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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人類特有の脳の欠陥

2007年10月07日 | x2私はなぜあるのか

これは人間の脳の欠陥です。人間の脳は自分自身を原点として、世界を表現することが上手なように進化してきた。目をカメラのように使って世界をながめると便利だからでしょう。カメラは世界中を撮影できますが、カメラ自身を撮影することはできない。同じように、脳は自分自身を除いて自分の周りの世界を描き出します。

そうすることが人類の生活に便利だったからでしょう。しかし、これが過ぎると困ったことが起きる。客観的物質世界の中で、自分という主体の存在の意味が分からなくなるのです。それで「自分とはなにか」とか「私はなぜあるのか?」などと自問するようになってしまう。それが哲学のはじまりです。哲学は、人類特有の脳の欠陥が原因で起こる錯覚現象だ、といえる。人間以外の動物が哲学を必要としないのもこの理由です。客観的世界モデルを持たない動物は、「私はなぜあるのか?」などと自問する必要がないからです。

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拝読ブログ:自分の存在意義を求めて・・・

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言語と心身問題の関係

2007年10月06日 | x2私はなぜあるのか

Bouguereaux_2 人間の言葉は、もともと、話し手と聞き手が同じものを見ながら、それを話題にしてうまく考えが通じるように作られている。目の前のものについて話せば、とてもうまくいく。今は見えていなくても、二人とも見たことがあるものについて話しても、話はうまく通じます。しかし、もともと目に見えないものを話題にしようとすると、話は急に怪しくなる。

蚊に刺された腕の、赤くなってぷくっと膨れたところを見せながら、「ここが痒くてね」といえば、話は良く通じる。けれども、腰に手を当てて、「腰が痛くて」というとき、ちゃんと通じるでしょうか? 相手に私の腰痛の苦しみが理解されるかどうかは、とても怪しい。痛くないのに腰に手を当てて嘘をいっても、「ほんとに痛そうね」などと同情されてしまう。逆に、本当に痛いとき、腰の痛みを詳しく熱心に語れば語るほど、相手は困ってしまうだけです。何の話をしているのか、ますます分からなくなるわけです。

人間どうしが共感しあえる物事だけからこの客観的物質世界はできている。目に見えなくて私だけにしか感じられないような物事は、この物質世界には、はっきりとは存在できないのです。私たちは、このところをあまりきちんと理解していない。そのために起こる混乱のひとつが、心身問題、つまり「私」の存在問題なのです。

私が感じている私というものが、私しか感じない部分を含んでいるとすれば、その部分は、この物質世界の中には入ってこない。この世界の中には存在できないわけです。その部分(たとえば、腰の微妙な痛み)は私のことではない、として切り離さなければ、私というものが完全にこの世界の中にあるという話はどこかおかしい、という違和感が出てくるようになってしまうのです。

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互いに無視する二つの脳回路

2007年10月05日 | x2私はなぜあるのか

科学をつきつめるほど、このことがはっきりするだけです。ますます、私が私と思っているような私というものは居場所がなくなってしまう。科学が嫌いな人は、ここで、「だから科学は万能でない!」と叫びたくなりますね。 しかしこれは、科学の欠陥ではありません。科学など作られる前から、人類が言葉を話し始めたときから、いやさらに昔の、人間が仲間と共感できる客観的世界の感じ取り方(拙稿ではこれを客観的世界モデルという)を獲得したときから、この矛盾が出てきていました。

だれの目にも見える客観的世界が現実としてここに存在する、ということと、私が今ここにいてその客観的世界の存在を感じ取ることができる、ということと、このふたつのことの関係を、私たち人間は言葉ではうまく説明できない。それはしかたのないことなのです。これは人間の脳神経系の上に作られた客観的世界モデルの欠陥です。客観的世界の存在感を感じ取る脳の神経回路と、感じ取っている自分の存在感を感じ取る脳の神経回路とは、互いに相手の働きを無視して活動しているのかもしれません。それぞれが感じる存在感を言葉で言い表しているだけなのに、話がおかしくなる。脳のそういう客観的世界モデルの上に作られた人類の言語の構造は、はじめからこのような矛盾をはらんで作られているのです。

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科学に私はない

2007年10月04日 | x2私はなぜあるのか

Bouguereauwet_cupid 世間常識ではあまりはっきりとは理解されていないようですが、科学が対象とする物質世界を表わすのに、私という概念は必要ありません。科学が対象とする物質世界を表わす場合に、「私」とか、「今」とか、「ここ」とかいう言葉は、必要ありません。科学は、どの時点でも、どの場所でも、同じ法則で成り立つものを物質世界として記述する。つまり科学は、空間と時間と物質(エネルギー)の全体が全部連続したひとくくりのものとして共通の法則にしたがうことを書き表すことしかできない。今が今でなくとも、ここがここでなくとも、この私などいなくても、科学の描く物質世界はしっかりと存在できる。逆にいえば、「私」とか「今」とか「ここ」とかいう言葉は、科学の中では意味を持たない。なぜならば、「私」だけが、とか「今」だけとか「ここ」だけとかの場合には観察されて、他の人が他の時間に他の場所で観察することとつながらない(再現性がない)ことを対象とすると、科学が客観的に成り立たなくなるからです。

私が私のものだと思っている、ここにあるこの肉体は物質としてはあるかもしれませんが、それが私である必要はない。それが人体の構造をもった物質でありさえすれば、物質世界に関するすべては説明できる。逆に、それは私だ、と言っても、科学にとっては意味がないわけです。

物質はすべて物質の法則だけで動く。どの人体もすべて物質の法則だけで動く。もちろん私の人体も、私の脳も、物質の法則だけで動いている。例外はありません。

このだれの目にも見える物質世界には、他人にとっての私は存在しますが、私にとっての私は存在しない。私の周りの物事をこのように感じ取り、私の手足をこのように動かし、私の考えをこのように考えているこの私にとっての私、というものはこの物質世界の中にはない。このだれの目にも見える私らしい人体は、他のすべての物質と同じく、物質の法則で動いているだけです。ただ、その物質の構造からして、それぞれの人間の脳の中に「この肉体は私」と思い込むような神経系の機構ができている。だから私という言葉は使われている。それだけです。

私はなぜあるのか、簡単に答えるとすれば答えはこれだけですね。

拝読ブログ:多世界宇宙の探検

拝読ブログ:ジレンマン

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「ある」という動詞が問題

2007年10月03日 | x2私はなぜあるのか

昔の大哲学者たちがむずかしそうに、「存在ということが大問題だ」などと言ったから、(拙稿の見解では)この問題はよけいややこしくなった。存在するという言葉は、(拙稿の用法のように)この物質世界の中に物質現象として存在するという場合だけに限定して使うことにすればよかった。でも、いまさら筆者がこんなことを言っても、もう遅い。哲学者たちが現れるよりはるか昔に、人類の言語は、「ある」、「存在する」という動詞を使って何もかもを言い表すように作られてしまったのですから。

古い時代にも、「私」とはその存在を知覚できるようなものではなく経験の全体のことだ、と言った哲学者がいました(一七三九年  デイヴィッド・ヒューム『人性論』既出)。これは筆者の考えに近いのですが、西洋哲学でこのような考えはあまり受け継がれていかなかったようです。現代哲学の時代になって、ようやく、「私」はこの世界の内部にはないのではないか、という考え方が認められるようになった。たとえば、世界の境界が「私」なのではないか、という考え(一九一六年、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『草稿』)などが、はっきり出てきました(これがそのまま拙稿の見解というわけではありませんのでご注意)。

拝読ブログ: 『存在と時間』論 - 「非性の存在論的根源」について

拝読ブログ:「ヴィトゲンシュタイン」についての面白い考察を見つけました。

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