哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

猿は人生設計できない

2007年09月06日 | x欲望はなぜあるのか

Bouguereau__a_young_girl_defending_herse 「人間というものは、何かこうなったらいいな、という欲望ないし意図を持って、それを目的として実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」という人間の理論モデルが作れる。他人を眺めて「あいつは何が欲しいのだろうか? 金か、名誉か?」と憶測する。それで、彼がこれからどう出てくるかを予測できる。それで、たいていは成功する。実生活では、それでよいのです。

ここで、大事なことは、力や欲望や意思、という他人の行動の内部要因を感知する錯覚は、言葉で言い表される以前に、私たちは直感で感じる、ということです。私たちはいつも、言葉を使って、力や欲望や意思、について語り合いますが、言葉は直感にもとづいて使われている。そこで直感を無視して、言葉だけにとらわれて哲学を進めると混乱が起きる。力や欲望や意思、というものは言葉以前の直感に根付いている錯覚だということを、忘れてはいけません。

このことは、言語以前の幼児の行動実験でも明らかにされています。たとえば、生後五ヶ月の幼児は、繰り返し何度も、おもちゃのクマさんを選んで掴み取る人の手をみると、その次にも、その手は、おもちゃのトラックなどではなくクマさんを掴み取ると期待していることが観察される(二〇〇七年 スペアペン、スペルク『どの人形でも?十二ヵ月児の目標物理解)。

他人の行動に対してこういう見方をしているうちに、人間は自分のことも同じような理論モデルで見るようになった。つまり、他人に乗り移った気持ちで、他人の視線で自分の身体を外から眺めると、自分が他の人間を見る場合と同じように見えるはずだ、と思う。実際、鏡で見る自分の身体は、他人が見る場合と同じだと感じます。自分の行動に関しても、私たちは、こう見ている。「自分というものは、何かこうなったらいいな、という目的を持って、それを実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」と、自分を決め付ける。

「自分というものは、お金持ちになりたい、という欲望を持っているはずだ」とか、「自分というものは、お金より、出世して人に尊敬されたい、と思っているのだ」とか「心豊かに平凡な人生を送りたい、と思っているのだ」とか決め付けて、自分というモデルを作っていくわけです。

この自分モデルを使うと、計画行動、つまり、目的を思い描いてその実現のための行動を計画する、という行為ができるようになる。これは人間の特徴です。サルなどは、他人から見た自分、というモデルがうまく作れないので、しっかりした計画行動も人生設計(猿生設計?)もできません。

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