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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

殺人の意図の存在問題

2007年09月10日 | x欲望はなぜあるのか
Bouguereau_dante_and_virgil_in_hell

 夜、部屋に帰ってきて、スィッチを押すと明かりがつく。この場合、スイッチを押したのは明かりをつけたいからです。明かりをつけるという意図があった、といえます。では、スイッチが壊れていて明かりがつかなかったら? この場合も明かりをつけるという意図はあったのか? ふつう、あった、と思えますね。

 では、実はスイッチが壊れているのを知っていて、それを知らんぷりして明かりをつけるふりをするためにスイッチを押したのだったら? この場合、明かりをつける意図はなかった、といえますね。

 私はその壊れたスイッチを押しながら客人を部屋に案内します。明かりがつかないうちにその部屋に入った客人は、そこにあった見えないガラスケースを蹴飛ばしてしまい、ケースから放り出されたコブラに咬まれて死んでしまいました。私は殺人の意図を持っていたといえるのでしょうか?スイッチが壊れていることを知っていたか知らなかったか、知っていて忘れてしまったか、忘れたふりをしたのか。だれの目にも見えない心の中の、信念の違いによって、殺人の意図が存在したかどうかが決まる、ということになる。

 まあ、スイッチを押すという単純な運動もそれに関する意図とか欲望とか信念とかは、他人の目に見えず、なんとも分かりにくいものです。それでも、意図という概念で殺人罪になったりならなかったりするわけです。スイッチを押すという運動が、世界をどう変化させるかの脳内シミュレーションの予想が違うと、意図や欲望はそれに応じて違ってくるはずだ、という理論を、人間は持っているからです。社会生活では、それが大問題となるのですね。

しかし、(拙稿の見解のように)私たちの身体の奥から湧き起こる欲望、意思、あるいは意図などというふしぎな何かが身体の運動を起こすわけではない、と考えれば問題はなくなる。そういうものは錯覚ということになるわけです。なぜそういう錯覚が存在するのか? 人間が、他人と自分の行動を上手に予測し、互いに言葉で説明しあって共感し協力し、また長く記憶して経験として役立てるために便利だったから、人間行動を記述するためのそういう錯覚が作られ、「欲望」、「意思」、という言葉で名づけられた。そして皆で、自分たち人間には欲望がある、意思がある、と言い合うことで、それらがあることになったのです。

欲望はなぜあるのか? 言い換えれば、欲望という理論を、なぜ私たち人間が持っているのか? (拙稿の見解によれば)これがその答えです。

拝読ブログ:「確定的な殺意ない」…同性愛殺人で弁護側の主張

拝読ブログ:殺人未遂はやりすぎだが、同情の余地はある。 

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間違った理論

2007年09月09日 | x欲望はなぜあるのか

さて、拙稿の見解では、欲望、意思、あるいは意図など、常識では人間の行動の源泉とされているものは、実際にはこの世界には存在しない。そういうものが、動物や人間の脳の中にある、と思い込むのは錯覚です。動物は、感覚刺激が変化することに対応して反射的に運動する。人間は、それに加えて、脳内の記憶からシミュレーションを映し出して仮想運動を形成し、それに対応して反射的に運動する。

人がある行動をするのは、そうしようと思うからだ、つまり意思があるからだ、と私たちは常識で考えますが、(拙稿の見解では)これは間違った理論です。

このことは、よく考えてみれば、簡単に分かります。たとえば、次のように話をつめていくと、変なことになってしまうのですね。

まず、手を挙げてみてください。では、質問します。

「なぜ、手を上げたのですか?」

「手を上げたのは、手を上げようと思ったからです」

「なぜ、手を上げようと思ったのですか?」

「手を上げようと思ったのは、手を上げようと思おうと思ったからです」

「なぜ、手を上げようと思おうと思ったのですか?」

「手を上げようと思おうと思ったのは、手を上げようと思おうと思おうと思ったからです」

・・・・

と無限の問答(一九四九年 ギルバート・ライル『心の概念』)が続いてしまうわけですね。

拝読ブログ:歯医者の「痛かったら手を挙げて」に迫る

拝読ブログ:心の概念 レポート

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計画しない計画行動

2007年09月08日 | x欲望はなぜあるのか

Bouguereau_after_the_bath 計画行動をする人は、いかにも理知的に見えて印象が強い。特に成功した場合、鮮やかな印象を残す。自分が成功した場合、特にそうです。それで、他人の場合も自分の場合も、そういう理詰めの行動が目立ち、印象深く記憶する。すると私たちはこればかりをしているように思える。しかし実際、計画行動は人間のいろいろな活動の中のほんの一部です。

行動を計画する場合、人間は、脳内で予測シミュレーションを運転してそれを評価して目的を作る場合が多い。しかしいったん目的を立ててしまうと、そのさきははっきりした仮想運動が作られずに、目の前の出来事に影響されながら過去の学習などで習熟した習慣的な行動が実行されて事態が進んでいくことがふつうです。

たとえば、計画行動をしている途中で、目の前の出来事に影響されてすこしずつ気が変わっていく。カレーライスを食べにレストランに入っても、メニューを見てスペシャルチキンライスにしてしまう。そのうえ、店員に「大盛りにしますか?」と聞かれると、どうしても大盛りを食べたくなってしまう。店に入る前に、本当に、大盛りスペシャルチキンライスを食べたいという欲望があったのか? とてもあやしい。それなのに、人間は、自分は大盛りスペシャルチキンライスを食べたいという欲望をはっきり持って、レストランに行ってそれを食べたのだ、と記憶するのですね。現代哲学でも、このような言語化により欲望、信念が形成される、という理論があります(一九八七年  ダニエル・デネット『ブレーンストーム』)。

拝読ブログ:イチジク、植樹

拝読ブログ:チキンライス

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報酬の構造を設定

2007年09月07日 | x欲望はなぜあるのか

私たち人間の場合、自分の運動の結果予想を脳内でシミュレーションすることで運動の計画が可能になる。過去の経験の記憶を参照して、類推し、想像し、いろいろな行動のシミュレーションを行って、行動の結果を想像する。他人の目に見える客観的な自分の行動の結果を予想できる。私たちは、いつも、想定の運動を実行した場合の自分の身体の状態変化から社会的立場の変化まで、さまざまな観点から結果を予想しています。

その場合の自分の感情の変化も想像する。その行動をしたくなる衝動はどれほど強いだろうか? 幸福感があるだろうか? 敗北感に傷ついているだろうか? その衝動の予測、幸福感、勝利感、不幸感、敗北感などの想像を比較して、種々のシミュレーションを評価する。なりたい自分、というシミュレーションが選ばれる。それが自分の「欲望」であり、自分の「目的」になるわけです。

それからその目的を達成できそうな行動を実行する。目的を追求する計画行動です。自分の欲望、期待、目的、という錯覚を作り出して、それを達成するために行動する自分、というシミュレーションを脳の報酬回路に結び付けて自分を駆り立てるための報酬の構造を設定する。そこからさきは、脳内に設定された報酬構造にしたがって、ドーパミンアドレナリンなど神経伝達物質が分泌され、反射が起こり、学習されたシミュレーションに沿って連鎖的自動的に運動が進んでいく。

動物は、脳の中で自動的に運動形成をして、それを筋肉で実行する。それだけです。しかし人間の場合は、自分の脳内の仮想運動を感じて、それを自分の衝動と感じ、それがある目的から計画された自分の行動計画であることを思い出して、それを自分の意図と感じます。また、形成された仮想運動に沿った筋肉の運動が起こることを感じて、私たちは、自分という人間がそう動きたかったのだ、それが自分を動かす衝動だ、と思う。そして、自分はそう動こうと思ってそう動いた、という記憶を作って保存する。この仕組みを使って、私たち人間は自分が計画行動をした、つまり欲望を満たすために目的を定めて行動の意思を持ったから身体が動いた、と思い込んでいるわけです。

拝読ブログ:セロトニンと衝動性、線条体を通る長期短期報酬予測システムとの関係

拝読ブログ:なぜドーパミンが出ない所で仕事を探すんだろ?

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猿は人生設計できない

2007年09月06日 | x欲望はなぜあるのか

Bouguereau__a_young_girl_defending_herse 「人間というものは、何かこうなったらいいな、という欲望ないし意図を持って、それを目的として実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」という人間の理論モデルが作れる。他人を眺めて「あいつは何が欲しいのだろうか? 金か、名誉か?」と憶測する。それで、彼がこれからどう出てくるかを予測できる。それで、たいていは成功する。実生活では、それでよいのです。

ここで、大事なことは、力や欲望や意思、という他人の行動の内部要因を感知する錯覚は、言葉で言い表される以前に、私たちは直感で感じる、ということです。私たちはいつも、言葉を使って、力や欲望や意思、について語り合いますが、言葉は直感にもとづいて使われている。そこで直感を無視して、言葉だけにとらわれて哲学を進めると混乱が起きる。力や欲望や意思、というものは言葉以前の直感に根付いている錯覚だということを、忘れてはいけません。

このことは、言語以前の幼児の行動実験でも明らかにされています。たとえば、生後五ヶ月の幼児は、繰り返し何度も、おもちゃのクマさんを選んで掴み取る人の手をみると、その次にも、その手は、おもちゃのトラックなどではなくクマさんを掴み取ると期待していることが観察される(二〇〇七年 スペアペン、スペルク『どの人形でも?十二ヵ月児の目標物理解)。

他人の行動に対してこういう見方をしているうちに、人間は自分のことも同じような理論モデルで見るようになった。つまり、他人に乗り移った気持ちで、他人の視線で自分の身体を外から眺めると、自分が他の人間を見る場合と同じように見えるはずだ、と思う。実際、鏡で見る自分の身体は、他人が見る場合と同じだと感じます。自分の行動に関しても、私たちは、こう見ている。「自分というものは、何かこうなったらいいな、という目的を持って、それを実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」と、自分を決め付ける。

「自分というものは、お金持ちになりたい、という欲望を持っているはずだ」とか、「自分というものは、お金より、出世して人に尊敬されたい、と思っているのだ」とか「心豊かに平凡な人生を送りたい、と思っているのだ」とか決め付けて、自分というモデルを作っていくわけです。

この自分モデルを使うと、計画行動、つまり、目的を思い描いてその実現のための行動を計画する、という行為ができるようになる。これは人間の特徴です。サルなどは、他人から見た自分、というモデルがうまく作れないので、しっかりした計画行動も人生設計(猿生設計?)もできません。

拝読ブログ:腕時計を買った。

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