未唯への手紙
未唯への手紙
「エーデルワイス海賊団」の夢
『海賊党の思想』より
「エーデルワイス海賊団」の夢
海賊党の思想は、支配的な絶対権力に対する反権力の立場を明確にしている。それはナチス時代の「エーデルワイス海賊団」のなかにも、明瞭に認められる。
これは若者たちがイニシアティヴをとった運動であったが、ここでは海賊党と同様のネーミングである海賊団の行動を確認し、反権力という視点から両者を比較したい。
よく知られるように、ナチスドイツは「ヒトラーユーゲント」を設立して、青少年を組織化した。これらの団体は、ナチス体制の後継者養成に重要な役割を果たした。この熱狂的な青年運動は、第二次世界大戦時には実戦にも編入されて悲劇を生み出したが、実際のところ、若者たちの関心はナチスの理念ではなく、表層的な制服・統制・規律へのあこがれにあったといえる。
「ヒトラーユーゲント」の組織化のなかで、一九三二年あたりから、それに反対する十代後半(十四歳から十八歳)の青少年集団が自然発生的に形づくられた。直接の動機は、組織の厳しい規律に対する反感であり、自由を求める若者たちの希求であった。「ヒトラーユーゲント」に抗して、かれらは、みずからに「海賊団」という名前をつけた。
一九三八~三九年頃から、「エーデルワイス海賊団」は、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルク、ヴッパータールなどで、反「ヒトラーユーゲント」活動を積極的に行なった。若者たちによる運動は数千人規模に膨れ上がり、第二次世界大戦中に、ライプツィヒ、ベルリン、ドレスデンなど、ドイツ全土に拡大した。
「海賊団」の青少年たちは、下層の労働者階級の子どもたちであり、進学校のギムナジウムではなく、基幹学校ないし実科学校の生徒や卒業生たちであった。「海賊団」には少女たちも加わり、それに惹かれて参入するという若者もかなりいた。「ヒトラーユーゲント」の指導者を殴ったり、「ヒトラーユーゲント」の少年たちを襲撃したり、工場での労働をサボタージュしたりした。かれらは、イギリスやアメリカのジャズやスウィングを英語で歌い、少女だちとダンスをし、いちやついた。また、意図的にラフな格好やイギリス風のタータンチェックの服を着ることを好んだ。
各地の「エーデルワイス海賊団」は、先述したように、もともと自然発生的に自由主義的な青少年が集った団体であるとはいえ、ゆるやかな連帯関係を形成していた。しかし特定の党派に属すことなく、強固に組織化されたものではなかった。相互の連携はかれらの独自の服装や身につけたエーデルワイス・バッジを通じて行ない、情報は噂などで伝播した。
かれらは軍隊に入隊しなければならないときは、ほとんどが海軍に入った。いわゆる海賊のイメージがもたらすロマンの世界にあこがれていたからである。世界大戦中という異常な世情が背景であったけれど、かれらの一部には、組織化して、パルチザンとして反ナチ運動を行なった者もいた。急進的なかれらの目的は次の四点に集約できる。
①戦争の早期終結を目指す
②ナチ党を壊滅させる
③かつての政党メンバーを人民戦線に結集させる
④新政府樹立の準備を行なう
もちろん、ゲシュタポやヒトラーの「突撃隊」は、かれらを反抗的な不良青少年の域を越えた集団とみなし、危機感をもって「エーデルワイス海賊団」を弾圧した。裁判記録が残っており、戦争末期の一九四五年一月にはパルチザンを含む「エーデルワイス海賊団」の約五〇〇名が逮捕され、国家反逆罪として判決を受けた者のうち、三名が銃殺刑に処された。秘密警察は、その他のメンバーを禁固刑や懲役刑に処している。
ナチスに対する抵抗運動としては、ミュンヘン大学の「白バラ」といわれるショル兄妹の抵抗運動が有名であり、命であがなったかれらの反ヒトラーの行動は歴史的に高く評価されている。しかし、「エーデルワイス海賊団」は、歴史の闇に埋もれたままであって、近年になってようやく、多様で自然発生的な少年たちによる一群の抵抗運動がクローズアップされてきた。
それにしても海賊というネーミングは非合法的なイロニーをもち、強烈なインパクトを内包している。耳目を惹くということなら、ドイツ海賊党と「エーデルワイス海賊団」は、じゅうぶんネーミングの目的を果たしているといえる。
「エーデルワイス海賊団」の夢
海賊党の思想は、支配的な絶対権力に対する反権力の立場を明確にしている。それはナチス時代の「エーデルワイス海賊団」のなかにも、明瞭に認められる。
これは若者たちがイニシアティヴをとった運動であったが、ここでは海賊党と同様のネーミングである海賊団の行動を確認し、反権力という視点から両者を比較したい。
よく知られるように、ナチスドイツは「ヒトラーユーゲント」を設立して、青少年を組織化した。これらの団体は、ナチス体制の後継者養成に重要な役割を果たした。この熱狂的な青年運動は、第二次世界大戦時には実戦にも編入されて悲劇を生み出したが、実際のところ、若者たちの関心はナチスの理念ではなく、表層的な制服・統制・規律へのあこがれにあったといえる。
「ヒトラーユーゲント」の組織化のなかで、一九三二年あたりから、それに反対する十代後半(十四歳から十八歳)の青少年集団が自然発生的に形づくられた。直接の動機は、組織の厳しい規律に対する反感であり、自由を求める若者たちの希求であった。「ヒトラーユーゲント」に抗して、かれらは、みずからに「海賊団」という名前をつけた。
一九三八~三九年頃から、「エーデルワイス海賊団」は、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルク、ヴッパータールなどで、反「ヒトラーユーゲント」活動を積極的に行なった。若者たちによる運動は数千人規模に膨れ上がり、第二次世界大戦中に、ライプツィヒ、ベルリン、ドレスデンなど、ドイツ全土に拡大した。
「海賊団」の青少年たちは、下層の労働者階級の子どもたちであり、進学校のギムナジウムではなく、基幹学校ないし実科学校の生徒や卒業生たちであった。「海賊団」には少女たちも加わり、それに惹かれて参入するという若者もかなりいた。「ヒトラーユーゲント」の指導者を殴ったり、「ヒトラーユーゲント」の少年たちを襲撃したり、工場での労働をサボタージュしたりした。かれらは、イギリスやアメリカのジャズやスウィングを英語で歌い、少女だちとダンスをし、いちやついた。また、意図的にラフな格好やイギリス風のタータンチェックの服を着ることを好んだ。
各地の「エーデルワイス海賊団」は、先述したように、もともと自然発生的に自由主義的な青少年が集った団体であるとはいえ、ゆるやかな連帯関係を形成していた。しかし特定の党派に属すことなく、強固に組織化されたものではなかった。相互の連携はかれらの独自の服装や身につけたエーデルワイス・バッジを通じて行ない、情報は噂などで伝播した。
かれらは軍隊に入隊しなければならないときは、ほとんどが海軍に入った。いわゆる海賊のイメージがもたらすロマンの世界にあこがれていたからである。世界大戦中という異常な世情が背景であったけれど、かれらの一部には、組織化して、パルチザンとして反ナチ運動を行なった者もいた。急進的なかれらの目的は次の四点に集約できる。
①戦争の早期終結を目指す
②ナチ党を壊滅させる
③かつての政党メンバーを人民戦線に結集させる
④新政府樹立の準備を行なう
もちろん、ゲシュタポやヒトラーの「突撃隊」は、かれらを反抗的な不良青少年の域を越えた集団とみなし、危機感をもって「エーデルワイス海賊団」を弾圧した。裁判記録が残っており、戦争末期の一九四五年一月にはパルチザンを含む「エーデルワイス海賊団」の約五〇〇名が逮捕され、国家反逆罪として判決を受けた者のうち、三名が銃殺刑に処された。秘密警察は、その他のメンバーを禁固刑や懲役刑に処している。
ナチスに対する抵抗運動としては、ミュンヘン大学の「白バラ」といわれるショル兄妹の抵抗運動が有名であり、命であがなったかれらの反ヒトラーの行動は歴史的に高く評価されている。しかし、「エーデルワイス海賊団」は、歴史の闇に埋もれたままであって、近年になってようやく、多様で自然発生的な少年たちによる一群の抵抗運動がクローズアップされてきた。
それにしても海賊というネーミングは非合法的なイロニーをもち、強烈なインパクトを内包している。耳目を惹くということなら、ドイツ海賊党と「エーデルワイス海賊団」は、じゅうぶんネーミングの目的を果たしているといえる。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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https://youtu.be/LC1pBq1UevU
「ナチスのやつらはみんな悪いんだ」というのはヒトラーユーゲントなどの少年兵を敵視することで、つまり虐待を受け傷つき死んでいった子どもを犯罪者扱いし敵視することだ。
ついでに言うが「少しでもナチスっぽいやつはみんな悪いんだ」というのは「賞味期限前日や当日、1日でも過ぎた食べ物は全て捨てろ」というのと同じであり極左的で危険だ。