
夜、部屋に帰ってきて、スィッチを押すと明かりがつく。この場合、スイッチを押したのは明かりをつけたいからです。明かりをつけるという意図があった、といえます。では、スイッチが壊れていて明かりがつかなかったら? この場合も明かりをつけるという意図はあったのか? ふつう、あった、と思えますね。
では、実はスイッチが壊れているのを知っていて、それを知らんぷりして明かりをつけるふりをするためにスイッチを押したのだったら? この場合、明かりをつける意図はなかった、といえますね。
私はその壊れたスイッチを押しながら客人を部屋に案内します。明かりがつかないうちにその部屋に入った客人は、そこにあった見えないガラスケースを蹴飛ばしてしまい、ケースから放り出されたコブラに咬まれて死んでしまいました。私は殺人の意図を持っていたといえるのでしょうか?スイッチが壊れていることを知っていたか知らなかったか、知っていて忘れてしまったか、忘れたふりをしたのか。だれの目にも見えない心の中の、信念の違いによって、殺人の意図が存在したかどうかが決まる、ということになる。
まあ、スイッチを押すという単純な運動もそれに関する意図とか欲望とか信念とかは、他人の目に見えず、なんとも分かりにくいものです。それでも、意図という概念で殺人罪になったりならなかったりするわけです。スイッチを押すという運動が、世界をどう変化させるかの脳内シミュレーションの予想が違うと、意図や欲望はそれに応じて違ってくるはずだ、という理論を、人間は持っているからです。社会生活では、それが大問題となるのですね。
しかし、(拙稿の見解のように)私たちの身体の奥から湧き起こる欲望、意思、あるいは意図などというふしぎな何かが身体の運動を起こすわけではない、と考えれば問題はなくなる。そういうものは錯覚ということになるわけです。なぜそういう錯覚が存在するのか? 人間が、他人と自分の行動を上手に予測し、互いに言葉で説明しあって共感し協力し、また長く記憶して経験として役立てるために便利だったから、人間行動を記述するためのそういう錯覚が作られ、「欲望」、「意思」、という言葉で名づけられた。そして皆で、自分たち人間には欲望がある、意思がある、と言い合うことで、それらがあることになったのです。
欲望はなぜあるのか? 言い換えれば、欲望という理論を、なぜ私たち人間が持っているのか? (拙稿の見解によれば)これがその答えです。
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