哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現実=身体の仕組み

2009年04月29日 | x9私はここにいる

たとえば、身体が弱っているとき、あるいは状況がひどく不利な場合、自己中心的な現実(現実2)を感じとって、世界に不信感を感じて(ひがんだり、ひねくれたりして)身体ごと縮こまるほうが、生存繁殖のためには、よかった。身体が強いときは、世界は自分の味方に決まっていると楽観して、客観的世界の現実(現実1)の中へ乗りだして、自分の身体を、客観的な物質とみなして道具のように操作して、攻撃的な行動を取ると、生存繁殖に有利だった。また、人間関係が重要な社会では、自他の気持ちを最優先の現実(現実3)と捉えて、仲間の発言や表情に敏感に反応して行動を選ぶことが、生存繁殖のためには、重要だった。つまり、私たちがおかれたそれぞれの状況に対応して、私たちの身体は、私たちの身体の生存繁殖に(かつての人類の生活環境においては)有利であった努力をしたくなるような現実が現れてくるような仕組みになっている。

ただし、私たちの身体のこの仕組みが、過去の時代の生存繁殖に有利であったからといって、現代人の私たちがいまそうすべきかどうか、は別の問題です(一七八八年 イマニュエル・カント実践理性批判』既出)。それは、私たちが自分というものを、そして人生というものを、どう考えるか、という(もうひとつのむずかしい)話になる(拙稿16章「私はなぜ幸福になれないのか」拙稿17章「私はなぜ幸福になれるのか」)。

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