ここで、すこし慎重に考えてみましょう。まず、私の目の前に見えるこのありふれた物たち、この机とか、パソコンとか、私の手、これらが(あたりまえですが)はっきりと見えることをどう考えるか(こういうことをいう哲学を現象学という)。だれの目にも見えるこれらは物質ですね。さて、ここで問題は、物質以外のものごとも私たち人間は感じる。たとえば、痛みとか、かゆみとか、感情とか、物質でないものを、人間はふつう、むしろ強く感じるわけです。こういうような、ふつうに感じるものごと全体の中にふつうの物質も含まれている、といえる。つまりこの私の肉体を含んだだれの目にも見える物質世界全体、は私が感じるものの一部分でしかない、ということになる。
私たちは、明らかに人の苦痛を感じ、感情を感じ、人の心や欲望などを感じます。もちろん、自分の苦痛や感情もはっきりと感じる。しかしそれらは、この客観的な物質世界の中にあるわけではない。たしかに、この世に存在する物質としての人間の肉体は、明らかに苦痛や感情を表わしているかのように、表情を歪めたり呻いたりする。その姿や声は目に見え耳に聞こえるから、現実の物質現象です。他人も自分も、視覚や聴覚を通じて、それを観察することができる。けれども、その目に見える人体の内部の、目に見えない内面にあるとされる苦痛そのものや感情そのものを他人は見ることができない。私は他人の苦痛そのものを直接感じることができない。逆に、私が他人に乗り移ったとすると、私を外側からながめる私は、私の内面の苦痛を客観的な物質現象として見て取ることはできない。つまり、他人の苦痛と自分自身の苦痛、その両方とも、明らかに私が感じるにもかかわらず、この物質世界の中に存在しているとはいえない。それらは、感じられるだけで存在しないものですから(拙稿の見解では)錯覚です。
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