goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

科学は片手落ちの学問

2007年10月02日 | x2私はなぜあるのか

Bouguereauprintemps 昔の哲学者が書いた「私は考える、故に、私は存在する」(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』)という文章が、後世の人々を混乱させました。「私は考える」で文章を終わりにすべきでした。あるいは、せいぜい「私は考える。故に私は存在する、と言えるか? いや、言えないかもしれないな」くらい気が弱そうな文章にしておけばよかった。

「私は存在する」などと自信がありそうに言い切ったから、その後三百年以上、哲学は混乱したのです。近代数学の創始者であり、歴史上一番偉そうな哲学者が「故に私は存在する」などと宣言して、しかも後世の哲学者たちがそれをありがたそうに(もとはふつうのフランス語で書かれた文なのに、後世の学者がコギトエルゴスムとラテン語で書き直したので、よけい偉そうに聞こえるようになった)教科書に仕上げたからいけない。まじめな人は、人間の脳のどこかに「私」に当たる物質構造が存在している、と思ってしまうのはしかたないでしょう。

この言葉の混乱は現代にまで根強く残っています。混乱が整理できないうちに科学がどんどん発展してしまったために、かえって事態は悪くなった。科学の信頼性が増してきた分、物質世界の存在感はますます強くなる。現代人にとっては、目に見える物質世界だけが唯一の現実として確固として存在しているわけです。そういう現代人の感覚を身につけている私たちが「私は存在する」という言葉を聞くと、すぐ現実の物質世界との関係を考えてしまう。そうすると、その意味がますます不可解に思えてくるわけです。

この問題は、物質世界に通暁しているはずの現代の科学者を特に悩ませています。実際、「私」あるいは「自我意識」にあたるものは脳のどこに存在しているか、と悩んでいる脳科学者がたくさんいます。脳の奥底に、私が感じていることをとりまとめている小人(ホムンクルスといわれる)がいる、と感じてしまうらしいのです。まじめな哲学者や科学者は、「私は存在する」という文章を間違いないと思い込んでしまうので、「私」という仕組みが脳のどこかに物質構造として存在するはずだ、と考えてしまうのですね。科学者も科学者でない人も、この(心身問題とよばれる)問題が解明できなければ科学はまだまだ未開拓の学問だ、と言いたくなってくる。科学者が首をひねる問題は哲学者の領域だというわけで、ここでがんばろうと思う哲学者も多くなってくるわけです。

しかしこの辺から、近代現代の哲学はおかしくなっていきました。また同時に、現代科学も、経済や軍事などに実用的ではあるけれども、生や死や自我、という個人の人生で一番大事なことを解明できない片手落ちの学問だ、と思われてしまうようになったのです。

拝読ブログ:『デカルトの誤り』(Descartes' Error)での三つの観点 by Damasio

拝読ブログ:前頭葉は脳の社長さん?-意志決定とホムンクルス問題(講談社ブルーバックス) 

コメント

自分が世界を感じる仕組み

2007年10月01日 | x2私はなぜあるのか

このここに見える私らしき肉体が、私がいま感じているすべてのことを感じているのか、考えていることを考えているのか、あるいはそうでないのか、知ることはできない。私の脳の神経細胞を一つ一つ顕微鏡で見ても、だめです。ここにあるこの人体の脳というその物質が何かを感じているらしいことは分かっても、それが、私のいま感じていることなのかどうか、決して分かりません。私たち人間は、この物質世界を感じることはできますが、この物質世界の中をいくら探しても、今自分がこの世界を感じているその仕組みは見つからないのです。

話がここまでくると、「この世界に、私というはっきりしたものは存在しない」と言っても、驚く人は多くないでしょう。

奥さん(または旦那様または恋人)が不機嫌そうな声で「それで、あなたは何なの?」と聞いてきたときに、「私? 私というようなはっきりしたものはこの世界に存在しないのではないだろうか?」と言ってみましょう。奥さん(または旦那様または恋人)の声は、急にやさしくなって、「うん、うん」と言ってくれるでしょう(あるいは、張り飛ばされるかもしれませんが、そうなっても筆者の責任ではありません)。

拝読ブログ:私は此処にいません。

拝読ブログ:Wine.B.Cellarの定理

コメント

頭蓋骨の中に無線機

2007年09月30日 | x2私はなぜあるのか

Bouguereaunymphes_et_satyre 次のようなSF的設定を考えてみましょう、私のこの身体が、眠っているうちに異星人に手術されてしまって、脳は異星人の宇宙船のカプセルに移されてしまいました。脳の代わりに頭蓋骨の中に無線送受信機を埋め込まれた私の身体は地球上の私の家に戻されますが、運動神経と感覚神経を無線機に接続されて、宇宙船内に置かれたカプセル内の脳と電波回線でつながっています。そのとき、自分の家のソファに座った私が目の前のリンゴをむいて食べて、おいしいと感じても、それは宇宙船にあるカプセルの中の脳がそういう神経活動をしているということではありませんか? そういうときも、この人体が私なのでしょうか? さらに、異星人が、ますます実験熱心になって、私の記憶を消去してから、私とは別の人間、X君の頭蓋骨の中にさっきの無線送受信機を移設したらどうなるでしょうか? 私はX君に乗り移ってしまって、その肉体を自分だと思うようになるわけです。だって、記憶は全部X君の持っていた記憶データに置き換えられているし、周りに見える風景は、X君の両眼で見ている風景だし、私がつねって痛い頬っぺたはX君の頬っぺたなのです。そのX君が、まさに、今この私だと思っている肉体なのかもしれません。そんな馬鹿な! と笑い飛ばすSFマンガの世界です。

しかし、そうでないという証拠はありません。異星人にそういう変なことをされていない、という保証はありません。私たちの経験から推定すると、その確率は無視できるほど小さいだろう、と思えるだけです。

拝読ブログ:ファンタスティック・フォー (Theater)

拝読ブログ:考えるだけで動きをコントロール出来る車椅子「Audeo」(動画)

コメント

バーチャル空間⇔実空間

2007年09月29日 | x2私はなぜあるのか

私のこの肉体といっても、ただの物質です。他の物質に比べて特別に神秘的な仕掛けになっているはずはありません。他の人体と比べて、全然違う、というほどの特徴があるわけではない。世の中にある人間の身体は、性別、年齢も違えば、サイズやプロポーションや肌の色も違いますが、基本的な構造はどれもそっくりです。他の人体のどれかが私でも、なんの不思議もないはずです。ある人体の筋肉が私の思うように動いて、その両目の位置からのぞいた映像として周囲の風景が見える、とすればどうでしょうか? その人体の感覚器官が感知した感覚信号をすべて私が感じられるなら、まったく問題なく、この身体が私だ、ということになってしまうでしょう。よくできた遠隔操作ロボットでは、バーチャルリアリティの技術を使って、運転者がロボットになりきった気持ちで運転できます(二〇〇五年  『遠隔通信、テレイマージョン、テレイグジスタンス』)。こういう技術がもう少し進めば、何千キロも離れた外国の町においてある人間そっくりのロボットに乗り移ったまま、そのロボットの身体を使ってご飯を食べたりセックスしたりして、食欲や性欲を満足させられるでしょう。インターネットのバーチャル空間を実際の世界で実現できるわけですね。

現在の技術はまだそこまでいっていませんが、いずれはこういうものが実現するでしょう。こういうものが原理的に成り立つということは、自分の身体というものはこの一個しかないと思い込む必要はない、ということです。このことを私の視点からいえば、私の運動指令と視覚映像と体性感覚等の感覚との関係が、全体としてあるひとつの人体を原点としているように感じられて、それがいままでの経験記憶と違和感なくつながっていれば、その人体を私の身体だ、と私は感じるわけです。今改めて考えてみても、それ以外に、ここにあるこの人体が私だ、と私が感じる仕組みはなさそうですね。

拝読ブログ:アイロボットの新製品2―ConnectRLooj

拝読ブログ:「混在する現実とバーチャル」-僕の考える

コメント

客観的空間に身体感覚を投射

2007年09月28日 | x2私はなぜあるのか

Bouguereaule_ravissement_de_psyche この物質世界の中で、私の手足がどこにあるか、目をつぶっていても分かります。自分の身体のすべての骨、筋肉、皮膚がどこにあるか分かる。正確にいえば、動かせる骨と骨格筋はどこにあるか分かる。ものに触れる皮膚はどこにあるか分かる。これは体中に張り巡らされた感覚神経系からの神経信号が脳幹、視床から大脳皮質頭頂葉などで変換されながら伝達されてできる身体姿勢感覚です。

それで体内感覚で感じられる私の身体を、目で見えるこの物質世界にあるこの自分の身体にぴったり対応させられる。客観的空間に身体感覚を投射できるわけです。これは赤ちゃん時代に、ベビーベッドの上で手足をバタバタさせてめちゃめちゃな運動を繰り返すことで修得した、脳の機構でしょう。

脳に作られたこの機構によって、私たち人間は、この物質世界にある自分の人体を自由に動かして運転している気になっているのです。

鏡に映る私も私と分かるし、写真やビデオに写る私も、間違いなく私と分かります。他人の視線がこちらに向けられた瞬間、その人の心に写っている私の姿が、想像で分かります。

そういうものを、私だと思ってずっと生きてきたから、そう思うのです。それに、それを私だということにしておけば、だれとでも話が通じる。だから、ここにあるこの私らしい身体が、私が感じていること、考えていること、を作りだしているに違いない、という気がします。

しかし、本当にそうでしょうか?

拝読ブログ:身体感覚

拝読ブログ:こんなことやってるから原稿が終わらない

コメント