私たちは家を出ると、目的地へ向かう。その日にすることの目的を持っている。明日しなければならない目的を持っている。来年までに達成したい目的を持って、今日すべきことをしている。そう思って、いつも行動しています。
しかしこれは、実は逆であって、私たちの身体がそれを目的に行動しているように動いているから、私たちはそれが自分の行動の目的だと思っているのではないか? 私たちは、それを目的に動いているように見える自分を見て、それが自分の目的だと思い、その目的を目的と思うから、そこから意識的にそれを目的とする行動をするようになるのではないか? 拙稿の見解では、そういうことになります。
家を出て、たとえば、学校に行く。学校に行く、という行為は実はどういうことなのか?実にありふれた行為ですね。しかしそれがありふれた行為であればこそ、私たちがありふれたこととしてそれをするという行為は、深く人間の身体に根ざしているからそうするのだ、と思われます。
そのような行為に伴う私たちの感情は、かつて原始人であった私たちの先祖が、その感情を伴う行為を実行することで、うまく生き残り子どもを生み育てることができたような行為に違いない。それであればこそ、現代人の私たちがその目的をどう思っているのかにかかわらず、その(たとえば、学校に行くという)行為は、過去の人間の生活環境において生存繁殖に役立つ行動から派生しているはずです。
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