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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

共有された錯覚は実用的

2008年11月05日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rembrandt_meditate

言語を使う人間集団における群行動の場合、言語による運動共鳴の機構は、物質世界に存在しない錯覚のシミュレーションをも仲間に伝達してしまう。しかし、錯覚だから役に立たないということはない。私たちのだれもが共有しているような錯覚は、むしろ、便利で実用的なものが多い。現在まで伝えられて、私たちが意識せずに毎日、使っている多くの錯覚は、どれも、きわめて実用的なものです。たとえば、暗いと危ない、とか、声が高い人は親切だ、とか。これらの錯覚は、社会を維持し、集団として人間が物質世界の環境を生き抜いていくために役に立つ(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

天狗にさらわれることを恐れて子供に気を配るような一族は、幼児死亡率が減って人口が増えたでしょう。そうして天狗伝説は生き残っていく。それは、それらが実体のない錯覚であろうとも、それらの共有が集団的団結をもたらし、厳しい自然環境に置かれた人間集団の生存と繁殖に役立ってきたからです。

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人類の群行動

2008年11月04日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

これらの錯覚を共有する仕組みの正体は、(拙稿の見解では)おそらく、人間の群集団における不完全な運動の共鳴です。物質現象としては、運動共鳴を起こす脳の運動形成回路の活動として捉えるべきでしょう。これは、たぶん、群行動をする動物が一斉に身体の向きを変えるときに使われる機構と同じものです。動物の群行動は、集団全体が敵を回避したり、食物の多い土地へ移動したりすることができる。一方、しばしば敵を見間違える。鳥の群れは、わずかな物音に驚いて一斉に飛び立つ。これはエネルギーの浪費ではないか? 群れは役に立たない行動をも共有しやすい。それでも、その機構のおかげで群れは生き延びる。

群棲動物のDNA配列(ゲノム)は、新しい群行動を作っては、役に立たない群行動を書き換えていく。鳥の群れは、DNAを変異させることでしか、役に立たない群行動を改善することはできない。人間の群れは、DNAを変えずに、神経回路の共鳴を起こす身体運動‐感覚受容シミュレーションを変化させることで、群行動を改善することができる。人類の群行動は、この仕組みのおかげで、桁違いのスピードで環境に適応し、進化していく。

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電気回路―神経回路

2008年11月03日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rembrandt_ganymede

こういう重要な機能を持つこれらの錯覚の存在感が人間の集団で共有される仕組みは、どうなっているのか? 言語という媒体によって、人体から人体へ物質現象として、何が伝播しているのでしょうか? 

言語の内容が伝播する仕組み、(拙稿で運動共鳴と呼ぶ)それは、伝播というよりも共鳴ではないか? テレビは送信された周波数に共鳴することで電波情報を受け取る。受信機は、もともとその周波数を内部で発生する働きを持っている。送信された電波の周波数と同じ周波数を内部で発生することで受信機の電気回路は共鳴する(電子工学では共振という)。では、人から人へ言語の内容が伝播する場合、人間の脳内の物質現象としては、どうなっているのか? 人と人の間で、神経回路の共鳴現象として捉えられる機構があるのか? (拙稿の見解では)共鳴現象の受信側の個体(聞き手)の内部でもともと記憶に保持されている身体運動‐感覚受容シミュレーションが、仲間の人間(話し手)の言葉を聴くことで、無意識のうちに想起されて神経回路の共鳴を起こす。もしそうだとすれば、人類の進化の過程で、それはどう働いたのか? 

拝読ブログ:同調回路(チューニング)

拝読ブログ:「『簡単な概念』は簡単である」という命題の真理値が簡単に決定できるならば、「簡単な概念を難しく説明する」なんてことがあるのだろうか。

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存在感の発生源を探る

2008年11月02日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

命、あるいは、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・、人間にとって一番大事だと言われている、こういうメタフィジカルな言葉は、実は何なのか? 実体がない錯覚だとしたら、これらはなぜ、これほど強く私たちの感情に訴えるのでしょうか? 

こういう言葉が意味するところを知ることは、確かに人間を理解することにつながりそうです。しかし、これらの言葉を本当に知るためにまず必要なことは、ナイーブにこれらの語感や存在感を足場にして、込み入った構造物を築き上げ、その屋上に屋を重ね、これ以上新しい観念を作り出して言葉を空転させることではないでしょう。むしろ、これらの語感や存在感の発生源を探る。その源にもぐりこんでいく。それらのもとになっている錯覚を映し出す物質現象、つまり生物としての人体の構造、生理、生態(社会、文化、理論を含む広義の人間行動)、そしてその進化の仕組みを調べることが大事なのではないでしょうか?

拝読ブログ:ウチと僕

拝読ブログ:一般法則論者氏のコメントについて (2)

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知識人は落とし穴に陥る

2008年11月01日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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一方、物質世界だけを語って大成功した科学を羨み、その言葉遣いを真似して実体のないメタフィジカルな概念について精緻な理論を語ろうとした近代の(西洋)哲学は、外見だけが精緻になり、言葉が難解になると同時に、中身はますますおかしくなっていった。ナイーブに語感だけに頼って言葉を拾い上げ、それを組み合わせて複雑な議論を展開しようとすれば、たいていの場合、おかしな話になってしまう。言語技術に優れた知識人が語るとしても、いや言語技術が優れている人たちが語るからこそ、結局は落とし穴に陥る。

ちなみに、(二十世紀以降の)現代の哲学は、(十九世紀以前の)近代哲学への反省もあって、思考と言語の関係の探求が重要な課題とされています(二十世紀の言語論的転回などという)。特に、思考とは何か、という古くからの認識論の伝統を汲むアプローチから言語の役割を分析する議論が多くある(たとえば一九七四年 ドナルド・デイヴィッドソン『思考と言葉』)。一方、(分析哲学の中には)拙稿のような方向への流れも出ていて、たとえば、「人間どうしは自然について語ることで相互に通じ合えるが非自然について語ると通じ合えない(一九八三年 デイヴィッド・ルイス『完全解釈』)」という議論などがあります。

拝読ブログ:ケン・ウイルバーと現代の哲学(2)

拝読ブログ:歴史学ってなんだ?

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