世間常識ではあまりはっきりとは理解されていないようですが、科学が対象とする物質世界を表わすのに、私という概念は必要ありません。科学が対象とする物質世界を表わす場合に、「私」とか、「今」とか、「ここ」とかいう言葉は、必要ありません。科学は、どの時点でも、どの場所でも、同じ法則で成り立つものを物質世界として記述する。つまり科学は、空間と時間と物質(エネルギー)の全体が全部連続したひとくくりのものとして共通の法則にしたがうことを書き表すことしかできない。今が今でなくとも、ここがここでなくとも、この私などいなくても、科学の描く物質世界はしっかりと存在できる。逆にいえば、「私」とか「今」とか「ここ」とかいう言葉は、科学の中では意味を持たない。なぜならば、「私」だけが、とか「今」だけとか「ここ」だけとかの場合には観察されて、他の人が他の時間に他の場所で観察することとつながらない(再現性がない)ことを対象とすると、科学が客観的に成り立たなくなるからです。
私が私のものだと思っている、ここにあるこの肉体は物質としてはあるかもしれませんが、それが私である必要はない。それが人体の構造をもった物質でありさえすれば、物質世界に関するすべては説明できる。逆に、それは私だ、と言っても、科学にとっては意味がないわけです。
物質はすべて物質の法則だけで動く。どの人体もすべて物質の法則だけで動く。もちろん私の人体も、私の脳も、物質の法則だけで動いている。例外はありません。
このだれの目にも見える物質世界には、他人にとっての私は存在しますが、私にとっての私は存在しない。私の周りの物事をこのように感じ取り、私の手足をこのように動かし、私の考えをこのように考えているこの私にとっての私、というものはこの物質世界の中にはない。このだれの目にも見える私らしい人体は、他のすべての物質と同じく、物質の法則で動いているだけです。ただ、その物質の構造からして、それぞれの人間の脳の中に「この肉体は私」と思い込むような神経系の機構ができている。だから私という言葉は使われている。それだけです。
私はなぜあるのか、簡単に答えるとすれば答えはこれだけですね。
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