昔の哲学者が書いた「私は考える、故に、私は存在する」(一六三七年 ルネ・デカルト『方法序説』)という文章が、後世の人々を混乱させました。「私は考える」で文章を終わりにすべきでした。あるいは、せいぜい「私は考える。故に私は存在する、と言えるか? いや、言えないかもしれないな」くらい気が弱そうな文章にしておけばよかった。
「私は存在する」などと自信がありそうに言い切ったから、その後三百年以上、哲学は混乱したのです。近代数学の創始者であり、歴史上一番偉そうな哲学者が「故に私は存在する」などと宣言して、しかも後世の哲学者たちがそれをありがたそうに(もとはふつうのフランス語で書かれた文なのに、後世の学者がコギトエルゴスムとラテン語で書き直したので、よけい偉そうに聞こえるようになった)教科書に仕上げたからいけない。まじめな人は、人間の脳のどこかに「私」に当たる物質構造が存在している、と思ってしまうのはしかたないでしょう。
この言葉の混乱は現代にまで根強く残っています。混乱が整理できないうちに科学がどんどん発展してしまったために、かえって事態は悪くなった。科学の信頼性が増してきた分、物質世界の存在感はますます強くなる。現代人にとっては、目に見える物質世界だけが唯一の現実として確固として存在しているわけです。そういう現代人の感覚を身につけている私たちが「私は存在する」という言葉を聞くと、すぐ現実の物質世界との関係を考えてしまう。そうすると、その意味がますます不可解に思えてくるわけです。
この問題は、物質世界に通暁しているはずの現代の科学者を特に悩ませています。実際、「私」あるいは「自我意識」にあたるものは脳のどこに存在しているか、と悩んでいる脳科学者がたくさんいます。脳の奥底に、私が感じていることをとりまとめている小人(ホムンクルスといわれる)がいる、と感じてしまうらしいのです。まじめな哲学者や科学者は、「私は存在する」という文章を間違いないと思い込んでしまうので、「私」という仕組みが脳のどこかに物質構造として存在するはずだ、と考えてしまうのですね。科学者も科学者でない人も、この(心身問題とよばれる)問題が解明できなければ科学はまだまだ未開拓の学問だ、と言いたくなってくる。科学者が首をひねる問題は哲学者の領域だというわけで、ここでがんばろうと思う哲学者も多くなってくるわけです。
しかしこの辺から、近代現代の哲学はおかしくなっていきました。また同時に、現代科学も、経済や軍事などに実用的ではあるけれども、生や死や自我、という個人の人生で一番大事なことを解明できない片手落ちの学問だ、と思われてしまうようになったのです。