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量子力学 スマホの武器は配られた!

『量子力学が描く希望の世界』より

「量子力学は人間を炎り出している」

 鳥から飛行機を引き算した残滓」に話を戻そう。「AからBを引き算した残滓CからAの本質を探求する」という手法は、Bは設計した人工物だから未知を内蔵していないという前提に立っている。熟知の操作吋能なBによって、Bに解消できないAの本質を哭り出そうというp法である。

 量子力学は「人間の思考様式というものの特殊性を爽り出している」と、二〇年ほど前から、私はいっている。

 「筆者は数学的に明確に定式化されている量子力学のほうが、逆に物理学者の直感の変革を迫っているのだと思う。我々は理論でもって鍛えられなければならない。思い込みをイデオロギーというなら、我々はまだ古典物理のイデオロギーから量子力学を見て不思議と言っているのである。直感的理解に思い込みが必要であるというなら、我々は量子力学のイデオロギーとは何であるのかを考えるべきであろう。このことは人間の思考様式というものの特殊性を炙り出してくるものだと考える」(拙著『物理学の世紀』集英社新書、二九九九年、第四章)。

 ここでの「炙り出している」と冒頭の「引き算の残滓が災り出している」の関係はいささか複雑である。まず残滓Cが正であるとして、「人間の思考様式」と量子力学のどちらがAでどちらがBなのかも自明でない。「人間の思考様式」を「問題解決・選択」のように局限してみても簡単ではない。漠然と、一方が他方に包含される関係にはないことが分かるので、共通部分の大きさに関心が行くのかもしれない。議論をより論理的にするには「古典物理学」と「人間の思考様式」の関係も整理しておかねばならない。

「素朴物理学」

 認知科学の一つの手法は子供の発達に着目するものである。例えば子供は自らが出会う周囲の状況把握のために様々な「素朴理論」を立ち上げているという。物理的環境にたいする「素朴物理学については、特に理科教育の分野で多く研究が行われてきた。例えば、ニュートンの法則によれば力=質量×加速度だが、これは真空中のことで、現実の世界では空気や水の粘性のために、力=質量×速度と考えたほうがデータに合う傾向がある。この擬似的な法則に基づく素朴物理学は、創始者の名を冠してアリストテレス物理学と呼ばれる。アリストテレス物理学のほうを自然に受け入れる子どもたちにニュートン物理学の知識をどう教えるべきかという問題は、昔から理科教育の基本的課題の一つであった。学習の過程で心の中の知識がどう変化するかという問題は、前の項で述べた概念の変化の問題と深い関係にある」(安西祐一郎『心と脳』岩波新書)。

 ニュートン物理学は物体の地上での運動と天体の運動の統一理論として登場したものであり、これが天の世界と地の世界の位置付けをめぐるガリレオらの思想闘争を経た後の、数理職人的な達成であったことはよく知られている。

「第一の飛躍」と「第二の飛躍」

 この話を持ち出しだのは、物理的状況把握の「人間の思考様式」にふれるためである。当然ではあるが、ニュートン後の人間でも身体的認識のフレームは素朴物理学である。子供のアリストテレス物理学の身体が「第三の世界」の文化遺産の学習を経て世界像を変える。古典物理学でさえ決して人間的ではないということである。だから、「空気中から天空へ」の世界の拡大のように、「マクロからミクロヘ」世界を拡大したら、そこにニュートン物理学でない量子力学が立ち現れてきたというのは、歴史の進展を実感させるだけであり、素直に受け入れてよさそうである。

 「ニュートン物理学から量子力学へ」の第二の飛躍は学習の難易の程度の話であって、「アリストテレス物理学からニュートン物理学へ」の第一飛躍の方が身体を離れる意味ではるかに革命的であったともいえる。確かに、この物理学の「第一の飛躍」は、人類の社会文化全体の近代化という強大な歴史的転換と随伴する形で定着したものである。自然や天空のワールドビューだけがとの巨大な人類史の転換を駆動したわけではないが、発火点の一つであり、技術への波及を通して巨大な駆動源になったことも事実である。

量子力学への「第二の飛躍」は「第二の近代化」か?

 この「第一の飛躍」の歴史的広がりを想起することは「第二の飛躍」も「第一の飛躍」に匹敵する「巨大な人類史の転換」に連なるのか? それとも「転換」が既に始動しているのか? といった問いかけを喚起する。量子力学の登場を、物理学内の「革命」とみるか、物理学と数理情報学の関連の進展とみるか、IoTが吐き出すビッグデータをAIに喰わせる情報化時代の技術基盤とみるか、どのレベルで捉えるべきかという新課題が気になる時代になったといえる。

 「第一の飛躍」は生体を含むモノ世界における物質変造とエネルギーの革命であり、「第二の飛躍」は情報革命を推進しつつある。これが多数の民衆を社会の主人に登場させた。「第一の飛躍」が随伴した「近代化」に匹敵する次なる「転換」の潜在的な「発火点」や「駆動源」として量子力学があるのか、単なる当該専門家の「学習難易度の程度問題の話」なのか、という課題である。物理学の好事家の話題なのか、それとも、「第一の飛躍」のように人類全員を巻き添えにするものなのかでもある。物理現象の把握に限っても、スッピンの人間=アリストテレス物理学が数理をツールにニュートン物理学へ「第一の飛躍」をはたしてしまった後では「第二の飛躍」などは単なる成り行きに過ぎないのかも知れないからである。こうした問題意織も学間諭の一端である。

「何から、何をみる」

 学問論というと難しそうだが、手法としては次の二とおりである。「世界を自分をとおして知る」と「自分を世界をとおして知る」である。ここでは「自分」とは間主観的には「我々=人間」のことであり、「知る」は伝搬可能な公共性をもつ知識のことである。これらは、各々、「人間を世界に外化する」と「世界を人間に外化する」と言ってもよい。一見すっきりしている分類法だが、いま風には「人間」も分子機械だから、「人間」と「世界」の二元論は古臭いとされ、現代の自然科学はむしろ「世界を世界をとおして知る」であり、偶然的存在の「人間」は排除され、分割された「ある世界」と「べつ世界」をつないで見せる。

 「ここで「AをBをとおして知る」とは、使い慣れたBをホームベースにして対象Aを解明する、の意味である。自己言及に陥らぬように、他者Bの中にAを描く。Bは既知・制御可能・操作可能・表現可能、などの機能面において対象Aとは異なるが、同じ現実の存在がAにもBにもなり得るものである。

 最後に組み合わせを完結させるには、「人間を人間をとおして知る」という営みもある。ここでも「人間」を切り分けてつなぎ直すのだが、別に引っ付ける技術が進むから要素還元主義は強力なのである」(拙著『科学者、あたりまえを疑う』青土社、第2章)。

 冒頭の「引き算」論議も「量子アニーリング」も「AをBをとおして知る」の手法であり、人工Bの出現が新たな学問論を駆動するのである。

黄昏のモスクワ

 いまから三〇年以上前の一九八六年秋、モスクワの物理研究所に二週間ほど滞在した。ソ連崩壊まであと五、六年という「黄昏のモスクワ」といった感じの頃である。物理の議論をしていてテーマに興味があったので彼が手にしていた計算用紙を「コピーしてくれないか」といった。すると居合わせた者たちがロシア語でザワザワし出しが、結局、コピーは不可能だった。内容が秘密であるとか、アイデアの先取件で私を警戒したとか、そういうことでは全くない。理由は七〇年も前のロシア共産革命に由来するようだった。なんでも印刷(複写も印刷)は許可制だという。もちろん相対論の物理の内容自体の公表には何も問題がなく、許可を申請すれば許可される。しかしこのプロセスは結構重いので、みな嫌がっているのである。

 ここからは推測も入るが、こういうことだと思う。当時、印刷という行為は、攻撃の意味でも防護の意味でも、政治活動の最大の武器であった。このために印刷という行為が別格な位置付けとなったのであろう。つまり印刷許可制は一種の刀狩りであったのであり、その大原則がしり年後の研究所内でも貫徹していたということである。

「スマホの武器は配られた!」

 印刷による広報のメディアは帝政を打倒した自らの武器でもあったし、政権獲得後では反体制派の芽を摘む上でも大事な制御の手段であった。自分らの成功体験に引き寄せても、自由な政治的発言が印刷で広がることの危険性は熟知していたのである。これを緩めればアリの一穴になることを恐れて革命以来残っていたものと思う。実際、一九六〇年代までは、風刺を織り交ぜた反体制的言動の印刷物のインテリ層への広がりを止めるのはソ連の現実的に重要な政策だった。無人の部屋に置いてある印刷機は為政者の不安の種であったのだろう。

 天安門事件で亡命を余儀なくされた私の友人(故人)、方励之は学生に民主化を訴えていた一九八〇年代中頃、彼の演説を録音したカセットテープが、学生たちの手により次々とダビングされて広がったという(拙著『歴史のなかの科学』青土社、第9章)。いまそのお隣では「クマのプーさん」とかがネット検索の禁止用語になっているようだ。よもや足元で「森友」や「昭恵」が禁止用語にはなるまいと思うのだが……。つまり、ハードの上でのソフトの争奪戦が始まっているのだ。

 印刷やカセットテープといった情報メディアは武器なのである。スマホは民主主義の武器を人民に配ったようなものである。もちろん使いこなせなければ権力者のコントロールの手段に脱する可能性もある。どちらの主導権になるのかのせめぎ合いが始まっているのかも知れない。

 本章の冒頭に記したイベントも終わって「昭恵」「森友」絡みの土地である豊中から京都への帰途、電車の中で必死にスマホを操作している乗客たちを見ていると、ふと「せめぎ合い」を戦う勇姿に見えてきたが、チラッとみえた画面は「貴乃花騒動」だったりで、独りよがりの錯覚の夢から覚めたのであった。
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