「あの人に苦痛がある」という言い方の意味は、「私が苦痛を感じるようにあの人も苦痛を感じるのではないかと私は感じる」ということでしょう? そして、「(話し手が聞き手に向かって)あなたも私も、それぞれ自分の身体で感じられる苦痛を、お互いに理解できるということにしましょう。その上で、あの人も同じような苦痛を感じていると想像しましょう」、という暗黙の了解を求めている。もちろん、私たちがいつも、こんなふうに論理的な図式を意識して言葉を使っているわけではありませんが、無意識の直感で人の苦痛の表情を見て取り苦痛を感じ取ると同時に、こういう図式を暗黙の前提として「あの人に苦痛がある」という言葉を発するのです。聞き手も同じ前提を直感で理解していて「あの人に苦痛がある」という言い方を受け取る。このような会話をしているとき、私たちは必ずしも、この物質世界のどこかに苦痛という実体が存在する、といっているのではありません。スムーズに話を通じさせるために、言い換えれば、その苦痛が想像できるということの共感を共有するために、「苦痛がある」という便利な言い方を使うことにしているのです。
世界の捉え方と言語のあり方との関係を厳しく観察した二十世紀の哲学者たちは、苦痛をよい例題として自説の議論展開に使いました。たとえば、苦痛そのものの存在とは関係なく苦痛という言葉は使われる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』既出)という考えや、苦痛を感じるということは、感じている人間の脳(あるいはロボットの電子回路)などの状態ときっちり対応しているのではなく、その物理的システムの具体的仕組みだけからは説明しきれない上位の機能として捉えるべきだ(一九八八年ヒラリー・パトナム 『表現と現実』既出)、という考えなどが、現代哲学の考え方を代表しています(これらの考えの筋道は拙稿の論法と似ていますが結論は違うので注意→第13章で存在について拙稿の見解を述べる予定)。
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