、仮想の仲間集団が、その物(対象物質)を注目し、それに乗り移ってその動作をなぞり、あるいはそれ(対象物質)に動作を加えるために身体を使って身体運動を起こす。

拝読ブログ:意は似せやすく、姿は似せ難し

拝読ブログ:セカンドライフの生き残りの道

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