未唯への手紙

未唯への手紙

図書館の破壊

2013年09月27日 | 6.本
『どうか、お静かに』より 9・11 新たなキャリアヘようこそ

第一次、第二次世界大戦中に破壊、あるいは強奪された文化財を語る時、多くの人は絵画や、ときには教会を引き合いに出すだろう。確実に重要なものが失われたところなのによく忘れられる存在、それが図書館だ。

第一次世界大戦中、ドイツは中立国であるベルギーに侵攻した。一九二四年八月二五日まではすべてが順調だった。この日ルーヴァンで数人のドイツ兵士が殺害されるまでは。軍は市民のこの行動に対して制裁が必要だと判断した。ドイツ軍兵士が二〇〇人に及ぶ市民を処刑し、その後中心地にある歴史的建造物に火を放った。その中の一つがルーヴァン・カソリック大学の図書館だった。二〇万冊を超える蔵書が灰になってしまった。この事件で街の人々は怒り心頭に発し、終戦の時のベルサイユ条約ではこの建物の再建事項が盛り込まれたんだ。一九二八年にもう一度この図書館のドアが開くが、それはドイツ軍の大砲で破壊される一九四〇年までだった。第二次世界大戦が終わると今度は二〇年もかからず再度建て直された。

一九三九年、ナチスはポーランド侵略を始めたがユダヤ人の殲滅だけでなく、人々の記憶からも彼らを消し去ることを要求した。徹底的な「民族浄化」の実行として、個人所蔵を含むすべての書物は処分されるという方法でそれは行われた。最も重大な喪失は一九四四年のワルシャワ国立図書館。ここでは六〇万冊が塵となってしまった。戦争の終結までにポーランドの図書館に収められていた二二五〇万冊のうち約一五〇〇万冊が消失してしまった。

ナチスは地上からユダヤ人のすべての足跡を完全にぬぐい去ろうとがむしゃらだった。特別部隊を組織して、ユダヤ教の礼拝堂、学校、図書館をぶち壊した。壊された図書館の多くは世界的にも非常に稀で、貴重な書籍を所蔵していたのに。

でもすべてが失われたわけじゃなかった。戦争が終わると、略奪された文化財や書籍は取り戻されたんだ。失ったものの収集と、その整理、系統立ての援助のためにユダヤ文化再建委員会が創立された。

学校のクラスごとに図書館を訪れる校外学習は、図書館の定例行事で一日四~六クラスぐらい。この図書館は徒歩圏内に二つの小学校に囲まれていて、両校ともたいした図書館を持っていない。だからウチの図書館をよく利用する。

9・11の一週間あと、背の高いアフリカ系の男性が図書館に入ってきて大声でこう知らせた。「もうすぐ爆弾がくるぞ」

館内にいるほとんどの人が飛び上がって、ブレンダなど、文字通り貸出カウンターの下に頭から潜り込んだよ。僕には校外学習の子どもたちがその男の後ろからやって来るのが見えたし、男の言っている意味もわかっていた。だから慌てなかったけれど、彼は爆弾なんて言うべきじゃなかったと謝ったよ。同感だ。その数カ月間は決して口にしてはいけない言葉や行いが間違いなくあった。誰もが神経過敏になっていて、何もかもが疑わしかった。

市内で万が一テロ攻撃があったときに備えての連絡が廻ってきた。緊急時の適切な対応と、殺傷能力がある化学薬品が入っていると思われる荷物が届いたらどう知らせるかについての回覧だった。それを読んで、理解したことを示すためにそれぞれの書類にサインをしなければならなかった。最初の六ヵ月にそんな回覧が何回もあった。次の六ヵ月で二、三回になり、その後の一年間ではなにもなくなった。9・11のテロのあとに、市が行った僕ら全員が攻撃に対して訓練ができていることへのあらゆる確認は皮肉に見えるね。誰もが身構えているときに攻撃を仕掛けてくる輩がいるか? 今はほとんどの人はあの回覧内容を忘れてしまっていることは確実だと思う。

土曜日にはよくアートと同じシフトになった。僕はアートが好きだ。彼はちょっと変わっている上に、「政治的に正しくなく」てもぜんぜん平気だから。これは仕事の上でも同じ。ある時、彼に朝鮮戦争で何をしていたのか訊いたことがある。彼はぶっきらぼうに答えた「人を殺していたよ」。彼はマジでそう言った。それが戦争で彼がしたことなのだ。

イラク戦争(第二次)直前の数ヵ月間、彼は大統領がイラクヘと兵を送り出したがっていると信ずる理由を長々と語った。彼は僕に記事を見せ、TV番組や読んだ本について話してくれた。彼は大統領の意図には異議を唱えていて、僕はそんな彼に感服した。多くの人はメディアに踊らされていた。流される情報をそのまま信じていた。なぜなら皆、時間をかけてそれを議論したくはなかったから。アートは慎重にメディアを検証し、彼らの観点を探っていたんだ。

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