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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

共有現実

2011年06月02日 | xx5存在は理論なのか

Alamtadema_under_the_roof_of_blue_i 街角で超ミニスカートとか、目を見張るような突飛なコスプレ衣装とかを身にまとった人が歩いているのを目撃する。私たちは思わず、周りの通行人の反応を見まわしてしまいます。会社の会議で注目を集めそうなことを自分が発言しなければならない立場になってしまった場合など、思わず上司の顔を見たりする。自分が感じ取っている状況認識が現実的なものかどうかを確かめるために、私たちは仲間の視線がどこを見ているか知る必要があるのです。自分が感じ取っているからこれが現実だ、というよりも、(通行人、母親、上司、友達など)仲間がそれを現実と感じ取っているに違いないからそれは現実だ、と思う感覚です。

拝読ブログ:雨、やさぐれ写真。

拝読ブログ:メディアの引き起こした結果

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なぜ目が泳ぐのか?

2011年06月01日 | xx5存在は理論なのか

幼児の動作を観察すると、母親の表情や声色や視線を確認して物事の存在を理解しようとしていることが見てとれます。幼児のこのような動作には、原始人類の認知プロセスの痕跡が残っている、とみることができます。大人でも初めてのことに遭遇した場合、あるいは慣れないことをする場合は、思わず仲間の目を見る。つまり仲間がどう反応するかを見て事態を確認したりしますね。これからしなければならない行動に自信がない人は目が泳ぐ。それは仲間の視線を確認しようとして身体がそう動くからです。

拝読ブログ:目が泳ぐ人は・・・・

拝読ブログ:『可愛い 女の子』

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現代人特有の自我意識

2011年05月31日 | xx5存在は理論なのか

Alama_tadema_the_women_of_amphissahug 現代文明はその機能が極度に発展しているため、私たちの感じる現実の客観性はまったく疑いようがないように思えます。私たちは、自分の目で見える身の回りの物事が実際に客観的に存在している、と確信していますね。それは全く当然としか思えません。しかしそれは(拙稿の見解では)文明がもたらした現代人特有の自我意識の産物です。

拝読ブログ:自分と向きあう時

拝読ブログ:エッセイ(70)文明の進化路線に逆らえるのか(10)

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文明による客観性

2011年05月30日 | xx5存在は理論なのか

仲間と共有する認知経験が、このように私たちの現実感や物事の存在感の基礎になっていますが、この仕組みは自覚できません。私たちは、単に、物事が客観的にそこに存在している、としか感じません。人類の文化が発展し、文明が発達するほど、現実の客観性は強くなっていきます。高度な文明社会の中で育つ現代人は、仲間の存在とは関係なく、むしろ自分一人で物事を客観的に見て取っていると思い込んでいます。客観的現実というものは当然、そういうものであるはずです。私たちは、客観的現実の中に自分が置かれているから、当然に、自分が周りの現実を感じ取っているのだ、と思い込んでいます。人類の文化も言語も文明も、すべて、人間どうしがこのような現実認識を共有していることを繰り返し互いに確認しあうシステムとしてできあがっているからです。

拝読ブログ:南相馬市小高区の縄文時代 (津波で縄文の海に戻った)

拝読ブログ:嫁いねぇじゃん! - 虎の尾を踏む男たちQ -

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仲間と一体化→客観的

2011年05月29日 | xx5存在は理論なのか

Klimtapfelbaum このような運動共鳴により仲間の視線が自分の視線と重なり合ってその物事を見ている。その仲間の表情や身体の反応を見れば、仲間が感じている感情がよく分かる。仲間と一緒に自分はその感情にぴったりと共鳴できている、と感じられる。むしろ、自分と仲間の区別はなく、一体化した感情、あるいは空気のようなもの、を感じる。こういう場合に、仲間とともに感じ取っているその物事は確かに、客観的な現実として存在している、と感じられます。そのとき自分がその存在を感じ取っている、あるいは仲間とともに感じ取っている、という意識はあまりなく、ただ単にそこにその物事が客観的に存在している、と感じられます。これが、客観的現実を感じとる人類特有の現実感覚の起源でしょう。

拝読ブログ:「3.11同時多発人工地震テロ」に多くの方からレビューをいただいています。おかげで情報拡散が進みます

拝読ブログ:2011-05-29 - mustelidaeの日記

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