視覚と聴覚と触覚でだれもが感じられると思われるものごとだけから私たちの脳内に作られた模型が物質世界だとすると、そこに含まれるものは当然、私が感じるもの全体ではなく、その一部分でしかありません。つまり、私の感じる自分自身の、あるいは他人の、苦痛、かゆみ、物質の存在感、感情、あるいは命、心、というようなものは目に見えず、耳に聞こえず、手で触れません。視覚と聴覚と触覚で、だれもが同時に感じられて、指差せるようなものごとではない。これらは、だから、物質世界から見ると錯覚でしかない。こういうものの存在感は、主観的には、私たちはそれぞれ身体の内部でかなり強く感じられますが、客観的には、だれとも共有できる物質世界の中にはないことも明らかです。だから、苦痛やかゆみなどの主観的感覚を客観的な物質世界の中で探そうとすると、いくら科学を極めてもどうしても見つからないのです。
客観的な物質世界には、命や心が存在しないのと同じ理由で、苦痛も存在しない。本人が苦痛を感じるというときに活動している神経機構が、物質としてのその人の脳の中に存在する、ということだけが物質世界での事実です。他人の脳の神経機構が苦痛を感じているらしい化学変化を示すところを顕微鏡で見ることができたとしても、私たちは、他人の苦痛そのものを感じることはできない。
たしかに、他人の表情や声色や、傷からの出血などの具合から、直感的に他人の苦痛を感じ取る神経機構が、私たちの脳には備わっているらしいという科学的証拠はある。しかし、その神経機構の感度も個人差があるらしく、鈍感な人と敏感な人の差はかなりありそうです。
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