『知的生産の技術とセンス』より 情報をどうアウトプットしていくか? 世界に+(プラス)の影響を与えるために
世界に+(プラス)の影響を与えるための素養
ここまで知的生産とは、世界に対して小さな+(プラス)を積み重ねていくことだと述べてきました。それは写真の投稿であってもよいし、Twitterへの一言のつぶやきであってもよいし、ブログに日々のちょっとした記録を付けていくことでもよいのです。
大切なのは、インプットとアウトプットの循環を続けることです。それによって知的生産に必要なセンスが磨かれていく、ということも述べました。
そのためのツールや環境は、『知的生産の技術』の時代から格段に整備されてきました。これを利用しない手はない、ということも本書をここまで読んできた方なら実感したはずです。
こうやってアウトプットを続けていくと、多かれ少なかれ、周囲の世界からのフィードバックが寄せられます。それは幸いにもポジティブなものもあれば、残念ながらネガティブなものもあるでしょう。
ポジティブなフィードバックは、一緒にその課題に取り組む仲間を見つけるチャンスになるなど、次のステップにつながるかもしれません。逆にネガティブなフィードバックは、対応を誤ればいわゆる「炎上」につながってしまい、しばらく辛い思いをしてしまうかもしれません(しかし、災い転じて、ではないですが、そこからまた新しい展開が生まれたり、新鮮な視点を与えてくれる友人が生まれたりもするから、人生は面白いのですが)。
専門に縛られない
インプットに際して、知らず知らずのうちに「これは自分の専門領域ではないから」という理由で、情報をフィルタリングしてはいないでしょうか? 第2章で書いたように「情報爆発」が進む中、情報のフィルタリングが不可欠であることは仕方がないものの、この「専門」については、いつのまにか自分を縛るものになっていないか、注意する必要があるでしょう。
梅棹先生は、登山から探検へと軸足を移した際、「開拓」という自分のセンスに従ったのではないかと述べました。そのセンスが培われ、機を見て専門領域を移すことができたのも、情報のインプットに際して、「山」という専門に縛られることなく、関心・観察の領域を広く持っていたからではないでしょうか?山を離れるにあたっては、非難されることもあったといいます。自分は山の専門家だ、という思い込みがあれば、このような転進は図れなかったはずです。
梅棹先生は、動物の生態学↓文化人類学・民族学↓文明学へと「学問の横歩き」を続けます。自身をアカデミックの世界ではネガティブな意味で使われることの多い、「ディレッタント研究者」(Dilettante=芸術や学問の愛好家)と呼び、後に設立することになる国立民族学博物館とその研究機関でも、専門分野に縛られない活動を続け、それを後進にも求めたのです。
ある時期にある分野について集中的に学ぶ、というのは今も昔も有効な学習手法です。仕事の依頼といった「情報」を自分が取り入れるかどうか、得意な人に任せた方がよい結果を出せるのではないかといった判断もまた必要な場面もあります。
ただ、それが「専門性」という情報のインプットのフィルターにならないよう私だちは気を付けなければなりません。
例えば、職業での専門分野や、大学での研究分野が、現実からずれてしまうことは珍しくありません。かつては、本や新聞、雑誌を印刷するのに欠かせなかった写植という専門職は、コンピューターによるDTP(デスクトップ・パブリッシング)の普及によって、あっという間に過去のものとなってしまいました(もちろん、芸術など一部では重宝される技術ではあり続けていますが)。
大学生向けの「就職したい企業ランキング」なども、ある特定の分野が必ずしも将来にわたって安泰でないことを示す良い例です。バブル期にはランキングの上位を占めていた銀行・証券会社にはその後のバブル崩壊や、リーマンショックという衝撃が待ち受けていました。テレビや新聞、大手出版社といったマスコミ業界も、インターネットやスマートフォンの普及によって、ビジネスモデルの転換を迫られています。
今、マイナビの人気企業ランキングを見ると、旅行・大手メーカー・広告代理店が上位に入っていますが、果たしてこの先どうなるでしょうか?
バブル期にはほとんど存在していなかったIT企業がランキングを席巻し、今またランキングから姿を消していることも流行廃りの速さを物語っています。今は存在していない職業や専門性がもてはやされることになるかもしれません。
つまり、私たちは、今存在していない、あるいは目の前にはまだ現れていないニーズに向けて、日々インプットを重ねている(重ねるべき)のだと言い換えることもできるでしょう。そう考えていくと、「専門」に縛られることが、いかに危険かということも分かるはずです。筆者の周りでも、普段は会社員、それ以外の時間はブロガーとして活躍している人も増えています。ブログも複数運営し、それぞれに関連したイベントやコミュニティにも顔を出すなど、記者顔負けで活発に活動されている方もいます。そういう人たちはある分野に縛られることなく、専門性を複数持っているということもできるでしょう。
世界に+(プラス)の影響を与えるための素養
ここまで知的生産とは、世界に対して小さな+(プラス)を積み重ねていくことだと述べてきました。それは写真の投稿であってもよいし、Twitterへの一言のつぶやきであってもよいし、ブログに日々のちょっとした記録を付けていくことでもよいのです。
大切なのは、インプットとアウトプットの循環を続けることです。それによって知的生産に必要なセンスが磨かれていく、ということも述べました。
そのためのツールや環境は、『知的生産の技術』の時代から格段に整備されてきました。これを利用しない手はない、ということも本書をここまで読んできた方なら実感したはずです。
こうやってアウトプットを続けていくと、多かれ少なかれ、周囲の世界からのフィードバックが寄せられます。それは幸いにもポジティブなものもあれば、残念ながらネガティブなものもあるでしょう。
ポジティブなフィードバックは、一緒にその課題に取り組む仲間を見つけるチャンスになるなど、次のステップにつながるかもしれません。逆にネガティブなフィードバックは、対応を誤ればいわゆる「炎上」につながってしまい、しばらく辛い思いをしてしまうかもしれません(しかし、災い転じて、ではないですが、そこからまた新しい展開が生まれたり、新鮮な視点を与えてくれる友人が生まれたりもするから、人生は面白いのですが)。
専門に縛られない
インプットに際して、知らず知らずのうちに「これは自分の専門領域ではないから」という理由で、情報をフィルタリングしてはいないでしょうか? 第2章で書いたように「情報爆発」が進む中、情報のフィルタリングが不可欠であることは仕方がないものの、この「専門」については、いつのまにか自分を縛るものになっていないか、注意する必要があるでしょう。
梅棹先生は、登山から探検へと軸足を移した際、「開拓」という自分のセンスに従ったのではないかと述べました。そのセンスが培われ、機を見て専門領域を移すことができたのも、情報のインプットに際して、「山」という専門に縛られることなく、関心・観察の領域を広く持っていたからではないでしょうか?山を離れるにあたっては、非難されることもあったといいます。自分は山の専門家だ、という思い込みがあれば、このような転進は図れなかったはずです。
梅棹先生は、動物の生態学↓文化人類学・民族学↓文明学へと「学問の横歩き」を続けます。自身をアカデミックの世界ではネガティブな意味で使われることの多い、「ディレッタント研究者」(Dilettante=芸術や学問の愛好家)と呼び、後に設立することになる国立民族学博物館とその研究機関でも、専門分野に縛られない活動を続け、それを後進にも求めたのです。
ある時期にある分野について集中的に学ぶ、というのは今も昔も有効な学習手法です。仕事の依頼といった「情報」を自分が取り入れるかどうか、得意な人に任せた方がよい結果を出せるのではないかといった判断もまた必要な場面もあります。
ただ、それが「専門性」という情報のインプットのフィルターにならないよう私だちは気を付けなければなりません。
例えば、職業での専門分野や、大学での研究分野が、現実からずれてしまうことは珍しくありません。かつては、本や新聞、雑誌を印刷するのに欠かせなかった写植という専門職は、コンピューターによるDTP(デスクトップ・パブリッシング)の普及によって、あっという間に過去のものとなってしまいました(もちろん、芸術など一部では重宝される技術ではあり続けていますが)。
大学生向けの「就職したい企業ランキング」なども、ある特定の分野が必ずしも将来にわたって安泰でないことを示す良い例です。バブル期にはランキングの上位を占めていた銀行・証券会社にはその後のバブル崩壊や、リーマンショックという衝撃が待ち受けていました。テレビや新聞、大手出版社といったマスコミ業界も、インターネットやスマートフォンの普及によって、ビジネスモデルの転換を迫られています。
今、マイナビの人気企業ランキングを見ると、旅行・大手メーカー・広告代理店が上位に入っていますが、果たしてこの先どうなるでしょうか?
バブル期にはほとんど存在していなかったIT企業がランキングを席巻し、今またランキングから姿を消していることも流行廃りの速さを物語っています。今は存在していない職業や専門性がもてはやされることになるかもしれません。
つまり、私たちは、今存在していない、あるいは目の前にはまだ現れていないニーズに向けて、日々インプットを重ねている(重ねるべき)のだと言い換えることもできるでしょう。そう考えていくと、「専門」に縛られることが、いかに危険かということも分かるはずです。筆者の周りでも、普段は会社員、それ以外の時間はブロガーとして活躍している人も増えています。ブログも複数運営し、それぞれに関連したイベントやコミュニティにも顔を出すなど、記者顔負けで活発に活動されている方もいます。そういう人たちはある分野に縛られることなく、専門性を複数持っているということもできるでしょう。