小学生にこう聞かれて、大人は答えられない。
「なぜ人を殺してはいけないの?」
小学生のこういう質問に、安易に答えてはいけません。「命は一番大事なものだからだよ」などと答えると、かしこい子供は、「命が一番大事って、どういうこと? だれがいつ、決めたの?」と来る。そうなったら、大人に勝ち目はありません。
小学生はこういう質問を持ち出して、大人が困るのを楽しみたい、という気持ちもあるでしょう。もちろん大人は答えられない。これは哲学的な質問だからです。つまり、答がない。なぜなら、それを言葉で質問することが間違いだからです。しかし、小学生に向かって、哲学はなぜ間違えるのか(筆者の持論;既出)を語り始めるのも大人気ないでしょう。まあ、筆者なら愚問をもって愚問を制する戦略で応戦する。つまり「じゃあ、なぜ君はパンツをはいているの?なぜパンツを脱いで全裸で道路を歩いてはいけないの?」とか、「なぜ、道路でうんこしてはいけないの?」などと聞き返す作戦を取りますね。もっとも、古代ギリシアのある哲学者は、公共の劇場でうんこすることで、犬のように生きることを理想とする哲学を教えたといいますから、うんこも哲学的とは言える。
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「なぜ人を殺してはいけないのか」という問についての私の見解は,小浜さんの見解と若干違うのですが,次のとおりです。
人属は,誤った問を創作することが多い。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問は,誤った問の代表例である。なぜならば,この問は,論理的には,①「人を殺してはいけない」という定言命題と,②「その理由は何か」という疑問命題から構成されている。
しかし,①の定言命題は,現実的には成立しない。つまり,現実的に肯定できる規範を記述した命題ではない。いうまでもなく,人の歴史は,十字軍も,元寇も,原子爆弾の投下も,死刑制度も,ポアと呼ばれる考え方も,それが是認できるか否かはさておき,「人を殺してもよい場合がある」という命題を肯定している。そして,現実的な社会規範としても,我が刑法は,正当防衛の場合,すなわち,強盗に侵入されて刃物で殺されそうになった場合などには,反撃のために,その強盗を殺すことが許されるとしている。
したがって,「なぜ人を殺してはいけないのか」という問は,誤った前提に立脚した誤った問であって,正しい問は,「人はいかなる理由があっても人を殺してはいけないのか」,「人を殺してもよいという正当な理由が成立する場合があるのか」,「その場合とはどのような場合か」,「そうでない場合とはどのような場合か」という問でなければならない。
このような場合分けをしないで,「人はいかなる理由があっても人を殺してはいけない」という誤った前提を立て,その上で,「その理由は何か」とする問は,誤った問というほかない。
その誤った問について答えようとすると,現実的ではない誤った答えしか導き出せない。