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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

広い意味の理論

2012年05月03日 | xx9 生きるという生き方

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ちなみに、理論という言葉は、狭い意味では、力学理論、経済学理論のように言語や数式で書かれた概念体系を指しますが、意味を広げれば、ある集団の人々が考えて行動するときの下敷きになっている共通の信念あるいは確信を理論と呼ぶことができます。一般に、このような広い意味の理論はその土台として人類共通の身体反射の上に作られているとみることができます。

ここで話題にしている理論、つまり、生きている人間を見分けるための理論に関しては、その土台となっていそうな身体反射は何でしょうか? 

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人類共通の身体反射

2012年05月02日 | xx9 生きるという生き方

これらの理論は、時に精緻な言語表現や画像形象になっている場合もありますが、ふつうはニュアンスで分るもの、あるいはコンテキストで分かる、あるいは語り方のトーン、表情、あるいはその場の人々が醸し出す空気や匂いで分かる、というような場合が多いでしょう。そのような私たちの分かり方から推測すれば、これらの理論は、人類共通の身体反射から来ている私たちの身体内部の反応を手掛かりにして作られている、と考えることができます。

拝読ブログ:反社会的エロス論/家という制度・性・人類学的な意味での人類の生存の条件: Nameless‐valueの考えてみたいこと

拝読ブログ:菅原和孝『ことばと身体 「言語の手前」の人類学』講談社(講談社選書メチエ)(2010.9.10初版発行): book-read

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文化は理論を持つ

2012年05月01日 | xx9 生きるという生き方

John_william_waterhouse__the_remors つまり文化というものは、正常な人間を、見かけは正常な人間に似ているけれども実はそうでないもの(死者、嬰児、狂人、動物、幽霊、化け物、ロボットなど生きた正常な人間に似ているニセモノ)から、しっかりと区別する理論を持っています。私たちは、いつもその理論を求め、その理論を確認するために仲間と会話し、テレビや新聞やインターネットを見たり、本を読んだり、先生の話を聞いたりします。

拝読ブログ:著者より:『ゲーム理論 新版』 「書斎の窓」に掲載: 有斐閣書籍編集第2

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ふつうの人間を見分ける

2012年04月30日 | xx9 生きるという生き方

いずれの文化も、客観的現実世界を共有する仲間としての生きている人間とはいかなるものであるかを見分ける理論を持つことに注意する必要があります。客観的現実世界を共有する仲間が正常な(正気な、ふつうの)人間であって、私たちは、その仲間に加わって現実の中に生き続けなければならない、と思っています。

どこの文化もどの宗教も、どの学校も、どの先生も、言葉を使って、あるいは表情やしぐさで、正常な人間のあり方を教えています。正常な人間を見分けることができるようにすること。それが文化の重要な役割です。

私たちの身体は無意識のうちに正常な人間を見分けて、それにしかるべく反応するようにできていますが、文化はそれをさらに意識的に言葉によって仕分けることができるようにしてくれます。

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伝統的慣習や民間信仰

2012年04月29日 | xx9 生きるという生き方

John_william_waterhouse__the_missal また実際、国や時代によって「生きる」という言葉の使い方は少しずつずれています。たとえば、人が生きるという状態を侵害する殺人罪を定義する法律など、各国で少しずつ違います。堕胎や尊厳死の認否など国や時代によって少しずつ違いがあります。どれが正しいかということとは別に、違いがあるところに文化あるいは宗教倫理の影響が表れているといえます。

当然のこととして行われている現代の法律や習慣の背景にある人々の伝統的無自覚的な慣習や民間信仰などを調べると、人間が生きる、ということをどう捉えているかに文化の違いがはっきりと読み取れます。

たとえば、未開人の堕胎、間引き、生贄、葬儀、刑罰、病気祈祷などに現代人から見ると奇怪な風習が観察されますが、これらの文化を支える感覚は現代人の文化の底流にも見つけることができます。それぞれの文化が、「人が生きる」という概念をどのような理論で支えているかを表しているとみることができます。

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