一方、物質世界だけを語って大成功した科学を羨み、その言葉遣いを真似して実体のないメタフィジカルな概念について精緻な理論を語ろうとした近代の(西洋)哲学は、外見だけが精緻になり、言葉が難解になると同時に、中身はますますおかしくなっていった。ナイーブに語感だけに頼って言葉を拾い上げ、それを組み合わせて複雑な議論を展開しようとすれば、たいていの場合、おかしな話になってしまう。言語技術に優れた知識人が語るとしても、いや言語技術が優れている人たちが語るからこそ、結局は落とし穴に陥る。
ちなみに、(二十世紀以降の)現代の哲学は、(十九世紀以前の)近代哲学への反省もあって、思考と言語の関係の探求が重要な課題とされています(二十世紀の言語論的転回などという)。特に、思考とは何か、という古くからの認識論の伝統を汲むアプローチから言語の役割を分析する議論が多くある(たとえば一九七四年 ドナルド・デイヴィッドソン『思考と言葉』)。一方、(分析哲学の中には)拙稿のような方向への流れも出ていて、たとえば、「人間どうしは自然について語ることで相互に通じ合えるが非自然について語ると通じ合えない(一九八三年 デイヴィッド・ルイス『完全解釈』)」という議論などがあります。
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