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未唯への手紙

未唯への手紙

人工知能はウェアラブルから人体直結へ

2014年10月28日 | 6.本
『人工知能って、そんなことまでできるんですか?』より 身体と学習、教育の役割 もう公教育は必要ない 人工知能はウェアラブルから人体直結へ?

もう一つ、教育の分野に一気に浸透する可能性があるツールとして、ウェアラブルデバイスも気になります。もう少し先の話としても、グーグルグラスのようなものを子どもたちが身に着け始めたら、それこそテストでも見た瞬間にグーグルグラスが答えを出している可能性もありますよね。そんなメガネを子どもたちがしていたら「電脳コイル」の世界ですが……。

それはあリ得ると思います。ただ、私はウェアラブル系がどこまで進展するのかは若干の疑問もあります。結局、人間が身に着けるものは、あまり変わらないですよね。いくら便利と言っても大差はなく、グーグルグラスとスマートフォンの何か違うかというと、手軽さ以外では、できることはだいたい一緒です。

最終的には、そこに何か革新的なものがあるかどうかで決まる。革新性次第でしょうね。

なるほど。グーグルのコンタクトレンズ、グーグルアイズは革新的かもしれません。スマートフォンは現代人のお守リだと考えてみると、昔の人も護符とかお守りを持っていて、答えが返ってくるか分からないですが、何かピンチになるとそこに問いかけたり、お願いしたりしていたわけです。そういった役割をいまはスマホとか、Siriのようなインターフェースが担っているのではないか、と。

それが今後、ウェアラブルになったとき、それこそグーグルグラス的なもので子どもたちがテストを見た瞬間に答えはもう出ていますとなった際には、もう答えるのをやめるんじゃないかという懸念があります。どうせ答えはすぐ出るでしょ、みたいな。

定型的な問題に対してはそうなるかもしれません。一方、答えが出る問題かどうかを調べるとか、むしろ答えが出なかったときにどう対処すればいいか、答えがある問題にどう変えるか。このあたりが人間のメタなところで、これから大事になることは確かでしょうね。

人工知能の世界でも極端な考え方をしますと、グーグルグラスとかグーグルアイズとかそういったウェアラブルデバイスだけでなく、そのうち人間の脳みそに直結してもいいではないかという話になると思います。ただし、先はどからのお話では、データはいったん数字に置き換えられて電気信号で処理されますから、システムとしての人間の脳とは違いますね。人間も究極的にはOと1の電気信号ではありますが。生体への侵襲か非侵襲かの問題もあり、人工知能と脳をくっつけるのは相当に難しいと想像しますが。

人間の脳の情報処理は、感覚器官が違っていても一様に同じ仕組みで処理できているのがすごいところです。そういったいろいろなデータに対応できる機能がありますから、実はセンサーやネットワークと直結したら、意外に人間の脳からは普通の世界に見える可能性があります。

たしかに認知機構としての脳は意外と汎用的かもしれません。ブレイン・マシン・インターフェースの最近の研究ですと、失明してしまった人の脳に電気的な刺激を与えることで、物の形とか色合いまでは分からずとも、だいたいの大きさとかは把握できるようになる視力の補完機器も出てきているようです。生命体と機械は、電気的刺激を介して少しずつ近づいている気がします。

それは言えますが、それで何かできるようになるの? という疑問もあります。ある意味、人間が使ってる言語は非常に効率の良いコミュニケーション方式で、一単語に多くの意味が入っています。私のニューロンの発火の状態を、五分とか一〇分とかそれくらいの時間で他の人に伝えることができるのは相当にすごいことなんですよね。

そうですね。漢字とか表意文字の機能は非常に優れたものがあって、英語のような表音文字の言語はあまり速くは読めませんが、表意文字の漢字は視覚的に意味が入ってきますから、ページ全体を見て読んでいくことができます。かなりの速読も可能です。

表意文字の速読のような機能が、脳と直結されることで入力が速くなることはあるかもしれません。しかし直結はせずに、人間の他の器官、視覚や聴覚というデバイスを通したほうが変換率は高い気がします。それで脳に直結しないとなると、やはリグーグルグラスになるのですよね。

いまの技術、環境では、やはりあの種のデバイスに行き着きますか……。

新しい資質

2014年10月28日 | 5.その他
パートナーの異動

 私の例えでいくと、本社・電算部に着陸態勢を取った時に、風が吹いてきて、名古屋に流されて、不時着したようなものです。同じようなもんです。

 Sにとっては、これはラッキーな選択肢です。成功すれば、皆にアピールできます。失敗したら、パートナーの性にすればいい。チャレンジです。パートナーは見ている人たちには、大きな存在になりつつあると思って、やり抜くしかない。

 従来のタイプのインタープリターではダメです。細かい所は、システム担当と電算メーカーに任せればいい。販売店の立場に立って、経営層と一緒になって、どうしていけばいいのか、何が問題があり、何をしたいかをハッキリさせることです。

 具体的に言えば、富山の社長は何をしたいのか、システムができる部分は大きいと感じている。その部分をまとめると同時に、メーカーとして、タイアップしていく。全体の力にしていく。あわせて、横の連携を個別でやるのではなく、メーカーの事務局で展開できるようにしていく。それを女性のしなやかで、かつ、粘り強い、やり方をしていく。

 もう一つ、重要なのは、Wさんなどと協力して、名古屋の女性チームが全面的にカバーする。メーカーの中に女性の論理を入れ込むことで体質を変えていく。

新しい資質

 パートナーに付けてもらいたい、新しい資質。相手の身になって、考える。相手よりもさらに大きな企画を持つ。詳細は相手に従う。そういう意味では企画は大きいけど、詳細部分は小さいというバランスでやっていく。

 メーカーの方が力を持っていることを認識したうえで、あくまでも下でに出る。その上で、メーカーとして、どうしていくのか。そうしないと、下でに出ることだけが美学になってしまう。心はスレーブになってはいけない。元々は力のアンバランスがあったために、そういう風にやっているだけです。何しろ、モノを提供できるのだから。

 いつか、パートナーがブログを見た時に、キーワード「パートナー」と入れた時に、サジェッションが見えるようにしておきましょう。困って時にそれを見ればいい。私が居なくなった時に、世界が存在するかどうかわからないけど、その時のためです。

哲学のベースの数学

 ウィットゲンシュタインは「言葉で表せないのはないと思え!」と同じような格言を作らないといけない。

 カントもヘーゲルも素人相手に数学的概念を入れ込んでいます。底辺の力は、哲学よりも数学の方がベースです。

 数学が新しい世界を向かえている。そして、次の存在と無の世界に行こうとしている。「存在と無」と「市民=超国家」とムスリムの戒律がつながっている。この方程式をどう解くのか。

未唯空間は超空間

 これを各平面でやるだけでなく、その超空間でもって、全体を作り上げていく。もっと上の大いなる意思からの指示と思えばいい。直近のところはあまり関係ない。

 順序数列から新しい数学、位相。そして、分化と統合でキーワードを分けることもできます。幸いにも、数学の連続性とか次元などの概念を持っています。曖昧ですけど、厳密にするつもりはない。雰囲気で十分です。

 未唯空間は7つの次元に3つのサブスペースがある。この7次元空間に距離を入れていく。最低でも、項目の順序をつけていく。位相化の始まりです。社会の位相化のまでに未唯空間の位相化をやっていく。従来のハイアラキーでは表現できない世界です。

 世の中で入れ子と言った時には、単なる上下しかないけど、これなら、概念と実体と入れ子を逆にすることができます。それが未唯空間であり、未唯宇宙です。

見本とするのはサファイア

 見本にする人はいくらでもいます。地区担当の女性に聞きに行けばいい。それよりも、富山と山梨の社長にはあり方についての意見を聞いた方が指針になるかもしれない。

 販売店からTMちゃんと言われた女性にも聞けばいい。それらで新しいモデルになることです。あくまでも、メーカーにとって、何をすべきかというところです。

 見本とするものは居ないと言うけれど、パートナーが誰かを見本としてやってきたとは思えない。全部、自分で考えてきた。人との言うことは聞くわけない。

 ファシリテーション(f)を10年間やってきた。ここ2年はリアライゼーション(r)してきた。今度は販売店の中の活性化、エンパワーメント(e)が対象になる。その次に考えられるのが、販売店要望をメーカーに持ってくる、インタープリテーション(i)です。これで、fireできます。これでサファイアは循環できます。その上で、サファイア事務局として、メーカー・販売店・地域をどうしていくのかを考えていけばいい。概念は与えます。

キーワード空間の分析

2014年10月28日 | 1.私
未唯へ

 もう寒い! 手袋とマフラーと帽子がいる。似合う帽子はない。マフラーと手袋は用意しましょう。来年になると人の目はさらに気にする必要はなくなる。

 スタバのカードに2千円入れました。11/1からキャンペーンが始まります。

キーワード空間の分析

 「サファイア」は特殊な二次元空間。そこに循環を定義したモノ。

 「存在の力」は内なる世界で生まれてきた理由から生じる力。

 「意思の力」に対抗する、次の世界を定義する。

 「歴史の進化」は存在の力で個人が変わることによって、歴史が変わっていく世界。そこにサファイアは含まれる。

 「マーケティング」はサファイアの中に含まれる。環境社会の上流から下流への動脈系、下流と上流の静脈系の循環を示す。

 「内なる世界」は完結している世界で、柵がない、自分の中の世界。外部との接点は制約される。それを開くのは、絶対的な存在。スジャータもそこに属する。

 「社会の位相化」は、数学モデルとした時に、従来のハイアラーキーから循環型になっていく。それはローカルとグローバルの位相化そのもの。文化と統合もこの中に入る。

 「システム設計」はサファイアの概念を具体的な世界でどう変えていくのか、その企画の部分。ポータルとか情報共有の設計はこの中に入る。概念は「情報共有」の方が大きい。

 「クルマ社会」の下に、企業の存続がある。資本主義・民主主義も下にある。これは上かもしれない。

 「大いなる意思」はキリスト教の神、ムスリムの世界ともつなげていく。一番大きいのは、偶然というところ、生まれてきた理由の概念で、はじめてつながっていく世界をどう表現するか。

 「情報共有」はポータルなどの部分と、フェースブックなどのソーシャルツールでの情報共有係数みたいなもの。もっと、幅広い概念につなげていくのか、手段として、やっていくのか。

 「国民国家」は過渡期の形態と見ます。民主主義と資本主義はこの中に入れます。超国家という概念、国家というものをどうしていくのか。国家のありがたみはいくらでも本が書かれている。それらの項目と連携させます。

 「コミュニティ」の中に、知識と意識は入ります。それ以外に上に向かう力、下を支える力、存在の力を活かすところ、核としての存在、それらを包含関係と見た時にどうなるのか。

 サファイアにしても、機能の説明ではありません。それぞれの項目に示されています。他との項目との関係、包含関係、それの発展形、企画の部分、概念の部分、それらがどことつながるのか。

 共有意識の中には情報共有があります。よく似ています。公共との関係、パブリックとソーシャルの世界をどうつなげていくのか。機能は一緒だけど、概念として変えていく。あくまでも、キーワードだから、ダブりを気にせずに、拡げていく。各項目のところが上手くいくようにさせていくための手段。


順序の設定

 順序を決めるときに、手法として入るものと概念とするものとでは、包含関係が違ってくる。その意味では、順序数列にした上で、それらの関係を明確にして、シナリオを作っていく。

 何しろ、空間上にバラバラにある、思いついたもの、長年かかって得たキーワード、それらのディスクリートな空間に対して、順序の概念を入れていく。

 その中で含まれるキーワードを並べていきます。今までは文章の因数分解してきたものに、順序を付け加える数学的な手法です。空間を作り出す。疑似の連続性を保証する。

 一つの項目に4つの要素ができます。四元数ではないけど、この考えは未唯空間のベースです。

 一つづつ、キーワードの組み合わせで、順序をつけることが必要です。n×(n-1)の組み合わせになります。それで距離とか、軸ができます。

 例えば、資本主義とか民主主義がどう変わるのか。これと関係する言葉は何か。共有意識などが関係します。情報共有も変わります。一番、変わるのは、市民主体のものと組織中心のモノですから、意思の力も関係します。

 そう言うところをあまり、吟味しなくて、一断面でもって、適当な文章が書かれています。そう言うところの親子関係、並列関係、包含関係、無関係などを集めて、全体の空間を作ろうとするのだから、まあ、膨大ですね。

エコシステムの保存 人口、資源、廃棄物問題

2014年10月27日 | 3.社会
『国際政治の構造と展開』より

人口増大は生物の生存を支える地球の収容力への負担になっている。人口増大には地域差があり、2000年から2050年の間にアフリカの人口は126%の増加が予想されるのに対して、アフリカ以外の地域は35%の増加が予想される。アフリカにおいて人口増大の環境への負担はとくに大きくなる。世界の人口増大を管理する努力は国連により行われており、その最大の機関は国連人口基金(UNPF)で、毎年、世界人口白書を発表して、主に開発途上国における人口問題に対する啓発と援助を行っている。同時に、創設以来世界のほとんどの国々での人ロプログラムを支援するために60億ドル以上を独自に支出してきたし、他の国連機関、非政府組織、政府と調整してプログラムを進めてきた。国連はこれまで3回にわたり世界人口会議を主催しており、1974年のブカレスト、1989年のメキシコに続く1994年のエジプト、カイロにおける国連人口開発会議(UNCPD)には170カ国以上と多くのNGOの代表が参加し、人口管理、中絶、避妊などについて話し合った。とくに議論を呼んだのは、保健衛生、人口管理のためにどこまで中絶が許されるかで、世界の多くの国で中絶に関する法律が異なることから意見が対立した。途上国では毎日2万人以上にも上る18歳未満の少女が出産し、2010年の推計によれば、途上国の20から24歳の女性3640万人が、18歳になる前に第1子を出産している。

人口管理の手段の1つは出生率の抑制だが、そのためには産児制限についての情報、避妊薬、避妊具などの手段を提供する社会的アプローチと、女性の教育・経済機会を拡大し貧困を削減することにより出生率を削減する経済的アプローチがある。国連が1975年を国際女性年に指定し、女性のための10年を開始したのも、経済的アプローチの一環である。

開発が進むにつれ、エネルギー、鉱物、森林、土地、野生生物、海産物、水などの資源の消費が増大し、天然資源の枯渇の問題が出てくる。持続可能な開発においては資源の保全が課題になる。石油、天然ガス、鉱物資源は、急上昇する世界のエネルギー需要に対して有限であり、埋蔵量が底をつくことが懸念されている。エネルギー需要のほとんどは先進国によるものだが、需要が最も急速に増大しているのは開発途上国である。2013年i-H月に国際エネルギー機関(IAE)が公表した「世界エネルギー見通し“World Energy Outlook 2013”」では、2035年のエネルギー需要は中国が圧倒的なシェアを占め、インドも米国やヨーロッパに並ぶ程のエネルギー需要国になると予想している。同時にエネルギー需要の増加分について分析、天然ガスや石炭、石油などの化石燃料が引き続き高い需要があり、再生可能エネルギーも需要の伸びが見込まれるものの、そのシェアは2035年になっても低いと予想している。今後のC02排出は増加し続け、地球温暖化防止のためには、新興国や途上国におけるC02排出の抑制が重要な課題となることを強調している。

森林は生物資源の宝庫であるが、世界の森林は減少しつつあり、世界人口の増大、経済開発が森林を破壊している。約3万5000平方マイルの森林が毎年消滅している。森林の減少は、地球温暖化、木材の不足、多くの生物種の絶滅などの否定的結果をもたらしている。森林の減少とともに、土壌、土質の悪化など陸地の質の低下の課題になっている。

世界の野生生物は極めて多様性に富み、生物種の数は、哺乳類4300種、肺虫類6800種、鳥類9700種、魚類2万8000種、軟体動物8万種、昆虫100万種以上、クモ類4万4000種などとなっている。人間社会の開発は多くの野生生物の生息域を圧迫し、多くを絶滅に追いやっている。絶滅に瀕している野性生物のあるものは薬剤に必須の物質を提供する経済的価値のあるものもあり、野生生物の絶滅は経済的にもマイナス効果を生む。絶滅に瀕した野生生物の取引を規制する国際協定など、野生生物保護の国際的努力も行われている。

地球表面の71%が水で覆われており、水の97%が塩水、2%が北極、南極の氷、1%が飲料水、家畜用、濯漑用水などに利用できる淡水である。淡水の使用量は人口の増大に伴って増大しており、とくに開発途上国の開発が進むにつれて開発途上国の淡水使用量が急増することが予想される。限られた水の供給量に対して需要が増大している。世界の人口増大の結果、世界の水供給は2050年までに3分の1減少し、60カ国の70億人が水不足に直面すると予測されている。21世紀は水戦争の時代といわれる。すでにアフリカでは現実になっており、中国による外国の水や森林の買収による囲い込みすら起きている。

海洋の塩水は飲料水や濯漑用水には使えないが、食用となる海産物を提供する。しかし人間の食料需要の高まりが、魚など海産物への圧力を高めている。1950年には漁獲量は1900万トンだったが、近年では1億1000万トンにまで増大している。海洋の持続可能な漁獲高は年間9600万トン以下と見積もられており、漁業資源が徐々に底をつくことになる。漁業資源は人間が摂取する動物たんぱく質の16%を供給する。漁業資源の枯渇は海産物にたんぱく質摂取を依存している国の人口の健康への脅威になる。1994年に発効した国連の海洋法条約は、12海里(約22キロ)の領海、200海里(約370キロ)の排他的経済水域(EEZ)を定め、漁業資源の保護のための国際的措置となった。その他の分野でも、国際的、国内的に漁業資源保護の努力がされている。

開発に伴う工業廃棄物、破壊的な農業技術により、土地の質が悪化している。廃棄物とその輸出は、国際的に土地の質に対して大きな影響を与えている。人類の最大の建設プロジェクトの1つはゴミ廃棄場の建設である。土地の質保護のための国際的努力も行われており、1992年に105カ国により調印された廃棄物等の国境を越える移動および処分に伴う汚染問題に対処するため、廃棄物の処分・回収にかかわる国際的な枠組みおよび手続き等を定めた「有害廃棄物越境移動管理条約」はその1つである。水質、空気の質も公害などにより悪化しており、その質を保護し改善するための国際的努力が行われている。

国際政治経済の視点 2050年の世界を予測する

2014年10月27日 | 4.歴史
『国際政治の構造と展開』より 国際政治経済の視点 国際競争を理解する 国際協力としての経済援助 協力か競争か

世界有数の物流企業であるドイツポストDHL社は、世界の著名な研究者や専門家の参加を得て、2050年には世界がどうなっているかを予測する研究プロジェクトを実施し、その成果を2012年に報告書「Delivering Tomorror-Logistics 2050, A Scenaric Study』(『物流の未来・ロジスティクス2050、シナリオ研究』)として発表し尨。この報告書では、2050年の世界がどのようになっているのかについて、5つのシナリオを作成している。その5つのシナリオとは、第1のシナリオ「暴走する経済、切迫する崩壊」、第2のシナリオ「巨大都市における超効率」、第3のシナリオ「多様性に富むライフスタイル」、第4のシナリオ「保護主義による経済麻蝉」、そして、第5のシナリオ「グローバルな復元力とローカルの適応」である。ここでは、この5つのシナリオの中で、第1のシナリオ「暴走する経済、切迫する崩壊」と第4のシナリオ「保護主義による経済麻蜂」について、とくに注目したい。この2つのシナリオが、それぞれ、経済的自由主義の観点と経済ナショナリズムの観点を反映しているからである。

第1のシナリオ「暴走する経済、切迫する崩壊」におけるキーワードは、「自由貿易、物質主義、所得増加、大量消費、過密都市、資源乱掘、持続不可能な成長、気候変動」である。このシナリオが想起する未来は、次のようなものである。「グローバル経済の中心は、欧米諸国からアジアとかつての新興国に移っている。世界経済は、自由貿易による貿易の拡大、規制を受けない物質主義と大量消費、大規模開発、持続可能性の観点の無視、という特徴がある。結果として大規模な気候変動が不可避であり、天災による被害が頻発している」。このように、経済的自由主義の政策を極端に推し進めれば、人々の欲望に基づく経済活動を規制することができなくなってしまうため、このシナリオに現されているように経済が「暴走」してしまう危険性がある。

これと対照的なのが、第4のシナリオ「保護主義による経済麻蝉」である。このシナリオにおけるキーワードは、「ナショナリズム、安全保障、保護主義、国有化、ブロック経済、経済低迷、国家間の対立」である。このシナリオが描く未来像は、次のように悲観的である。「強化された経済ナショナリズムや強固な保護主義政策のために、グローバル経済は過去のものとなり、経済は低迷する。技術開発は遅れ、生産性は激減する。各国は稀少な資源を巡って争い、資源価格は高騰する。省エネや温室効果ガスの削減を実現しようとする国際協力が失われたために、気候変動の危機が迫る」。大恐慌時代に経験したように、自国の経済的利益のみを追求する経済ナショナリズムの考えを各国が徹底すると世界経済が低迷するというシニカルな指摘がなされている。

グローバル経済の中で、経済ナショナリズムはどのような意味があるのか。これまでの議論から明らかなとおり、経済のグローバル化がいくら進展しても、世界各国が国民国家(ネーション・ステート)である以上は、政治と経済を動かす原動力となっているのは経済ナショナリズムである。経済ナショナリズムを無視して世界経済を理解することはできないし、同時に、世界経済の変化を無視した経済ナショナリズムおよびその行動表現としての経済政策は、決して国民の長期的利益をもたらすことはない。

将来の世界がどのようなものになるのか、既に定まった宿命は存在しないはずだ。どのような未来を構築するかは、現在のわれわれの手に委ねられている。自分たちが望む未来を手にするためには、国際政治経済学における観点を深く理解することがその一助となると思われる。

国民国家の将来

2014年10月27日 | 4.歴史
『国際政治の構造と展開』より 国家の役割

また世界には、地球温暖化問題、国際テロ、グローバリゼーション、国際金融危機など超国家的性格の問題が増えており、単独の国家だけで対応できない課題が多くなっている。こうした課題に対しては、国際的協力のもとに多国間で対応しなければ解決の道を見いだすことができない。このことも、国家の存在意義が薄れている1つの側面である。

リべラリズム派の研究者は、国家の脆弱性の増大が国家間の相互依存の高まりの証だとする。とはいえ、主権が終焉に向かっているのではなく、新しい状況によって主権の行使が修正されているにすぎないとし、相互依存をよしとする熔印を押す。リべラリストは原料を他国に依存し商品を輸出している国は、紛争解決に当たり戦争に訴えたりせず、協力しあう、と考える。

ケネス・N・ウォルツをはじめとするネオリアリストは、この考えをあまりに単純すぎると批判している。そして、国家がどのように相互に依存しているかを調べたうえで、米国は世界のほかの国々なしでもおそらくなんとかやっていけるが、ほとんどの国は米国なしでは立ちいかないだろうということを、率直に認めるべきだとしている。ウォルツは、米国の他国への依存度の低さがその超大国の地位の第1の源であり、国力の劣る国々の行動を一極支配するのを相対的に容易にする源であると述べている。

国家の存在意義の希薄化に対して、国家は依然として健在であり、今後国際環境の変化に適応、変化して重要なプレイヤーとして存続し続けるという見方もある。国民国家は、理論的には独自の国家を持ち、それを維持し、自主的に統治したいという民族の願望の当然の成り行きである。国民国家は旗、国歌、鷹、熊、龍等の動物などのシンボルで表される。愛国主義的忠誠心の対象であり、多くの人々は国民国家を政治的権限の最高の形式と考えている。国民国家が過去数世紀にわたって世界政治の主要アクターであったし、そして、これまでも見てきたように、国家は自国の利益を追求して、国際システムの中で一方的に行動しがちであり、この傾向はこれからも続くであろう。

20世紀後半以降、国家の数は増えていることもその表れだと指摘されている。インドは国際連合規約の原加盟国になったものの、その時点ではまだイギリス領だった。1945年当時、世界には50カ国強の主権国家しか存在していなかった。現在の国際システムには約200の国家がある。国連加盟国は1945年の51カ国から、今日、2006年にモンテネグロが加盟し、2009年時点で192カ国、2011年には南スーダンが加盟し、現在193カ国になった。加盟国の大幅な増大により、当初60から70カ国の代表団しか想定していなかったニューヨークの国連施設は、無理な拡張を強いられている。こうした発展の最終結果が、地球上のほぼすべての個人がそれぞれの国民国家に住んでいるという現状である。

しかし、誰もが自分の住んでいるところに満足しているわけではない。トルコやイランに住むクルド人のように、ある国に住んではいるものの、別の地に住みたいと思っている人々もいる。そうしたグループに共通しか特徴は、自分たちの住んでいる国の一部として統治されるのはおかしいという思いである。さらに注意しなければいけないのは、すべての国民国家が同じではないという点である。大多数は民主主義国家であっても、選挙によらない統治者に支配されている国がまだ多く残っている。同時に、かつての政治組織形態と類似した形態を有する国もある。目立つ例をあげると、中華人民共和国は古代帝国に似ているし、シンガポールやリヒテンシュタインは、その地理的大きさから、古代ギリシャやルネッサンス期のイタリアの都市国家に似ている。こうした違いはあるものの、国民国家の概念はすべてに適用されており、台湾は最も注目すべき例外であるとしても、国際法上は、ほぼすべてが主権国家である。

また複数の国家群が地域ごとに連携する地域共同体がますます増えており、国家間で連携して国家を超えた問題に対処しようとする傾向が見られる。アラン・ミルワードは、諸国家をEU統合プロセスに参加しようとする気にさせた要因を検証し、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)創設は、フランスの引き続く経済回復を確実にすることにより国益を満たそうというフランスの願望の表れであると強調している。ミルワードは、国益に焦点を当てることによって、ヨーロッパ統合は国民国家が必要としたときに起こり、超国家的組織は特定の目的のために設立されたのであり、国民国家の影を薄くする手段として設立されたのではないと主張した。

これは国家が国際環境に適合し生存してゆく兆候とされる。世界的な民族主義、国粋主義の高まりも、国家の継続的重要性を示すものと見られている。また国家は存続を保障する多くの資源を保持している。

リアリストにとって国家は主な、というより唯一の国際政治分析単位である。軍を管理するのは国家の責任だからである。リアリストは、国家は正当な武力行使の独占権を持つ実体であるというマックス・ウェーバーの定義を奉じている。リアリストの描く国際的無政府状態という危険な世界では、軍事力だけが国家が自衛し、世界の舞台で意味のある行動をとる手段である。

21世紀に入り主権国家の未来はどうなるのだろうか。ほとんどの政治学者は、国家の重要性の低下は認めるものの、予測可能な将来、国家が消滅することはないという中道の立場をとっている中道派の1人がいうように、一主権国家システムは(予見しうる将来において)世界政治の主要構造であり続けるだろうが、世界政治の中身は変化している」。そうした変化をある研究者がうまく表現している。

新時代が展開しつつある。それは幾重にも反駁する世界である。……国家は変貌を遂げてはいるか、消滅しているのではない。国家主権は蝕まれてはいるか、依然その存在は力強い。政府は弱体化しているが、威張り散らす力はまだある。……国境は今のところ侵入者を締め出しているが、小穴はどんどん増えている。Landscape(土地の風景)という言葉は、民俗の風景、メディアの風景、イデオロギーの風景、テクノロジーの景色、経済の景色に道を譲りつつあるが、領土権(縄張り意識)は多くの人々にとって依然として最大関心事である。

唯一確かなことは、国家を基盤とするシステムは変化に動じない、非脆弱であると決めつけるのは誤りである。ある研究者が言及しているように、「歴史は誰にも与しない。……(国家の興隆から)引き出せる教訓は、あらゆる組織は常に正当性が問われる、ということである」。したがって、国家を維持できるか否かは、その大部分が、「そうした挑戦に効果的に応じることができるかどうか」にかかっている。国家は、将来におけるその役割は小さくなるが、政治的プレイヤーとして消滅することはないというのが大方の見方である。

年内に答を出す

2014年10月27日 | 1.私
年内に答を出すには

 どう考えても、年内に答を出すのはムリでしょう。そういっている間に、時間軸が変わってきた。どうしたら、まとめられるか。テーマで変えていくのか。やれることをハッキリさせていく。

 ここに話すぐらいだったら、出来ないのは確かです。入力するのは目が疲れます。言い訳が先に立ちます。最期まであがきます。そこに美学を感じます。

未唯へ

 ファミリーマートが雑貨風になっている。サークルKの通路は広い。

 バスの中で音楽が漏れているけど、相手が見つからない。ICレコーダーで採取した。音楽を聴くことにした。音には音です。

書き起こし

 音声を入れるのはいいけど、書き起こしを先に考えないといけない。ポメラを考えたけど、やはり、パソコンでインスピレーションしかない。

Iさんとの会話

 月曜日の予定を聞いていなかったので、心配していたけど、居ました。会えてよかった。

 パートナーは隕石よりもハレーすい星。パートナーに会えてよかった。イメージ通りだったとのこと。ああいう感じの女性でした。隣の女性を伝書バトとして、紹介することを約束。これらは常連の枠を超えている。

 やはり、何もないですね。パートナーからのアクセスが土曜日の10時から止まっています。ハレーすい星は太陽から離れた。

 Iさんのパートナーを見る目は面白いです。イメージ通りだという表現。私との会話からイメージを作り上げたんですね。私自身、20年になるのに、未だにパートナーのイメージが掴めないでいる。

情報量は増えたけど、退化している

 20年前に比べると、情報量は莫大に増えています。だから、未唯空間みたいなものがまとめられた。増えたものをどう処理していくのか、全然、その文化がない状態でここまで来ています。

 人間が進化していない。むしろ退化している。本を読まなくなったこと、一つとっても。これは仕事から変えていかないといけない。そして、教育と家庭。

OCR情報から関心事の解析

 OCRした情報から考えると、色々なコミュニティが気になっています。これはテーマの中で、横断的に考えます。

パートナーの異動を受けて、相談

 なぜ、こんな異動になったのか? 女性活用のアピール。チャレンジ。プレッシャー、偶々、おちょこちょこ。多分、直前に方向変換したのでしょう。

 素直な感想としては、面白いことになってきたと思います。女性であることも重要なファクターです。そして、若さ! 新しい担当を発掘させたいのでしょう。部長などの感覚も感じられます。将来も見えてきた。その前に、じっくり、販売店の視線で行動していけるといいですね。

 こうなってくると、現業での柵が立ち切れます。一刀両断。経験だけを自分のモノにすればいい。引き継ぐ必要はない。それが組織の命令です。

 パートナーの負けないように、自分の生活をチャレジャブルにしないと、相手にしてもらえない。

 これから大いに苦しむけど、その分、大きくなれる可能性が出てきた。その意識をどうつかまえていくのか。その予感はあります。

キーワード空間

 キーワードで空間を作りましょう。順番にしゃべっていたら、自然な言葉になるようにしていきたい。未唯空間に順序を入れることから位相化を始めましょう。

 最終的に、テーマはアルファベットではなく、番号にしていきましょう。とりあえず、16テーマにしておきます。まだまだ、感覚的なキーワードです。

 今日は、それを練る時に考えます。寝るときには宿題を出します。それとも、3時ぐらいから、ボーと考えましょう。次の日に会社で打ち込みます。行きと帰りの歩くとき、バスの中でICレコーダーに入れます。

道元禅師の生涯

2014年10月27日 | 1.私
『道元「典座教訓」』より

道元禅師の生まれは、正治二年(一二○○)陰暦正月二日。父は後鳥羽院に仕える内大臣久我通親、母は摂政関白松殿茶房の三女伊子といわれる。最近の研究では、通親の次男通具が父との説もある。超名門のエリート。現在の京都市伏見区の久我家の屋敷で生まれ、幼時は母方の祖父松殿茶房の別宅、松殿山荘で育ったと考えられている。

どのような少年時代だったか。まず、凄いのは学問好き。『前漢書』『後漢書』『史記』などの中国の歴史書を好み、唐代の帝王学の本『貞観政要』まで読んでいる。四歳にして『李嬌百詠』、七歳で『毛詩』『左氏伝』、九歳で『倶舎論』をも読んだという。貴族の家に生まれ、幼い頃から貴族としての教養を身につけ、好んで書物を読みあさっていた。政治家として将来を約束されていた。だが、三歳の時に父が、そして八歳の時に母が亡くなってしまう。父母の死という無常を観じ、母の遺言によって、出家の決意を固めたといわれる。

そして十三歳春の夜、母の弟でのちに天台座主となる良顕を訪ね出家の相談をした。良顕は最初はいったん止めた。出家を巡っては二族の間で葛藤があったが、最終的には出家が認められた。禅師は奥比叡、横川の首拐厳院の般若谷千光房に入り、見習小僧となった。

道元十四歳、天台座主公円について剃髪し、受戒した。名を「仏法房道元」として天台僧となった。当時、比叡山は国家仏教の最高学府であった。しかし、僧は堕落していた。世俗化し、高僧達は名聞利達ばかり追い求めていたのである。そんな中、道元は修行に励んだ。救済の為の理論はもちろん、生き方としての仏教に強い関心を持った。

道元十五歳 基本教学を学んでゆく中で、悟りと修行に対して疑問が生じてきた。『本来本法性、天然自性身』(『建擲記』人間はだれでも、生まれた時から仏の本性を備えている)ならば、何故、多くの仏達はわざわざ発心して修行したのだろうか。これは、人間にとって救いは可能か、人間が悟りと出会うことは可能なのかという人間観の根本問題にぶち当たったことだ。比叡山の高僧達にこの疑問を投げかけてみたが、誰も答えてくれなかった。そこで道元は三井寺の公胤僧正を訪ねた。この道元の疑問は、悟りの本質に関わるものだ。公胤も答えることができなかった。だが、達磨大師が伝えた禅宗という実践宗教なら疑問を解くことができるかもしれないと、建仁寺の栄西禅師を紹介した。

道元十八歳、比叡山から離れ建仁寺に身を寄せた。栄西禅師の伝えた大陸の禅に大きな魅力を感じたのだ。修行を始めた時、すでに栄西禅師は入滅していて、建仁寺住持(住職)は仏樹房明全だった。明全はかねてより宋に禅を学びたいと望んでいた。道元は明全に会い、大いに心を動かされ、同じく宋の国に渡り本格的に禅を学びたいという気持ちを起こしたのである。

道元二十四歳、明全らと宋へ渡る。明全はただちに天童山景徳寺で修行を始めたが、道元はしばらく船中に留まることになる。この時に、阿育王山の典座が椎茸を買いに来て、『典座教訓』が生まれる運命の出会いをはたす。その三ヶ月後、道元は明全と合流し天童山で一年間、無際了派の指導を受けた。その後、各地のお寺を訪問し教えを聞いたが、納得できる指導者にめぐりあわなかった。

道元二十六歳、本師天童如浄に面会する。その一ヶ月後には明全との死別という転換点にいた。厳しい修行の日々、本物の出会いというのはすばらしい。たとえわずかな時間でもおろそかにせずに、なすべきことに専心することこそ人の生き方の基本であるということ、そのことに気づいた。すぐに如浄の部屋に行き、「身心脱落しきたる」と己の境地を伝えた。すると如浄は「脱落身心」といって悟りを認めたという。これで、比叡山で修行を始めてからずっと抱き続けてきた疑問が全て解けた。その後も道元は諸山を巡った。

道元二十八歳、如浄の法を嗣いだ道元は無事に帰国する。帰国後、縁故者を頼って挨拶しながら各地を旅したのち、明全の遺骨と共に建仁寺に帰り、師の明全の遺骨を埋葬した。在宋中の噂は日本の関係者に伝わっていたと思う。新仏教の招来として期待され、重要な経典や仏像を日本に伝えるだろうと。だが、道元は何も持ち帰らず、如浄から嗣いだ法だけを日本に伝えた。「私はかりそめに天童山の如浄禅師に会ったが、この命のままで、眼は横に並び、鼻は縦についているという、当たり前のことを確認できた。そして最近、空手で国に帰ってきた。だから特別これが仏教だなどというものはない。そして、縁に任せて月日を過ごした。毎朝陽は東から出て、毎晩月は西に沈む。雲は晴れると山がよく見え、雨が通り過ぎると四方の山が低く見える。三年に一度は閏年があり、明け方になれば鶏が鳴く」(永平広録)。これが道元が伝えた禅だ。「あるがまま」である。帰国後すぐに書き始めたのが『普勧坐禅儀』で、坐禅の仕方と意味についての書をまとめている。これが立教開宗の宣言である。

道元三十一歳、宋に行っている四年間に、日本では災害や宗教間の対立などが相次ぎ、世の中は混乱していた。新興宗教が神の怒りを買ったため、災害や混乱が起こったという噂が立ち、道元は襲われた。京の町を追われ、深草の極楽寺別院の安養院に閑居した。この地で『正法眼蔵弁道話』を書き上げる。「坐禅こそ仏法の正道である。ひたすら坐禅せよ」。これによりますます評判となり、多くの人が参集するようになった。

空海 色即是空

2014年10月26日 | 1.私
『空海「秘蔵宝鑰』より

色即是空

 惟い見ますと、無限にひろがる虚空は、からりとして広く、すべての象あるものを悉く天地の一気の中に含んでおりますし、涯しらぬ大海原は深く澄みわたってあらゆる品々をすべて一つの水の中に孕んでいます。そこから次のように言えましょう。およそ無限なる一というものは百千の存在の母ともいうべきものでありますし、空というものは、あらゆる仮有なるもの(仮りの姿の存在)の根源なのです。仮有のものは真実の有ではありませんが、ここに「有るもの」の姿をして森羅万象として存在しています。また、「絶対の空」というものは、単に空無であることとは違うのですが、しかもここに「空なるもの」の相をしていて、決して「有」ではないのです。

 すなわち「色不異空」(存在する諸法は、空であって、実体が無いのと異ならない)でありますから、すべての存在を認めてそのままで空なのです。また「空不異色」(実体の無いことは存在する諸法と異ならない)ですから、諸法の相をほろぼし尽くしてそのままで、存在するかのような仮有の姿を示しています。この故に「色すなわちこれ空、空すなわちこれ色」なのです。すべての諸法もまたその通りであり、一面で空であり一面では仮有であることに違いないのです。讐えてみれば、水と波とが、水の面から見れば水、波の面から見れば波であって、しかも互いに離れない関係にあるのと似ていますし、また、黄金で造られた飾りものが、一面では全部、金であり、他面では種々の飾りものであって、而も両者は別のものではないのと一緒です。

 こう考えてみますと、「不一・不二」(一でもなく個々の多なる存在でもない)という見方が成り立ちますし、「二諦」(真諦と俗諦)とか「四中」(中道についての四つの見方)というような、この第七住心で主張する教えも明らかになってきます。

無所得と八不

 諸法に実体が無いという性質を「無所得」(物ごとにとらわれない自由な境地)によって観察し、つまらぬ分別や議論を乗り超えるに社、「八不」(不生・不滅、不常・不断等の極端な八通りの辺見を否定する正観)という中道の実践を用います。こうなれば、四魔などは、戦わずして抵抗をやめ、後手にしばられ、貪・眺・痴の三毒の煩悩は、自分から降伏して、悩みは解消します。

 この住心のさとりによれば、迷っているこの生死の世界が、そのままで涅槃の境地でありますから、仏へと向上していく階級などありませんし、また煩悩という迷いは捨て去らないでそれがそのまま菩提なのですから、努力して煩悩を断ったり、菩提を証する必要も無いのです。

 けれども無階級という自由な立場での階級は考えますから、菩薩の五十二位の階段を否定することもありませんし、その階級を飛び超えて、一瞬のうちに悟りに到ることを碍げるものでもありません。真諦門に立てばすべての差別相は否定されますし、俗諦門に立てばその差別相は肯定されるのです。

 したがって、一瞬間という短い時間の内に、三大阿僧紙劫という悠久の時間の修行をつとめますし、すべての人は仏陀に向って生きるという一仏乗の教えを説きながら、同時に声聞・縁覚・菩薩の教えを説いて、一切の衆生を導く活動にも努力するのです。

戦後日本型循環モデル

2014年10月26日 | 6.本
『もじれる社会』より 激動する社会の中に生きる若者と仕事、教育

高度経済成長期から安定成長期にかけての日本社会の基本構造である「戦後日本型循環モデル」を、模式的に示している。これは非常に日本独特な循環のあり方であり、その特徴は、教育・仕事・家族という三つの社会領域の間に、ある社会領域のアウトプットを次の社会領域のインプットとして注ぎ込むような堅牢な矢印が、一方向的に成立していたことにある。戦後日本においては、教育・仕事・家族それぞれの近代化が、タイミングとスピードを一にして形成されてきたという経緯があるが故に、それらの間に循環関係が非常に強固に成立した。

そして、三つの矢印の中身をより具体的に見ていくと、いずれも「日本的」という言葉で形容されるものであることも、この循環モデルの特殊さを示唆している。たとえば、教育と仕事の関係に関しては、新規学卒一括採用という独特な慣行が成立している。新規学卒一括採用は、以下の諸点をその特徴とする。

第一に、若者が高校や大学に在学中に、学校の教員や就職部の支援を受けながら就職活動をすること。第二に、卒業よりもずっと前に内定を取っておく場合が多いこと。第三に、年度替わりとともに全く時間的なすき間なく、正規の生徒や学生だった時点から正規の社員・職員へと移行すること。そして第四に、学校で学んだことと会社での仕事の内容との間の対応関係が非常に希薄であることも特徴である。これは例えば看護のような専門教育と専門職との対応関係においては当てはまらないが、日本で非常にボリュームが大きい人文社会科学系の学部から会社の事務系の仕事に移行する場合には、内容的な対応関係はほぼ存在しない。

このょうに独特な新規学卒一括採用が成立した背景には、高度経済成長期の非常に高い若年労働力需要があった。当時の著しい人手不足のもとで、卒業を待たずに内定を出しておき、卒業とともにただちに入社させる採用の仕方が広がっていったのが、一九六〇年代だったのである。そうした背景から、日本の教育と仕事の間には、少なくともバブル経済が崩壊するまでは、緊密な接続関係が成立していた。

このょうな新規学卒一括採用を通じて正社員になれば、業種や企業規模により収入の差などは存在していたが、特に男性については、長期安定雇用と年功賃金という日本的雇用慣行の特質には与ることができた場合が多い。そうした生活の安定や確実な将来展望に基づいて、当時の若者たちは結婚して家族をつくることができていた。そして主な働き手としての夫=父親が持ち帰る賃金を受け取り、さまざまな消費行動によって家族の生活を豊かにしていたのが、家族の主な支え手としての妻=母親である。しかし母親のもう一つの大きな役割は、次世代である子どもの教育に対して、費用と意欲を非常に熱心に注ぎ込むことであった。

その背景には、日本の政府は学校教育に対して、税金から学校教育を支える費用を投入している度合いが非常に低いという事情があった。政府が学校教育への支出を抑制している分を、学校外教育で補いながら家庭が子どもの将来を支えてきた面があり、それが子どもの教育に家族が注ぎ込む費用の多額さをもたらしていたのである。

また費用だけでなく、日本の母親は、教育に向けての意欲を子どもに注ぎ込む行動をも、きわめて積極的に取ってきた。「教育ママ」という言葉や、いわゆる国民的アニメに見られる日本の母親のプロトタイプがそれを示している。このように家族から注ぎ込まれる費用と意欲によって、日本の教育は支えられてきた面が大きかふた。

このような循環が、教育・仕事・家族という三領域の間で成立していたため、日本の政府は公共事業を代表とする産業政策を通じて仕事の世界を支えてさえいれば、教育や家族に対する直接の財政支出を低水準に抑制することが可能だった。この戦後日本型循環モデルが、高度成長期・安定成長期の日本社会を覆っていたのである。

このモデルは一見効率的に見えるが、このモデルそのものを原因とするようなさまざまな問題が、日本社会の各所で顕在化していたことを忘れてはならない。たとえば、教育と仕事を結ぶ矢印があまりにも存在感を増してしまったが故に、教育の世界の中では、「いい成績を取。ていい高校や大学に入り、いい会社に入る、そのために勉強する」という、外発的な学習への動機づけが蔓延するようになっており、それは今なお続いている。

その結果、一九七〇年ごろから日本社会では、さまざまな教育問題が指摘されるようになっていた。受験競争の激化・早期化、その背後で進行する落ちこぼれ、あるいはストレスからくる不登校や校内暴力、それらを押しとどめるための管理教育などにより、日本の学校教育は、一九七〇年代から八○年代にかけて、諸問題の圧力釜のょうになっていた。

同様のことが、ほかの関係についてもいえる。父親は、妻子を養うためには、会社に何を指示されても受け容れて働き続けなくてはならず、それが「会社人間」とか「社畜」とか呼ばれる企業組織への従属につながっていた。

一方、日本の家族も、一つの歯車として、この循環にしっかり組み込まれていた。それは、父親は仕事の世界に、子どもたちは学校の世界に主に所属しており、家族に専従していたのは母親だけという状況をもたらしていた。それゆえ、表面的には家族の成員であっても、家族独自の親密な関係性や充実した余暇時間は、これまで日本で十分に成立してこなかったことが指摘されている。

以上を要するに、戦後日本型循環モデルは、何のために学ぶのか、何のために仕事をするのか、何のために人と愛し合って一緒に住むのかという、人間の生涯にとって非常に重要な意味を持つはずの、家族・教育・仕事の本質的な存在意義や価値を、掘り崩すょうに作用していたのである。