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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人類共通の使われ方

2012年04月28日 | xx9 生きるという生き方

世界のどの文化でも、「生きる」という言葉は、生物学的な状態認知に関しても人間の存否に関しても区別なく使われています。この点で、おおまかには「生きる」という言葉は人類共通の使われ方をしている、という基本は認めてよいと思われます。

ではその使われ方を詳細に見ていくと、文化による違いはどうか? ほとんどの言葉の使われ方において、細かいところは、言語、方言、文化によって違います。

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「生きる」の多義性

2012年04月27日 | xx9 生きるという生き方

John_william_waterhouse__the_favori ここまでに何度か指摘したように、「生きる」という言葉は通常、生物の生物学的な生死を指して言うと同時に、人間が仲間と世界を共有している、ということを指しても言います。ふつうの会話では、この二つの意味を特に区別せずに使います。新聞、テレビ、本、雑誌などの場でも、区別は意識されません。いわゆる哲学的な問答で、「植物人間は生きているといえるか?」とか、「動物に心はあるか?」などという話題が出るような特殊な場面でだけ、二つの意味が分離されることがあります。

拙稿にとって興味があるのは、哲学問答よりも、むしろ同じ「生きる」という言葉が意識されずに多義的に使われているという事実です。

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生きるという文化

2012年04月26日 | xx9 生きるという生き方

人類の文化には人類共通の部分と地域集団に固有の部分とがあります。言語の構造と同様に、文化も人類の身体構造に依存する部分の上に、集団的に世代継承されていく付加部分があるということでしょう。

拙稿本章のテーマである、生きるという言葉の使い方、に関しても地域集団に固有な世代継承されてきた部分があるでしょう。中世以降、現代にいたる歴史時代では特に宗教の影響も強いと考えられます。

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文化による生き方

2012年04月25日 | xx9 生きるという生き方

John_william_waterhouse__the_crysta 私たち人間は、仲間と共に認め合い共有する現実世界の中でしか生きていけないと同時に、自分がこの現実世界に生きていることをかなり重要なことと思っています。この現象は、生物学的に人類の身体、特にその神経系がこのように進化した結果であるといえますが、そればかりでもない面がありそうです。

人類は緊密な社会構造を作り出し、集団ごとに固有な文化を創り出しています。人間集団に固有なそれぞれの社会、文化がそのメンバーに生き方を教え込んでいる、という面があることは明らかでしょう。

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現実という巣穴

2012年04月24日 | xx9 生きるという生き方

逆に人類という動物は、この現実感覚の中でしか生き続けることはできません。モグラが、自分たちが作る巣穴の中でしか生きられないように、人類は自分たちの神経系が共鳴することで作り出している現実というバーチャルな世界の中でしか生きられない身体になっている、といえます。

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