未唯への手紙
未唯への手紙
20世紀の歴史 社会主義の終焉
『20世紀の歴史』より
鄧小平「知識を尊重し、人材を尊重し……」一九七七年
近代化を成し遂げるうえで重要なのは、科学と技術の発展である(中略)。中身のない話をしたって、われわれの近代化の計画にとってなんの得にもならない。知識と訓練された人材がなくてはならない(中略)。いま、科学・技術・教育の分野で、中国は先進国より完全に二十年は遅れをとっているようだ(中略)。日本人は早くも明治維新の時、科学・技術・教育に大変な努力を費やすようになった。明治維新とは、近代化を求める動きのようなもので、新たに登場しつつあった日本のブルジョワ階級が担った。われわれはプロレタリアートである以上、もっと上手くすべきだし、可能である。
一九七〇年代、自国経済が相対的に遅れていることをことさら心配している一つの社会主義国があった。隣国の日本が、資本主義国のなかでもっとも目を見張る成長を遂げていたからにほかならない。中国共産主義は、ソヴィエト共産主義の亜変種として単純にはみなせない。まして、ソヴィエトの衛星国家などではなかった。何しろ、ソ連よりずっと膨大な人口を抱えている国で、ついでに言うと、人口という点ではどこよりも多い国で、中国共産主義は勝利を収めたのだから。中国の人口統計が不確かであることを勘案しても、世界人口の五人に一人が中華人民共和国在住の中国人である(また、東・南東アジアには、かなりの数にのぼる中国人が移住していた)。さらに中国は、他のほとんどの国に比べてずっと民族的に同質で、人口のおよそ九四%が漢民族だっただけでなく、少なくとも二千年間、合間合間で中断されたことはあったものの、単一の政治的単位を形成してきた。もっと重要なのは、その二千年間のほとんど、中華帝国とこうした問題に見識のある中華帝国の住人たちのおそらく大多数が、中国を世界文明の中心かつ模範とみなしてきたということだ。ソ連をはじめ共産党政権が勝利を収めている他の国は一様に、数少ない例外はあるものの、より高度で模範的な文明の中心と比べ、自分たちの文化は後進的で傍流だと思っていた。こうした劣等感は、スターリン時代、電話から航空機に至るまで優れた発明の元はソ連であり、知的にも技術的にも西側に依存していないと耳障りなほどソ連が主張したことに、症状として表れている。
中国は違った。自国の正統的な文明と芸術・書・社会的な価値体系は、他国、とりわけ日本では、発想の源かつ模範として広く認められていると思っていた。この見方はまったく正しかった。他国と比べて中国の人々は、劣等感、それが知的なものであれ文化的なものであれ、また集団であろうと個人であろうと、そういったものと一切無縁であったことは確かである。西洋の帝国主義的拡張に対して中華帝国は態勢が整っていなかったが、自国をわずかでも脅かすような近隣諸国がなかったため、また、火器を導入した結果、辺境地帯で野蛮人を難なく追い払うことができるようになったこともあり、優越感は強まった。中国が技術面で劣っていたことは結果的に軍事的劣勢につながったこともあり、一九世紀にはきわめて明白になった。しかしそれは、技術的・教育的な能力がなかったからではなく、伝統的な中国文明の自己満足と自信によるものだった。そのため、一八六八年の明治維新後に日本人がやったこと、つまり、ヨーロッパを手本として大々的に受容し、「近代化」へ飛び込むというのは、中華帝国には不本意だった。このような近代化は、古くから伝わる文明の守護者である年老いた中華帝国が廃墟と化してはじめて可能かつ実行されるものだった。また、社会革命を通じてのみ可能で実行されるうるものだった。それは同時に、儒教的秩序に対抗する文化的な革命でもあった。 ‘
したがって、中国における共産主義は社会的なものでありつつ民族的--この言葉で話が逸れなければ--なものでもあった。共産主義革命を煽った社会的な火種は、中国人民、はじめは上海・広東・香港といった中・南部沿岸の大都市で働く労働者の極度の貧困と抑圧であった。ここは諸外国による帝国主義的統制を受ける飛び地であり、時には近代産業の飛び地になることもあった。のちに火種となったのは、膨大な国の人口のうち九〇%を占める農民の貧困と抑圧だった。農民をめぐる状況は、都市部と比べてかなり悪かった。都市部では、一人当たりの消費は農村の約二・五倍にのぼっていた。中国における貧困の真の姿は、西側社会の読者にとっては想像しがたい。例えば、共産党が支配権を得た頃(一九五二年のデータ)、平均的な中国人は基本的には一日五百グラムの米や穀物で生活しており、年間に消費する茶の量は○・〇八キログラムに満たなかった。新しい靴一足を買えるのは五年に一度くらいだった。
中国共産主義の民族的要素は、上・中流階級の知識人を通して影響を与えた。二〇世紀に中国で起きたすべての政治運動で指導者になったのは、ほとんどがこの層である。また、民族的要素は中国の民衆に間違いなく広がっていた感情--野蛮な外国人は、かれらと付き合いがあった中国人個人にとっても、国全体にとっても、なんの価値もない--を通しても作用した。T几世紀中葉以降、ありとあらゆる近隣諸国に中国は攻撃され、敗北し、分割され、搾取されていたのだから、こう思い込むのももっともだった。伝統的なイデオロギーを掲げる民衆による反帝国主義運動は、中華帝国が終わりを迎える以前の段階で、すでに馴染みのあるものになっていた。例えば一九〇〇年のいわゆる義和団事件が挙げられる。日本の中国占領に対する抵抗運動により、中国共産党は社会を煽るだけの負け組--一九三〇年代にそうだった--から、中国全人民を率い、代表する党へと姿を変えたことは、ほぼ間違いない。また、中国共産党が貧困層の社会的解放を求めたことで、民族解放と再生というかれらの訴えは、(主に農村部の)民衆にとっていっそう説得力のあるものとなった。
この点で、かれらはライバルの(より歴史のある)国民党に対し、優位だった。国民党は、中華帝国が一九一一年に崩壊した後、散り散りになった軍閥が率いている各地の残骸から、単一の力強い中華民国を再建しようとした。両党の短期的目的は矛盾しているようにみえなかったし、華南でもより発展した地域(そこに中華民国は首都を築いた)に政治基盤をともに置いていた。また指導者層に関しても、一方は商売人寄り、他方は農民や労働者寄りといったことを斟酌しても、教育を受けた似たり寄ったりのエリートで構成されていた。例えば、両者に占める伝統的な地主や学者の紳士階級、つまり中華帝国のエリートたちの割合は実質的に同じだった。ただし、共産党のほうが西洋型の高等教育を受けた指導者が国民党より多かった。また、二つの運動はともに一九〇〇年代の反帝国主義運動から生まれ、一九一九年以降に北京の学生や教師たちのあいだで民族主義が急激に高まって起きた五四運動によって強化された。国民党を率いる孫文は、愛国主義者・民主主義者・社会主義者であり、唯一革命が起きた反帝国主義勢力であるソヴィエト・ロシアに助言と支援を頼った。また、ボリシェヴィキ型の一党独裁が、西欧より自分の任務に相応しい模範であることに気づいていた。実際のところ、このソヴィエトとの関係を通じて共産党は主要勢力になり、公の、国を挙げての運動に統合されるようになった。また、一九二五年の孫文他界後、華北への大規模な北伐に参加することができた。中華民国はこの時の北伐により、それまで支配下に入っていなかった中国の半分の地域にまで影響力を及ぼすようになった。孫文の後継者である蒋介石(一八八七-一九七五)は、一九二七年にロシアと手を切り、主な支持層が都市部に住む少数の労働者階級だった共産党を抑圧した。にもかかわらず、中国全土で完全な支配を確立できなかった。
共産党の関心は、否が応にも主に農村地帯に向かわざるをえず、対国民党では概して、農民が基盤となるゲリラ戦を仕掛けた。しかし、とりわけ内部分裂と混乱、そして中国の現実からモスクワがかけ離れていたため、ほとんど成功しなかった。一九三四年、紅軍は壮烈を極めた「長征」で、北西部の辺鄙な土地まで退却を余儀なくされた。こうした展開を通し、農村戦略をずっと支持してきた毛沢東が、延安の避難先で誰もが認める指導者となった。かといって、共産党の進展について何かしら見通しが立ったわけではなかった。対する国民党は、国のほとんどの地域でその支配を着実に広げた。この状況は一九三七年に日本が侵略する時まで続いた。
それでもしかし、国民党には中国人民に真に訴えかけるものが欠けていた。また、近代化と再生という事業も同時に兼ねていた革命的な計画を放棄していたため、ライバルの共産党に太刀打ちできなかった。近代化・反帝国主義そして民族革命の指導者としては、他にケマル・アタテュルクがいる。蒋介石がアタチュルクのようになることは、まったくなかった。アタテュルクの場合、できて間もないソヴィエト連邦構成共和国と友好関係を結び、自国の共産党を自分の目的のために利用し、そして背を向けた。蒋介石ほど断固とした姿勢ではなかったが。アタテュルク同様、蒋介石も軍をもってはいたが、民族的な忠誠心はなく、ましてや紅軍のような革命を目指す志気など皆無だった。この軍に入隊したのは、社会が崩壊する苦しい時代を生き抜くには軍服と銃が最良の道だと思っている者たちであり、かれらを統率していたのは、毛沢束自身わかっていた通り、こういう時分には「権力は銃口から育つ」こと、利益と富も然りであることを知っている者たちだった。蒋介石は都市部の中産階級からかなり支持されており、おそらく、それを上回る支持を国外に住む豊かな華僑華人から受けていた。しかし、中国人民の九〇%は都市部に住んでおらず、また、ほぼすべての国土は都市ではなかった。こうした人々や土地を支配していたのは、各地の名士や権力者で、兵士を擁する軍閥から名家、国民党が甘受した帝国の権力構造の残骸にまで及ぶ。日本が本気で中国を征服し始めた時、国民党の軍は自分たちの本領が発揮できる沿岸部の諸都市が日本軍によって間髪を置かず制圧されるのを防げなかった。
他の地域は、地主と軍閥による腐敗した支配体制にいつなってもおかしくない状態で、日本軍に抵抗するにしても無力だった。他方共産党は、被占領地域で日本軍への抵抗に人民をうまく動員した。そして一九四九年に中国を掌握し、短期で終わった内戦で国民党勢力を鼻であしらうかのように一掃すると、逃亡中の国民党勢力の残党以外のすべての者にとり、正統な中国政府、つまり、四十年に及ぶ中断を経て帝国の王朝を受け継ぐ真の後継者となった。マルクス・レーニン主義政党としての経験をもとに、巨大な帝国の中央から僻地の村に到るまで、政策を通達できる規律のとれた全国的な組織を形成できたため、なおのこと受容されやすかった。これは、ほとんどの中国人民にとっては、しかるべき帝国であるなら行って然るべきことだった。世界を変えるうえでレーニンのボリシェヴィキの思想が貢献したのは、原理原則というよりは組織という点においてだった。
鄧小平「知識を尊重し、人材を尊重し……」一九七七年
近代化を成し遂げるうえで重要なのは、科学と技術の発展である(中略)。中身のない話をしたって、われわれの近代化の計画にとってなんの得にもならない。知識と訓練された人材がなくてはならない(中略)。いま、科学・技術・教育の分野で、中国は先進国より完全に二十年は遅れをとっているようだ(中略)。日本人は早くも明治維新の時、科学・技術・教育に大変な努力を費やすようになった。明治維新とは、近代化を求める動きのようなもので、新たに登場しつつあった日本のブルジョワ階級が担った。われわれはプロレタリアートである以上、もっと上手くすべきだし、可能である。
一九七〇年代、自国経済が相対的に遅れていることをことさら心配している一つの社会主義国があった。隣国の日本が、資本主義国のなかでもっとも目を見張る成長を遂げていたからにほかならない。中国共産主義は、ソヴィエト共産主義の亜変種として単純にはみなせない。まして、ソヴィエトの衛星国家などではなかった。何しろ、ソ連よりずっと膨大な人口を抱えている国で、ついでに言うと、人口という点ではどこよりも多い国で、中国共産主義は勝利を収めたのだから。中国の人口統計が不確かであることを勘案しても、世界人口の五人に一人が中華人民共和国在住の中国人である(また、東・南東アジアには、かなりの数にのぼる中国人が移住していた)。さらに中国は、他のほとんどの国に比べてずっと民族的に同質で、人口のおよそ九四%が漢民族だっただけでなく、少なくとも二千年間、合間合間で中断されたことはあったものの、単一の政治的単位を形成してきた。もっと重要なのは、その二千年間のほとんど、中華帝国とこうした問題に見識のある中華帝国の住人たちのおそらく大多数が、中国を世界文明の中心かつ模範とみなしてきたということだ。ソ連をはじめ共産党政権が勝利を収めている他の国は一様に、数少ない例外はあるものの、より高度で模範的な文明の中心と比べ、自分たちの文化は後進的で傍流だと思っていた。こうした劣等感は、スターリン時代、電話から航空機に至るまで優れた発明の元はソ連であり、知的にも技術的にも西側に依存していないと耳障りなほどソ連が主張したことに、症状として表れている。
中国は違った。自国の正統的な文明と芸術・書・社会的な価値体系は、他国、とりわけ日本では、発想の源かつ模範として広く認められていると思っていた。この見方はまったく正しかった。他国と比べて中国の人々は、劣等感、それが知的なものであれ文化的なものであれ、また集団であろうと個人であろうと、そういったものと一切無縁であったことは確かである。西洋の帝国主義的拡張に対して中華帝国は態勢が整っていなかったが、自国をわずかでも脅かすような近隣諸国がなかったため、また、火器を導入した結果、辺境地帯で野蛮人を難なく追い払うことができるようになったこともあり、優越感は強まった。中国が技術面で劣っていたことは結果的に軍事的劣勢につながったこともあり、一九世紀にはきわめて明白になった。しかしそれは、技術的・教育的な能力がなかったからではなく、伝統的な中国文明の自己満足と自信によるものだった。そのため、一八六八年の明治維新後に日本人がやったこと、つまり、ヨーロッパを手本として大々的に受容し、「近代化」へ飛び込むというのは、中華帝国には不本意だった。このような近代化は、古くから伝わる文明の守護者である年老いた中華帝国が廃墟と化してはじめて可能かつ実行されるものだった。また、社会革命を通じてのみ可能で実行されるうるものだった。それは同時に、儒教的秩序に対抗する文化的な革命でもあった。 ‘
したがって、中国における共産主義は社会的なものでありつつ民族的--この言葉で話が逸れなければ--なものでもあった。共産主義革命を煽った社会的な火種は、中国人民、はじめは上海・広東・香港といった中・南部沿岸の大都市で働く労働者の極度の貧困と抑圧であった。ここは諸外国による帝国主義的統制を受ける飛び地であり、時には近代産業の飛び地になることもあった。のちに火種となったのは、膨大な国の人口のうち九〇%を占める農民の貧困と抑圧だった。農民をめぐる状況は、都市部と比べてかなり悪かった。都市部では、一人当たりの消費は農村の約二・五倍にのぼっていた。中国における貧困の真の姿は、西側社会の読者にとっては想像しがたい。例えば、共産党が支配権を得た頃(一九五二年のデータ)、平均的な中国人は基本的には一日五百グラムの米や穀物で生活しており、年間に消費する茶の量は○・〇八キログラムに満たなかった。新しい靴一足を買えるのは五年に一度くらいだった。
中国共産主義の民族的要素は、上・中流階級の知識人を通して影響を与えた。二〇世紀に中国で起きたすべての政治運動で指導者になったのは、ほとんどがこの層である。また、民族的要素は中国の民衆に間違いなく広がっていた感情--野蛮な外国人は、かれらと付き合いがあった中国人個人にとっても、国全体にとっても、なんの価値もない--を通しても作用した。T几世紀中葉以降、ありとあらゆる近隣諸国に中国は攻撃され、敗北し、分割され、搾取されていたのだから、こう思い込むのももっともだった。伝統的なイデオロギーを掲げる民衆による反帝国主義運動は、中華帝国が終わりを迎える以前の段階で、すでに馴染みのあるものになっていた。例えば一九〇〇年のいわゆる義和団事件が挙げられる。日本の中国占領に対する抵抗運動により、中国共産党は社会を煽るだけの負け組--一九三〇年代にそうだった--から、中国全人民を率い、代表する党へと姿を変えたことは、ほぼ間違いない。また、中国共産党が貧困層の社会的解放を求めたことで、民族解放と再生というかれらの訴えは、(主に農村部の)民衆にとっていっそう説得力のあるものとなった。
この点で、かれらはライバルの(より歴史のある)国民党に対し、優位だった。国民党は、中華帝国が一九一一年に崩壊した後、散り散りになった軍閥が率いている各地の残骸から、単一の力強い中華民国を再建しようとした。両党の短期的目的は矛盾しているようにみえなかったし、華南でもより発展した地域(そこに中華民国は首都を築いた)に政治基盤をともに置いていた。また指導者層に関しても、一方は商売人寄り、他方は農民や労働者寄りといったことを斟酌しても、教育を受けた似たり寄ったりのエリートで構成されていた。例えば、両者に占める伝統的な地主や学者の紳士階級、つまり中華帝国のエリートたちの割合は実質的に同じだった。ただし、共産党のほうが西洋型の高等教育を受けた指導者が国民党より多かった。また、二つの運動はともに一九〇〇年代の反帝国主義運動から生まれ、一九一九年以降に北京の学生や教師たちのあいだで民族主義が急激に高まって起きた五四運動によって強化された。国民党を率いる孫文は、愛国主義者・民主主義者・社会主義者であり、唯一革命が起きた反帝国主義勢力であるソヴィエト・ロシアに助言と支援を頼った。また、ボリシェヴィキ型の一党独裁が、西欧より自分の任務に相応しい模範であることに気づいていた。実際のところ、このソヴィエトとの関係を通じて共産党は主要勢力になり、公の、国を挙げての運動に統合されるようになった。また、一九二五年の孫文他界後、華北への大規模な北伐に参加することができた。中華民国はこの時の北伐により、それまで支配下に入っていなかった中国の半分の地域にまで影響力を及ぼすようになった。孫文の後継者である蒋介石(一八八七-一九七五)は、一九二七年にロシアと手を切り、主な支持層が都市部に住む少数の労働者階級だった共産党を抑圧した。にもかかわらず、中国全土で完全な支配を確立できなかった。
共産党の関心は、否が応にも主に農村地帯に向かわざるをえず、対国民党では概して、農民が基盤となるゲリラ戦を仕掛けた。しかし、とりわけ内部分裂と混乱、そして中国の現実からモスクワがかけ離れていたため、ほとんど成功しなかった。一九三四年、紅軍は壮烈を極めた「長征」で、北西部の辺鄙な土地まで退却を余儀なくされた。こうした展開を通し、農村戦略をずっと支持してきた毛沢東が、延安の避難先で誰もが認める指導者となった。かといって、共産党の進展について何かしら見通しが立ったわけではなかった。対する国民党は、国のほとんどの地域でその支配を着実に広げた。この状況は一九三七年に日本が侵略する時まで続いた。
それでもしかし、国民党には中国人民に真に訴えかけるものが欠けていた。また、近代化と再生という事業も同時に兼ねていた革命的な計画を放棄していたため、ライバルの共産党に太刀打ちできなかった。近代化・反帝国主義そして民族革命の指導者としては、他にケマル・アタテュルクがいる。蒋介石がアタチュルクのようになることは、まったくなかった。アタテュルクの場合、できて間もないソヴィエト連邦構成共和国と友好関係を結び、自国の共産党を自分の目的のために利用し、そして背を向けた。蒋介石ほど断固とした姿勢ではなかったが。アタテュルク同様、蒋介石も軍をもってはいたが、民族的な忠誠心はなく、ましてや紅軍のような革命を目指す志気など皆無だった。この軍に入隊したのは、社会が崩壊する苦しい時代を生き抜くには軍服と銃が最良の道だと思っている者たちであり、かれらを統率していたのは、毛沢束自身わかっていた通り、こういう時分には「権力は銃口から育つ」こと、利益と富も然りであることを知っている者たちだった。蒋介石は都市部の中産階級からかなり支持されており、おそらく、それを上回る支持を国外に住む豊かな華僑華人から受けていた。しかし、中国人民の九〇%は都市部に住んでおらず、また、ほぼすべての国土は都市ではなかった。こうした人々や土地を支配していたのは、各地の名士や権力者で、兵士を擁する軍閥から名家、国民党が甘受した帝国の権力構造の残骸にまで及ぶ。日本が本気で中国を征服し始めた時、国民党の軍は自分たちの本領が発揮できる沿岸部の諸都市が日本軍によって間髪を置かず制圧されるのを防げなかった。
他の地域は、地主と軍閥による腐敗した支配体制にいつなってもおかしくない状態で、日本軍に抵抗するにしても無力だった。他方共産党は、被占領地域で日本軍への抵抗に人民をうまく動員した。そして一九四九年に中国を掌握し、短期で終わった内戦で国民党勢力を鼻であしらうかのように一掃すると、逃亡中の国民党勢力の残党以外のすべての者にとり、正統な中国政府、つまり、四十年に及ぶ中断を経て帝国の王朝を受け継ぐ真の後継者となった。マルクス・レーニン主義政党としての経験をもとに、巨大な帝国の中央から僻地の村に到るまで、政策を通達できる規律のとれた全国的な組織を形成できたため、なおのこと受容されやすかった。これは、ほとんどの中国人民にとっては、しかるべき帝国であるなら行って然るべきことだった。世界を変えるうえでレーニンのボリシェヴィキの思想が貢献したのは、原理原則というよりは組織という点においてだった。
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