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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

苦痛は脳内状態か?

2007年09月15日 | x1苦痛はなぜあるのか

しかし痛いときは痛い。嫌なものです。自分の体内で起きる一種の物質現象が、苦しかったり嫌だったりする感覚に対応している。他人が同じ状態のとき、いくら詳しく観察しても、どれほど痛いのかは、よく分からない。想像や類推はできますが、直接、感じることはできない。それなのに、自分のときは嫌になるほど感じる。つくづく、人間が分かることは自分の肉体の感覚だけだ、と思い知ることができます。

 筆者は、たまたま歯が痛いときに、「苦痛は脳内状態か?」について論じている分析哲学の論文(一九八八年 ヒラリー・パトナム 『表現と現実』)を読んでいたのですが、英文をずっと読んでいくほど歯痛はひどくなっていくばかりで、とうとう歯医者に行きました。その論文では、「脳のことなど何も知らないときでも歯は痛いから、苦痛は脳内状態とは一致しない」などと書いてありました(こういう議論を心理ー物理同一性問題などという)。そこは「なるほど、そうですね」と納得しましたが、痛みは全然和らぎませんでした。

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苦痛はなぜあるのか

2007年09月14日 | x1苦痛はなぜあるのか

11  苦痛はなぜあるのか?

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  他人の痛みが分かるようになれ、と学校の先生は教えます。つまり、ふつう他人の痛みは分からない。なぜ分からないのか?

 人間は、つねると痛みが分かるとき、つねったところを自分の身体だと思う。痛みが分からない身体を他人だと思っている。だから他人の痛みが分からないのはあたりまえ、ともいえます。

 そうは言っても、実際、自分の身体を確かめるために、いちいち他人の身体をつねって「あ、これは私じゃなかった。ごめん」などと言って確かめるやりかたをしていると、みんなに殴られてしまうでしょうね。そんなことをしなくても、この世界のどの部分をつねると痛いか、つまりどれが自分の身体を構成する物質なのか、、ヨチヨチ歩きする赤ちゃんでも知っている。

 赤ちゃんは、つねったときの痛みというよりも、それ以前に、皮膚の触感と筋肉、関節の緊張感覚など体性感覚を感じて、それを目で見える自分の身体の各部に投射することを学習する。それで脳内に自分の身体の模型を作っている。そうして、痛みをその脳内の身体模型に投射して、痛い場所を感じられるようになります。

 ところで、痛みは物質現象でしょうか? 痛いとき身体がどういう変化を起こしているか、その科学は最近かなり分かってきました。痛みの信号の伝達経路、苦痛に対応する神経伝達物質、その受容体、神経細胞膜の構造変化などが解明されてきています(二〇〇五年 ユンハイ・キウ他『ヒト非ミエリンCファイバー上昇信号の脳内処理』など)。そのおかげで麻薬より良く効く鎮痛剤も開発されてきました。さらに近い将来、苦痛や快楽に対応する脳内の信号伝達もまた、DNA,RNA、たんぱく質の分子レベルから進化を遡ることで解明できるでしょう。

 両生類や爬虫類の脳は、生まれつきの反射を繰り返すだけで、学習も記憶も、それほどしません。鳥類や哺乳類になると、運動と感覚の記憶について苦痛や快楽などでマークをつけて行動を記憶し、学習するようになる。苦痛や快楽の感覚は、哺乳類において特に発達した感情機構が発生する恐怖感、幸福感などと連結して、行動の学習に役立ったから、進化したのでしょう。

また苦痛は、人間の場合、自分の肉体の存在感とも深い関係がある。苦痛を感じるたびに、生々しい血の流れる自分の肉体、というイメージが脳の中に再構成されるわけです。それを発展させて、世界の中での自分の行動を記憶し計画する脳の機構を作るためにも、苦痛は役に立っています。

近い将来、痛みや快楽に対応する脳内の物質現象は、科学として、すっかり解明されるでしょう。

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分離脳患者の認知実験

2007年09月13日 | x欲望はなぜあるのか

私たち人間が、欲望あるいは意思、と言っているものは何なのか、その実体を示唆するよい実験例があります。

「目の前に置かれた二個のリンゴの一つを選んでください」と言われたあなたは、一個を手に取る。「なぜ、それを選んだのですか?」、「こっちのほうが、色がきれいだから」とあなたは答えます。実は、右手に近いほうを選んだだけだ、ということは実験を繰り返すことで分かっているのです(この実験例は一九九六年 ピーター・カルーサーズ心の理論の理論(シミュレーションと自己知識)既出』)。それなのに、あなたは尤もらしい理由を言って、本当に自分がそう思っている、と思っている。錯覚によって自分が自分にだまされている。けれども、いったん、言葉でそれを自分の欲望だと言ってしまうと、もう、ぜひそうしたくなる。それが、あなたの欲望、意思というものなのです。

【より鮮明な実験例が、分離脳患者の認知実験で挙げられています。左右の大脳の連絡が切断された患者の左視野(右脳だけにつながる)に「歩け」と書いたカードを見せると、彼は歩いて部屋から出ましたが、そのとき「なぜ、歩き出したのですか?」と聞いたところ、「ああ、コーラを飲みたくなったから取りに出るところですよ」と答えた(一九九五年 マイケル・ガッザニガ『意識と左右脳』)。言語を発生する左の大脳は、身体運動の結果だけを見て他人の行動の要因を推測する場合と同じ方法で自分の行動の要因を推測した。この実験で重要な点は、この患者がまったく支障なく、また支障の自覚なく、社交や仕事などふつうの生活をしていることです。つまり、左右分断のない正常な脳を持つ私たちも同じように、こういうような自己の行動の結果だけから推測する自己の欲望の、解釈による自覚、という仕方を使って毎日を生きている、ということを、この実験は示唆しているわけです】

結局、動物の行動も人間の行動も、進化の結果できあがった神経回路ネットワークの複雑な物質的過程によって現れる現象です。将来いずれの時代にか、科学によってその全貌は詳細に、物質現象として解明されるでしょう。それはまだまだ先です。私たちは、DNAもたんぱく質も知らずに「カエルの子はカエルだよな。あっはっは」と言っていた江戸時代の人々と同じように、「人間は欲望で行動するのだよ。あははは」と、おおらかに言い合っているだけなのです。

(サブテーマ: 欲望はなぜあるのか end

(次回からは、サブテーマ: 苦痛はなぜあるのか)

拝読ブログ:カエルの子はカエル!?

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昆虫のランチ

2007年09月12日 | x欲望はなぜあるのか

Bouguereaulamour_au_papillon  結局、人間のランチも、動物が目の前の食べ物に食いつくこととあまり変わらない。アリがミミズに食いつくとか、アリ地獄がアリに食いつくとか。私たちは素朴に、昆虫などの脳のどこかに欲望という神秘的なものがあって、それに駆動されて運動神経が動くのだろう、と思っています。しかし昆虫の神経系は、コンピュータでシミュレーションできるような機械的なアルゴリズムで動いていることが分かっています。食べ物の刺激に対応して機械的に反応して、食いつき運動が起こるのです。

人間の場合、脳内で回転するシミュレーションが作る仮想の(ラーメン屋での)食事風景の連想に対応して、昆虫の採餌運動と同じ反射神経による(仮想運動の)食いつきが起こるのです。たぶん、人間のこの神経系は、もともとは、誰かがおいしそうにラーメンを食べているところを見て脳の中でその運動をまねる、という神経機構から進化したのでしょう。ラーメン屋の案内板を見ることで、シミュレーションの仮想運動が起こる。その仮想運動からの連想に導かれて、私たちはラーメン屋に向かうのです。クモが蚊を網で捉えて食べるのとあまり変わらない。見事な仕組みで餌を採りますが、単純な反射が、進化の結果、複雑な連鎖として組み合わされて洗練された動きをつくりだしているのです。それを見て、人間は本能だとか欲望だとか見なして理解しようとする。

そういう理解は実用的です。人類の生活に役立つものの見方です。人間は欲望から意図をつくって、それで行動する。そういう見方は実用的で記憶しやすい。この見方に慣れ親しんでくると、自分の内部にその欲望が実在する、と感じるようになる。それが、私たちの感じる自分の欲望です。それは錯覚ですが、しかし、その錯覚は便利で使いやすい。言葉を使って、それについて人と話せる。欲望という言葉、「私はそれをしたい」という言葉、などを使えば、だれと話をしてもそれでうまく通じる。独り言を言って自分で自分の行動を理解し、目的を思い出し脇道にそれないで、最初の目標にたどり着くことができる。それで、私たちはこういう見方をしっかりと身につけ、それをうまく表現する言語体系を持っているのです。一般的にいえば、言葉は仮想運動を形成する連鎖の過程として生成される、といえる。この点に関して、概念は行為に直結している、という考えが、現代哲学では提唱されています(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』既出)。

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シミュレーション→運動実行

2007年09月11日 | x欲望はなぜあるのか

人間も他の動物と同じように、目や耳や嗅覚で感じる感覚刺激に応じて、反射的に身体が動く。人間の場合、直接の感覚刺激に対しても反射的に運動が起こるが、同時に(たぶん別系統の脳神経系の働きで)記憶からの連想によって作られるシミュレーションに対して反射的に運動が起こる,という特徴がある。つまり、(拙稿の見解では)人間は、目の前の光景ばかりでなく頭の中で想像した世界の構造、知識、記憶、予測などが与える現実感と存在感に反応して身体が動く。そして、こちらの運動を自分の意思でした計画行動として記憶しています。

たとえば、ビルのエントランスロビーに飲食店の案内パネルが並んでいます。ラーメンがいいかな、カレーかな? 自分がラーメンを食べている場面とカレーを食べている場面とを無意識のうちに想像して比較します。これは、過去の経験から造られた記憶と知識から作られるシミュレーションです。それらを思い出しながら、考える。どちらか、さっと決まるときもあれば、うーん、どっちが食べたいか自分でも分らない、というときもある。脳でシミュレーションが回転している。ラーメンを食べている場面のシミュレーションでは、その経験が感情とともに感じ取れます。カレーの場面に比べて、ラーメンのほうが実現して欲しいという感じがする。それでラーメン屋さんのほうへ歩いていくわけです。さらに、自分ばかりでなく人間はだれも、こういう経験をしているだろうな、と想像できる。それでこういう場合、「ラーメンを食べたいという欲望がある」という言い方をすることにしたのです。

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