その棘が痛い、と感じたとき、本当にそこにある棘が痛いのか? 隣の人に聞いてみた場合に「そうだよ。その棘は痛いよ」と言ってくれれば、その棘は、やはり痛いのだな、と思えばよいわけです。「刺されたことがないから分からない」と言われてしまえば、もう、その棘が痛いと言っても人には通じない。その棘が痛い、という言葉の意味はないことになります。隣の人がどう言うかによって、棘は痛かったり、痛くなかったりする。このことは、痛みというものが、棘という物質のなかにあるものではないことを示している。つまり痛みは物質に含まれているものではないのです。
では、自分の手が痛い、と感じたとき、本当に手が痛いのか? 目に見えるその右手が痛いのでしょうか? 切り傷があって血が出ているし、皮膚も赤くなっている。触ってそこを押してみるとずきんと痛みを感じる。どう見ても、明らかに目に見える右手の傷が痛んでいるらしい。
でも、痛みを感じているのは右手そのものではないでしょう? その証拠に麻酔によって右手から脳に来る神経信号を遮断すると痛みは感じられなくなる。では、痛みは脳にあるのか? 脳細胞を顕微鏡で見てもはっきりと痛みを示している物質は見えない。ある種の神経伝達物質が分泌され一群の脳神経細胞が活動していることが、その手の傷の痛みだ、ということになるのでしょうか? そう言われれば、そういう気がしてきます。でも、それは、手の傷を見て、ここが痛い、と思うことと同じでしょう? 身体のその部分から痛みが発生している、といわれれば、そこから痛みが来るような気になる。それは暗示によってそう思うだけです。実際、私の肉体、私の脳、という物質のどこかに、今感じているこの痛みが、本当にあるのか?
そういう気がする、というだけでしょう。そういう気がすると、私たちは物質に痛みがあるように感じる。バラの棘に痛みがある。自分の手の傷に痛みがある。脳の神経細胞の活動に痛みがある。どれも暗示による錯覚といえる。そういう気がするというだけです。
私は間違いなく苦痛を感じる。けれどもその苦痛は、この物質世界にはない。私が感じるものが、すべて、この世界に存在しなければならない理由などないわけです。むしろ私が感じるものの一部分だけが、この物質世界を作っている。特に視覚と触覚と聴覚で、私がそこにあると感じるものだけが、仲間の人間と一緒にそれを観察することができてその存在感を明らかに共感できることで、この物質世界を作っているのです。
バラの棘が痛い、ということで話が通じれば、棘に苦痛がある。手の傷が痛い、ということで話が通じれば、手に苦痛がある、ということです。それは苦痛が物質世界に投影された錯覚です。同じように、脳が苦痛を感じる、ということで科学者の間で話が通じるとしても、それは物質世界に投影された錯覚について、話し合っているのです。
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