筆者の場合の腰痛など、本人はすごく痛いのに、見た目では分らない。仮病のようにも見える。腰に手を当てて、「イタタタ」と顔をしかめるけれども、うそかもしれない。素直な人は「痛そう!」と同情する。それでも、他人の痛みは分からないということは、だれもよく知っている。まず自分の痛みの経験を思い出して類推するしかない、と思っています。その類推が、本人の痛みにかなり近いものなのか、ぜんぜん見当違いなのか、だれがどういう痛みを感じているのか、あるいは、どういう痛みを類推しているのか、実は、だれもさっぱり分らない、というのが実情なのではないでしょうか?
ちなみに、筆者は若い頃から腰痛もちで、数年ごとに数日間連続する激痛を繰り返し経験してきました。あそこまで痛いと錯乱寸前になって呻いているしかないわけですが、そのときでも、痛いところは自分の腰だ、ということだけは、ますますはっきり分かっています。神経がそういうふうに脳に信号を送ってくる。結局、脳の中にある物質世界のモデルの、さらにその中にある自分の腰のモデルに、間違いなくきちんと、その痛みの信号を貼り付けている。人間の脳はよくできているものだ、と鎮痛剤が効いている激痛の合間に感心したりする。
自分の身体の痛みに関しては、こういうふうに、身体から神経を伝わってくる痛みの信号を脳内にある自分の身体のモデルに貼り付けることで、痛さも痛い場所もよく分かるのですが、他人の痛みは、神経がつながっていないので痛みの信号が伝わってくるはずがありません。
結局、目や耳で感じ取るしかない。
つまり、その人の顔のしかめ方を見たり、呻き声を聞いたりすることで、他人の痛みをある程度(感受性の高い人はかなりの程度)、感じられるような気がしたり、想像したりはできるものの、自分が痛むときのように身体の芯にまで響く、という感じ方は、ふつう、できません。(双子の兄弟などは、それを感じる、という話がありますが)
理論的に言えば、他人の痛みというものは、存在するのかどうか、感覚ではその存在感がはっきりとは感じられない、ということになる。ただ、その人の身体の作りは自分と同じはずだから、自分と同じように痛みを感じているはずだ、という理論的類推がなりたつだけです。その類推から、「痛そうだな」というイメージが出てくる。しかし身体のつくりが違う場合は類推もできません。男は女の子宮の痛みは分らない、などとなってしまうわけです。
視覚と触覚だけを基礎にして組み上げられた客観的物質世界には、苦痛は存在しません。科学の世界は視覚と触覚だけを基礎に組み上げられた物質世界をさらに理論化したものですから、当然、痛覚の表現はできない。医学は、もちろん、こういう科学的な物質世界を土台にして組み上げられている。したがって科学を深く理解している優秀な医師ほど、実は患者の苦痛を理解できない、という皮肉な現実になっています。
拝読ブログ:質問には答えないし、他人の痛みも分からない