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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

三次元映像のごとき錯覚

2012年05月23日 | xx9 生きるという生き方

Nymphs_finding_the_head_of_orpheus この現実世界は(拙稿の見解では)、私たち人間の身体が(自動的に)仲間の身体の動きと運動共鳴を起こすことで生成されている。いわば人類特有の拡張表現型リチャード・ドーキンスの造語)です。私の身体と私の仲間たちの身体が(運動共鳴により)共鳴して作りだしている三次元映像のごとき錯覚(拙稿第一部 哲学はなぜ間違うのか・第4章「世界という錯覚を共有する動物」 )です。錯覚であるこの現実世界を出発点として進んでいく限り、錯覚の中に何かその根幹となる真実があるはずだと探し求めていくだけとなり、答えが得られるはずがありません。

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神様でなく物理学でなく

2012年05月22日 | xx9 生きるという生き方

まず現実世界がここにある、というところからもう間違いが始まっています。まじめに問題を深く語るほど間違いは深くなっていきます。

私たちだれもが同じように感じ取っているはずのこの現実世界は、神様が作ったとか物理学の法則が作ったとかいう前に、まずは(拙稿の見解では)人体の集合が自動的に作り出している神経系の共鳴現象だというべきでしょう。

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哲学は間違う

2012年05月22日 | xx9 生きるという生き方

Miranda__the_tempest_jww 東洋哲学も西洋哲学も、古典哲学も近代哲学も、すべての哲学はこの問題にこだわる。つまりここにあるこの現実の中に私の身体があるが、その私とは現実世界にとって何なのか?という問題の捉え方をする。

この図式そのものが(拙稿の見解では)すでに間違いです。この間違った出発点から始まる哲学は、がんばればがんばるほど、間違いを深くしていく(拙稿第1部 哲学はなぜ間違うのか? )。

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哲学の問題

2012年05月20日 | xx9 生きるという生き方

このように人間の必要条件としての仲間との現実の共有ですが、たまにこの図式の整合性は破れることがあります。

この現実世界の中にいる私って何?とか、この現実の中に生きている私は何のために生きているの?とかの疑問が出てくる場合でしょう。自己遡及的というべき疑問提起です。これは哲学の問題のように見えます。実際、これは哲学です。

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物質的に生きていく

2012年05月19日 | xx9 生きるという生き方

Lamia_waterhouse そうであるから、客観的な現実世界を共有することは人間社会の基礎だといえるでしょう。そしてもし社会を維持することが人間の身体が物質的に生きていく必要条件であるとすれば、現実の共有はそのような身体を持つ人類が生き残るために必要であるから現実に存在している、ということになります。

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