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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現実以外の何か

2012年05月28日 | xx9 生きるという生き方

私たち人間にとってこの現実の現れ方は、それ以外には何もないという意味で、すべてが現れている、といえます。目や耳で感じられる光景や音声が確かなものだと感じられることとまったく同じように確かに、この現実世界全体の存在を、私たちの身体はいつも感じ取っています。

それは人間の身体の物質的な構造そのものから来るからです。この身体の中に生きる私たちもまた、この身体が感じ取る現実以外に何か他のものを感じ取ることはできようがない、というべきでしょう。何か他にあるはずだ、と思うことは幻想です。

拝読ブログ:fucchiE公式blog『Eが大文字あと小文字』 : 淋。

拝読ブログ:インターネットがめんどくさいので現実に逃げたい

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身体の形而上学

2012年05月27日 | xx9 生きるという生き方

Ophelia_1910 その行き止まりの中で私たちは生きている。人間はだれもそうです。それはかつて哲学者たちが形而上学 と呼んだ問題ですが、(拙稿の見解では)これは実は高尚な哲学問題であるというよりも私たちの体感が(錯覚として)こう感じさせるのであって、それは私たち人間の身体が(進化により)そう作られているから、という理由以外の理由はありません。

拝読ブログ:オタクと形而上学(旧:山中芸大日記) 君の正義と俺の正義は違うか

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哲学の行き止まり

2012年05月26日 | xx9 生きるという生き方

現実は現実に存在するかのように感じられる。そのように私たちの身体は感じる。だれもがそう感じる。しかしそこが行き止まりでしょう。それ以上に確かなものがあるはずだと探し求めてもそれはありません。そういう行き止まりです。

拝読ブログ:■[RPGのダンジョンでの分かれ道で行き止まりは正解だよな?

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理論による現実

2012年05月25日 | xx9 生きるという生き方

Ophelia_1894 伝承や経験から実験、観測を経て、神学者や科学者の間の理論形成により洗練されてきたこれらの現代的理論は現実の変化を見事に予測できます。私たちが共有する現実の経験から帰納される法則性は、たしかに人間の現実感に訴える。それをもって現実が存在する、と言いたければ言ってもよいでしょう。

しかしそう言ったときの言葉の内容は、それ以上でもそれ以下でもない。単に、だれにとっても、この現実が現実であるかのように感じられる、というところで止まってしまいます。

拝読ブログ:数学が教えてくれたAmazonの真実 - 「Amazonランキングの謎を解く 確率的な順位付けが教える売上の構造」 - 偏読日記@はてな

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神学と科学

2012年05月24日 | xx9 生きるという生き方

たしかに仲間との運動共鳴を重ね合わせていくところに物理法則(たとえば拙稿27章「私はなぜ空間を語るのか?」)や神的存在や人々の人格の存在感(拙稿第2部 この世はなぜあるのか・第章「心はなぜあるのか? )を捉えることができます。そこから帰納的に物理学の法則や宗教や人間心理の傾向予測などを描くことはできる。

特に西洋では中世から近代にかけて古典哲学の伝統のもとに神学と科学が発展し、日々変化する現世の諸相は永遠不変の神の創造物である(という神学)とか、変化する物質現象は変化しない物理法則からの演繹推論によって予測可能である(という科学)とかいう世界像を語る理論が作られていきました。これらの世界像は私たち現代人の現実認識の根底を作っています。実際、現代文明諸国の宗教や科学や世間常識はそうして作られています。

拝読ブログ:延原時行著作ブログ公開5冊目『わがチャップレンシー論の夢ー危機からの神学的省察』(第16回) - 滝沢克己 新しい対話的世界(TORIGAI)

拝読ブログ:.@midwhite君の意見 : 文系と理系

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