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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

行動形成の三層構造

2009年05月03日 | x9私はここにいる

ちなみに、拙稿の見解によれば、人間の行動を形成する仕組みは、大きく三層の構造からなりたっている。

一番下の第一層は、運動器官と脊髄、延髄、脳幹の神経回路によって構成される脊椎動物共通の基礎的な反復運動発生装置で、泳いだり、歩いたり、呼吸したり、食べ物を噛み砕いたりする自動的な運動の指令信号を発生する。その層の上に作られている大脳基底部、視床、辺縁系、小脳を中心とする第二層の神経回路は、哺乳動物共通の感情運動発生装置です。この層では受信した感覚情報に反応して、たとえば恐怖を感じて飛び上がる、というような感情を伴う運動を発生する。この装置には記憶学習機能が付随していて、たとえば恐怖などへの対応を繰り返すことで逃避行動が上手になるような機構になっている。

一番上にある第三層は、第二層を包み込んでいる大脳皮質と帯状回と小脳の神経回路を使う情報処理システムで、人間の意識的行動を形成する装置といえるが、(拙稿の見解では)この層はさらに上下の二層に分けられる。最三層の下のほうをなす下位層(仮に第3A層と呼ぶ)には群棲動物が群行動を起こす運動共鳴の装置ができていて、その上に(機能的図式として)乗っている第三層の上のほうの上位層(仮に第3B層と呼ぶ)に人間特有の意識的行動の形成装置がある。

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予測の装置としての現実

2009年05月02日 | x9私はここにいる

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進化によって環境に適応した私たちの身体は、自分の身体が無意識のうちに感じている現実をたった一つの現実と感じることで世界を予測し、一つしかない身体をその一つしかない現実に合わせて、その中をじょうずに生き抜いていく。言い換えれば、私たちは、自分の身体が動いていくことで感じる身体運動-感覚受容‐予測のループがうまく働くことを感じとって、それを現実と感じとる。

つまり、私たち人間の身体は、いま自分の身体が直感で感じて反応しているこの現実をたった一つの現実と感じる。その現実を経験として学習し、学習した記憶を想起して現実の変化を予測する。その予測とそれに反応して身体の中に発生する感情を使って次の行動を計画し実行する。人類のこれまでの生存環境においては、このような身体の仕組みを持っていることが生存繁殖に有利だったからです。

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現実は一つ

2009年05月01日 | x9私はここにいる

つまり(拙稿の見解では)、私たちから見れば、あるときには、ある一つの現実だけが存在するけれども、別のときには別の一つの現実が存在する。代わる代わる存在する、ともいえる。あるいは、現実といわれるようなものは、はっきりとは存在しない、ともいえる。

私が感じているこの現実も、現実を感じているこの私も、どれも脳がつくり出す錯覚に過ぎない、といえる。ただし、現実が確かに存在すると私たちが感じるように、しかもそれはたった一つだけ存在すると感じるように、私たちの身体ができている、ということだけは確かだといえます。

拝読ブログ:チャールズ・ダーウィン最後の言葉

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身体が一つだから現実は一つ

2009年04月30日 | x9私はここにいる

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さて、またここで、前にも述べたこと(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)をくどくど繰り返しますが、それは私たちがよほど気をつけないと、すぐ忘れてしまうことだからです(というか、筆者が年を取って忘れっぽくなったからかもしれないが)。

現実は、私たちが思っているように、たった一つ存在するというものではない。いくつも存在するともいえる。あるいは一つも存在しないといってもよい。現実というものは(拙稿の見解によれば)私たちの身体が、生存と繁殖に便利なように脳を使って私たちの前につくり出すものだからです。ただし、私たちの身体は、現実がただ一つだけ存在するように感じる。身体が一つだから現実は一つになっている。人間の身体はそうできている。

拝読ブログ:コンゴ日記 

拝読ブログ:非現実的

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現実=身体の仕組み

2009年04月29日 | x9私はここにいる

たとえば、身体が弱っているとき、あるいは状況がひどく不利な場合、自己中心的な現実(現実2)を感じとって、世界に不信感を感じて(ひがんだり、ひねくれたりして)身体ごと縮こまるほうが、生存繁殖のためには、よかった。身体が強いときは、世界は自分の味方に決まっていると楽観して、客観的世界の現実(現実1)の中へ乗りだして、自分の身体を、客観的な物質とみなして道具のように操作して、攻撃的な行動を取ると、生存繁殖に有利だった。また、人間関係が重要な社会では、自他の気持ちを最優先の現実(現実3)と捉えて、仲間の発言や表情に敏感に反応して行動を選ぶことが、生存繁殖のためには、重要だった。つまり、私たちがおかれたそれぞれの状況に対応して、私たちの身体は、私たちの身体の生存繁殖に(かつての人類の生活環境においては)有利であった努力をしたくなるような現実が現れてくるような仕組みになっている。

ただし、私たちの身体のこの仕組みが、過去の時代の生存繁殖に有利であったからといって、現代人の私たちがいまそうすべきかどうか、は別の問題です(一七八八年 イマニュエル・カント実践理性批判』既出)。それは、私たちが自分というものを、そして人生というものを、どう考えるか、という(もうひとつのむずかしい)話になる(拙稿16章「私はなぜ幸福になれないのか」拙稿17章「私はなぜ幸福になれるのか」)。

拝読ブログ:現代っ子の心模様

拝読ブログ:キャンベル生物学

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