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日本文化のユニークさ44:タテ社会と甘え(2)

2012年04月24日 | 母性社会日本
◆『タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)

日本のような「タテ社会」では、企業別、学校別のような縦断的に層化した集団が形成されるが、それは資格の違う人々が、ともに生活したり働いたりする場の共通性によって、枠に閉ざされた世界を形成するということである。日本の企業別労働組合のように職種(資格)の違う人々が、同じ会社という場の共通性によって集団を作るのである。

資格の異なる人々を含む集団の構成員を結びつけるのは「タテ」の関係である。それは、同列におかれないA・Bを結ぶ関係である。これに対して「ヨコ」の関係は、同列にたつX・Yを結ぶ関係である。ヨコの関係は、カーストや階級などに発展し、タテの関係は、親子や親分・子分の関係に象徴される。タテ社会は、集団内の序列を重要視する構造になる。その場合序列は、どれだけその場に長く所属していたか(つまり年功)によって形成されるのが基本になる。

タテ社会での親子的な上下関係は、下にどんどんつながっていく。子が誰かの親になり、その子がまた誰かの親になりというのと類似した形で集団が構成されるのが基本になる。こうした集団でのリーダーシップは、逆に大きな制約を受ける。なぜなら、その集団のリーダーは、直接その成員のすべてを把握しているのではなく、リーダーの子にあたる直属の幹部をとおして把握しているからだ。ということは、リーダーに直属する幹部の発言権がきわめて大きいことである。各幹部は、ある意味で、それぞれの支配下の成員の利益を代表するから、リーダーは、その力関係の調整役を強いられるのだ。

さらに、リーダーとその直属幹部との関係は、タテの直接的な人間関係であるため、親分・子分的なエモーショナルな要素によって支えられている。そこに濃厚なのは、保護と依存、温情と忠誠といった言葉で表現される関係であり、「甘え」の心理と深く通じる関係なのだ。しかもこの関係は、各幹部とその成員、さらにその下の成員という風に、最下部まで一貫している。もちろん、日本のすべての集団がこのような構造をもっているわけではないが、社会構造の基本がこのような特徴をかなり色濃く残していることは確かだろう。

日本に強力なリーダーシップをもった指導者が現れにくいのは、このような日本的な社会の特徴が背景にあるともいえよう。日本的リーダーは、どんなに能力があっても、自由に集団メンバーを動かしたり、強い反対をおさえてまで自分のプランを実行することはできない。多くの成員をかかえる各幹部の意向に引きずられる傾向が強いからである。これは、日本の政治の現況を見ていればいやというほと分かる現実である。

さて以上で、土井健郎が『「甘え」の構造』において明らかにした日本人の心理構造が、「タテ社会」という日本社会の構造と密接に結びついて成り立っていることが明らかになったと思う。

「タテ社会」とは、場を基盤とする社会である。場とは、人間同士が直接的なエモーショナルな関係を結ぶことが可能な空間であり、そのような直接的な関係が大きな意味をもつ空間である。たとえば「イエ」という場においては、他家に嫁いだ血をわけた自分の娘や姉妹たちより、よそからはいってきた妻、嫁の方がはるかに重要な意味をもつようになる。その場でともに生活した時間が重視されるのである。では、日本の社会の集団形成では、なぜ場における人間関係が、他のあらゆる人間関係に優先して認識されるのだろうか。

ひとつの理由は、日本の歴史において「ヨコ社会」が形成される要因がなかったからだろう。「ヨコ社会」の背景には、民族と民族の激しい闘争、一民族による他民族を支配という歴史の繰り返しがあったと思われる。ある民族の侵入と支配によって奴隷的な立場に追いやられた民族が、やがて全体として下層階級を形成していくことは、歴史上多く見られたことである。インドのカースト制度も、その元をたどれば、インドに侵入したアーリア人と先住の人々との支配‐被支配関係に端を発している。これに対して日本では、他民族による侵入と支配によって隷属的な立場におかれたという歴史上の経験がなかったので、他民族の支配に対して「ヨコ社会」を形成する契機が生まれなかったのである。

もうひとつの理由は、上の理由と重なるが、日本列島がほぼ同一民族によって成り立っていたからである。言語や文化が違う多くの民族が混在する社会では、まずそれらの各民族が「ヨコ社会」を形成しやすい。異民族同士が、一地域にどんなに長く共存したとしても、場の共有による同一集団を生み出すことはほぼ不可能である。同じ言語と文化を共有する人々が、他民族の侵入によってかき乱されることもなく、長い年月をともに平和に生活してきたからこそ、生活空間を同じくし、直接的につながる場での人間関係を優先する社会を作ることができたのだ。しかもそこで重視されるのは、家族関係を理想とするような親密な関係であり、そのような親密な関係だからこそ、「甘え」もまた認められ、社会のなかで大切な意味をもったのだろう。

ある意味で「甘え」の文化は、世界がうらやむような歴史的環境の中で作られてきたといってもよい。

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《関連図書》
なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書)
タテ社会の力学 (講談社現代新書 500)


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2 コメント

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Unknown (磐井)
2012-04-25 00:21:12
興味深いですね。
凡庸な上司を優秀な部下で補うといった、日本社会のイメージが必然にも思えてきます。
逆に言えば、日本史上にも稀に登場する強力な指導者の成立要因を考えることが
今の迷走(しているように見える)日本を変える鍵になるのでしょうか。
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Unknown (cooljapan)
2012-04-25 23:01:22
磐井さん、

最近の調査で面白かったのは、強い権力や権威を肯定する人の割合が、どの先進国でも数十パーセントはあったのに、日本だけが3パーセント台だったというものです。日本国民自身が強いリーダーシップを求めていないように見える。でもあまりに指導性がない政治家ばかりだと嫌気がさして、小泉さんや石原さんや橋下さんの日記が異常に高くなったりするのでしょうか。
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