未唯への手紙
未唯への手紙
アウクスブルク(一五一八年)のルター
『ルター自伝』より アウクスブルク(一五一八年)
博士マルティン・ルターは、一五一八年にアウクスブルクでどんなことが起こり、ここで教皇の特使が彼とどのように会談し、どのように彼を扱ったかを語った。彼は次のように続けて語った。最初にわたしが呼び出され召し出されたので、まずわたしが姿を現わした。しかしわたしはザクセンの選帝侯フリードリヒ大公の強力な保護の下にいた。大公はアウクスブルクの人たちに書面でもってわたしを委託していたので、彼らはわたしを熱心に世話してくれた。そして「イタリア人だちと交際してはならない。彼らと一緒になってはならない。また彼らと親しくなってはならない」とわたしに警告した。というのは、イタリア人がどんな人間か、わたしはまだ知らなかったからである。
わたしは皇帝の保護状なしに三日の間、アウクスブルクにいた。その間、ひとりのイタリア人がわたしのところに来て、わたしを枢機卿のところへ呼び出して、熱心にわたしに取り消せと言って頼んだ。そして、あなたが「取り消します」とひとこと言いさえすれば、枢機卿はあなたのことを教皇に推薦する、そうすればあなたは名誉を損うことなく選帝侯の所に帰れるであろうと言った。
三日経ってトリエントの司教が来て、皇帝の名によるわたしの保護状を枢機卿に示した。そこでわたしは恭順を示すべく枢機卿のもとに行き、まず脆き、そして平伏し、三度目は土下座した。枢機卿は三だびわたしに起きよと言った。そこでわたしは起立した。これが彼には非常に気に入ったようだった。そして彼はわたしに、もっとよく考慮するようにと希望した。
しかし翌日、わたしは彼のところに行って、少しも取り消そうとは思わないと言うと、彼は言った、「教皇かドイツのことを憂慮しておられることをお前はなんと思っているのか。諸侯が武器と軍隊をもってお前を守るだろうとお前は考えるのか。とんでもない! お前はどこにいるつもりか」、「空の下に!」とわたしは言った。このようにして教皇の名誉と権威は軽蔑された。このようなことは教皇にとってはまことに死よりもっらいことであった。今や彼らは我慢することができなくなった。
その後、教皇はやや軟化し、選帝侯、宮廷説教者シュパラティン修士、御料局顧問官ペフィソガー修士にも手紙を書いて、わたしを教皇に引き渡し、教皇の命令が実行されるように考慮してもらいたいと依頼してきた。選帝侯には次の意見を添えていた。すなわち「あなたご自身はわたしをご存じではないが、わたしはあなたの父上、エルンスト大公にローマでお会いした。父上は全く従順な教会の子であった。いとも敬虔に、わたしたちの宗教を見にこられ、これに非常な敬意を払われた。だから閣下も父上の足跡を踏襲されることを願う」云々。
しかし選帝侯は教皇の異様な謙遜とその後ろめたい様子を看破した。教皇も聖書の力と効果を知っているのだろう。なぜなら、わたしの決意と小冊子が世界の三分の一を占める全欧洲に数日ならずして伝わった、というより、むしろ飛んで行ったからだ。そのため選帝侯は勇気づけられ、教皇の命令を実行しようとせず、聖書の教えに従ったのである。
枢機卿にもっと分別があり、アウクスブルクでもっと謙遜にわたしと交渉し、談判していたなら、そして、わたしが彼の足下に脆いたときにわたしの言葉を聞き入れていたなら、決してこのようなことにはならなかっただろ・う。なぜなら、この頃のわたしはまだ教皇の誤謬を僅かしか知らなかったからである。枢機卿がもし沈黙していたら、わたしも何もいわずに沈黙していただろう。
「われわれはこの件を教皇の権力によって処理し、これを徹底的に根絶させてしまおう」と教皇が言ったのは、まだはっきりしない紛糾した事件について教皇庁がいつも用いる常套手段だった。その後、双方とも泣かねばならなくなった。教皇は当時の状況をなんとか収めるために、三人の枢機卿を送り出したのだろう。
免罪符に関するルターの抗議はローマ教会の弱点を衝いた。「修道僧の口論」を穏便に調停するように希望していた教皇レオ十世はドミニコ会の人々に勧められて、ルターが自己の教えを弁明するため六十日以内にローマに出頭することを命じた。彼の国君の選帝侯フリードリヒ賢公(一四六三-一五二五年)は異端者の引渡しを依頼されたのであるが、彼はルターにとってこの上なく危険なローマヘの召喚を変更して、一五一八年秋のアウクスブルク国会で教皇庁の利害を代表する教皇の使節として出席する枢機卿カエタヌスの前にルターを召喚するようにした。ルターは恐怖もあったが、死を覚悟の上で、自説を取り消さない固い決心をもってアウクスブルクに旅立った。一五一八年十月十二日彼は大勢力を振るっている枢機卿の前に立った。カエタヌスは彼の誤謬を取り消せと要求し、これ以上もはや教会の平和を乱してはならないと命じた。しかしルターは、教会の唯一の宝は神の自由な恵みからくる福音であると言って一歩も譲らなかった。二日の後、カエタヌスは結論のない対談を中止した。「わたしはこのドイツの人でなしとこれ以上長く語りたくない。なぜならこの人でなしぱ深い目をもっていて、頭の中で不思議な思索をするからである」とカエタヌスは言う。十月二十日の夜、ルターは友人によってひそかにアウクスブルクから連れ出された。九十五箇条を貼り出してからちょうど一年後の十月三十一日、煩わしい乗馬旅行によってヴィニアソベルクに到着した。
フスはプラッの民衆に人気のある説教者であり、神学の教授であった。彼も聖書に拠って教皇の司祭政治に反対し、政治的教会制度の改革のためウィクリフの戦いを受け継いだ。一四一五年七月六日、彼はコンスタンツの宗教会議で異端に問われて焼き殺された。
教皇庁がルターに対してもフスと同様の処刑をしようとしていたことは言うまでもない。しかしルターはフスとボヘミア事件について批判的であって、フスの書物に誤謬のないことは認めるが、彼の信仰箇条を正しいとは認めていない。またボヘミア人のようにフスを聖人とも殉教者とも思っていない。しかしフスを不当にも弾圧したことを非難する。
「フスがどんなに悪い異端者であったとしても、火刑に処せられることは正しいことではなく、神の掟に反する。ボヘミア人はこのような不当に屈してはならない。神は異端者にも護衛をつけることを命じられる。わたしたちは世界が滅びても神の命令を守るべきである。異端者を釈放することは言うまでもないことだ。それゆえ異端者を征服するためには書物をもってせねばならない。教皇庁がするように、火をもってすべきではない。もし火をもって異端者を征服することが学問なら、刑吏はこの世で最も博学な博士であろう。わたしたちもこれで学問する必要はなく、暴力で他人を征服する者が、他人を火刑に処してもよいことになる」。
博士マルティン・ルターは、一五一八年にアウクスブルクでどんなことが起こり、ここで教皇の特使が彼とどのように会談し、どのように彼を扱ったかを語った。彼は次のように続けて語った。最初にわたしが呼び出され召し出されたので、まずわたしが姿を現わした。しかしわたしはザクセンの選帝侯フリードリヒ大公の強力な保護の下にいた。大公はアウクスブルクの人たちに書面でもってわたしを委託していたので、彼らはわたしを熱心に世話してくれた。そして「イタリア人だちと交際してはならない。彼らと一緒になってはならない。また彼らと親しくなってはならない」とわたしに警告した。というのは、イタリア人がどんな人間か、わたしはまだ知らなかったからである。
わたしは皇帝の保護状なしに三日の間、アウクスブルクにいた。その間、ひとりのイタリア人がわたしのところに来て、わたしを枢機卿のところへ呼び出して、熱心にわたしに取り消せと言って頼んだ。そして、あなたが「取り消します」とひとこと言いさえすれば、枢機卿はあなたのことを教皇に推薦する、そうすればあなたは名誉を損うことなく選帝侯の所に帰れるであろうと言った。
三日経ってトリエントの司教が来て、皇帝の名によるわたしの保護状を枢機卿に示した。そこでわたしは恭順を示すべく枢機卿のもとに行き、まず脆き、そして平伏し、三度目は土下座した。枢機卿は三だびわたしに起きよと言った。そこでわたしは起立した。これが彼には非常に気に入ったようだった。そして彼はわたしに、もっとよく考慮するようにと希望した。
しかし翌日、わたしは彼のところに行って、少しも取り消そうとは思わないと言うと、彼は言った、「教皇かドイツのことを憂慮しておられることをお前はなんと思っているのか。諸侯が武器と軍隊をもってお前を守るだろうとお前は考えるのか。とんでもない! お前はどこにいるつもりか」、「空の下に!」とわたしは言った。このようにして教皇の名誉と権威は軽蔑された。このようなことは教皇にとってはまことに死よりもっらいことであった。今や彼らは我慢することができなくなった。
その後、教皇はやや軟化し、選帝侯、宮廷説教者シュパラティン修士、御料局顧問官ペフィソガー修士にも手紙を書いて、わたしを教皇に引き渡し、教皇の命令が実行されるように考慮してもらいたいと依頼してきた。選帝侯には次の意見を添えていた。すなわち「あなたご自身はわたしをご存じではないが、わたしはあなたの父上、エルンスト大公にローマでお会いした。父上は全く従順な教会の子であった。いとも敬虔に、わたしたちの宗教を見にこられ、これに非常な敬意を払われた。だから閣下も父上の足跡を踏襲されることを願う」云々。
しかし選帝侯は教皇の異様な謙遜とその後ろめたい様子を看破した。教皇も聖書の力と効果を知っているのだろう。なぜなら、わたしの決意と小冊子が世界の三分の一を占める全欧洲に数日ならずして伝わった、というより、むしろ飛んで行ったからだ。そのため選帝侯は勇気づけられ、教皇の命令を実行しようとせず、聖書の教えに従ったのである。
枢機卿にもっと分別があり、アウクスブルクでもっと謙遜にわたしと交渉し、談判していたなら、そして、わたしが彼の足下に脆いたときにわたしの言葉を聞き入れていたなら、決してこのようなことにはならなかっただろ・う。なぜなら、この頃のわたしはまだ教皇の誤謬を僅かしか知らなかったからである。枢機卿がもし沈黙していたら、わたしも何もいわずに沈黙していただろう。
「われわれはこの件を教皇の権力によって処理し、これを徹底的に根絶させてしまおう」と教皇が言ったのは、まだはっきりしない紛糾した事件について教皇庁がいつも用いる常套手段だった。その後、双方とも泣かねばならなくなった。教皇は当時の状況をなんとか収めるために、三人の枢機卿を送り出したのだろう。
免罪符に関するルターの抗議はローマ教会の弱点を衝いた。「修道僧の口論」を穏便に調停するように希望していた教皇レオ十世はドミニコ会の人々に勧められて、ルターが自己の教えを弁明するため六十日以内にローマに出頭することを命じた。彼の国君の選帝侯フリードリヒ賢公(一四六三-一五二五年)は異端者の引渡しを依頼されたのであるが、彼はルターにとってこの上なく危険なローマヘの召喚を変更して、一五一八年秋のアウクスブルク国会で教皇庁の利害を代表する教皇の使節として出席する枢機卿カエタヌスの前にルターを召喚するようにした。ルターは恐怖もあったが、死を覚悟の上で、自説を取り消さない固い決心をもってアウクスブルクに旅立った。一五一八年十月十二日彼は大勢力を振るっている枢機卿の前に立った。カエタヌスは彼の誤謬を取り消せと要求し、これ以上もはや教会の平和を乱してはならないと命じた。しかしルターは、教会の唯一の宝は神の自由な恵みからくる福音であると言って一歩も譲らなかった。二日の後、カエタヌスは結論のない対談を中止した。「わたしはこのドイツの人でなしとこれ以上長く語りたくない。なぜならこの人でなしぱ深い目をもっていて、頭の中で不思議な思索をするからである」とカエタヌスは言う。十月二十日の夜、ルターは友人によってひそかにアウクスブルクから連れ出された。九十五箇条を貼り出してからちょうど一年後の十月三十一日、煩わしい乗馬旅行によってヴィニアソベルクに到着した。
フスはプラッの民衆に人気のある説教者であり、神学の教授であった。彼も聖書に拠って教皇の司祭政治に反対し、政治的教会制度の改革のためウィクリフの戦いを受け継いだ。一四一五年七月六日、彼はコンスタンツの宗教会議で異端に問われて焼き殺された。
教皇庁がルターに対してもフスと同様の処刑をしようとしていたことは言うまでもない。しかしルターはフスとボヘミア事件について批判的であって、フスの書物に誤謬のないことは認めるが、彼の信仰箇条を正しいとは認めていない。またボヘミア人のようにフスを聖人とも殉教者とも思っていない。しかしフスを不当にも弾圧したことを非難する。
「フスがどんなに悪い異端者であったとしても、火刑に処せられることは正しいことではなく、神の掟に反する。ボヘミア人はこのような不当に屈してはならない。神は異端者にも護衛をつけることを命じられる。わたしたちは世界が滅びても神の命令を守るべきである。異端者を釈放することは言うまでもないことだ。それゆえ異端者を征服するためには書物をもってせねばならない。教皇庁がするように、火をもってすべきではない。もし火をもって異端者を征服することが学問なら、刑吏はこの世で最も博学な博士であろう。わたしたちもこれで学問する必要はなく、暴力で他人を征服する者が、他人を火刑に処してもよいことになる」。
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