未唯への手紙
未唯への手紙
これからの安全保障論議に求められるもの
『自衛隊史』より 新たな安全保障体制に向けて ⇒ 未唯空間の項目にどう入れ込むか。
戦後七〇年たって安全保障政策の転換が行われようとしている。さまざまな立場の人が賛否両方の意見を述べる中で、しばしば歴史の教訓に学べと指摘している。立場によって歴史の見方も異なっているように思えるが、大事な点の一つは戦前の日本が孤立化し、軍事力に頼って自己に利益となる国際秩序を強引に作っていこうとしたのは誤りだったと認識すべきことではないだろうか。そう考えた場合、残念ながら現在、力によって現在の国際秩序を変更しようと試みる強力な国家が現れてきた。ロシアと中国である。どちらも安易に戦争を求めているわけではないだろうし、経済的な結びつきも深くなっている。しかし、多くの日本人が戦争を嫌うあまり意識しないが、必要とあれば軍事力を行使するというのが国際政治の現実でもある。そういう事態を防ぐために、各国は自国の軍事力の増強や、多国間の防衛協力などを実施している。そして日本も、そうした取り組みを進めようとしているのが現状なのである。
たしかに、「安全保障のジレンマ」と言われるように、軍事力の安易な増強は、他国の不信感を招き、軍備増強競争に陥って国際的不安定さを増大する場合がある。そうならないためには、軍事力だけではなく、多面的な外交努力が必要なことは言うまでもない。こうした当たり前とも言えることが、日本では軍事問題が関係すると、極端な議論に陥りやすいのは、きわめて残念である。それは国会の議論でも、ジャーナリズムさらにはアカデミズムの中でも言えることであり、長く続いた五五年体制の時代に、現実的な安全保障論議を行ってこなかった弊害が表れているのかもしれない。
重要なことは、現在の国際秩序に力による変更が加えられようとしている現状を認識した上で、日本が何をなすべきか、何ができるのかを議論することである。いわば、日本という国家の国際的なあり方を考えるということである。その際、戦後日本が作ってきた「平和国家」というイメージをいかに活かすか、という視点も必要だろう。ただし、戦後平和主義の中で寄木細工のょうに組み立てられてきた防衛関係の法制度は、流動化する国際情勢に対応できなくなっているのも事実である。本論で見てきたように、自衛隊の国際的な平和協力活動も、今では自衛隊法上に掲げる任務に加えられているが、現状では自衛隊が対応できない場合も多い。東南アジア諸国など、日本に対する期待が大きいが、それに応えていくにもさまざまな法制の改革が必要になってくる。日本の中だけで通用する蛸壷のょうな法律論ばかりで議論を続けていてはならない時期に来ている。それは憲法にも関係してくるわけで、立憲主義を大事にするためにも、憲法の平和主義を活かしつつ、改めるべき点はないかどうかを真剣に議論することから、逃げていてはいけないのではなかろうか。
ここで考えておかねばならないのが「普通の国」という問題である。日本も「普通の国」になるべきだとしばしば語られる。ただ、「普通の国」というと、対イラク戦争を行った米国々英国のようになることだと、単純に思われていないだろうか。また、日本は米国の意向に唯々諾々と従うはずだという意見もあるが、それは自分たちが選ぶ政府を信用していないということになる。米国もそうであるが、大国とはたしかに身勝手な振る舞いをするものである。しかし集団的自衛権の行使ができたとしても、何を行い、何を行わないかは主権国家として、当然自らが選択できるのである。実際、ドイツのように直接的な武力行使ではなく後方支援を中心とした協力を行っている例もある。大事なことは、国際社会における軍事の常識を知った上で、日本という国家が何を行うのか議論する必要があるということである。日本における軍事に関する議論は特殊日本的で、国際社会では通用しないことが多い。日本だけで通用する議論ではなく、国際的な協調を目指すための建設的な議論を行っていくべき時期に来ている。
さて、警察予備隊が創設された時期には、「税金泥棒」という罵声を浴びたこともあり、六〇年代には自衛隊員やその家族への人権侵害と言える差別待遇も行われていた。そうした時代から比べると、国民の間での自衛隊への好感度ははるかに高まり、期待も大きい。軍事を語ることがタブー視されていた時代があったことが信じられないほど、今は多くの人が軍事を語っている。ただ気がかりなのは、軍事についての知識が広まり、多くの人が議論すること自体は望ましいが、少し安易に考える風潮になっていないかということである。軍事は、武器についてのカタログ・データだけで判断できるものではないし、武器自体、カタログどおりに動くものでもない。実際の戦闘はゲームとは異なり、うまくいかないならリセットしてやり直すというものではない。軍事の否定ではなく、しかし過剰な期待でもない議論を行うべきなのである。
日本の防衛政策では、「専守防衛」にしても、最近唱えられている「離島防衛」にしても、政治的スローガンであったり、内容がよくわからないままに、あるいはわかったつもりで使われているものも多い。それらも再検証すべきだろう。もっとも大事なことは、自衛隊を使うのは政治の責任であるということ、そしてその政治家を選ぶのは国民だということである。繰り返すが安全保障政策の転換にあたって問われているのは、日本の民主政治であり、さらにいえば日本国民全体が安全保障を自らの問題と考えることができるかどうか、そして日本という国家のあり方をどう考えていくのかということなのである。
戦後七〇年たって安全保障政策の転換が行われようとしている。さまざまな立場の人が賛否両方の意見を述べる中で、しばしば歴史の教訓に学べと指摘している。立場によって歴史の見方も異なっているように思えるが、大事な点の一つは戦前の日本が孤立化し、軍事力に頼って自己に利益となる国際秩序を強引に作っていこうとしたのは誤りだったと認識すべきことではないだろうか。そう考えた場合、残念ながら現在、力によって現在の国際秩序を変更しようと試みる強力な国家が現れてきた。ロシアと中国である。どちらも安易に戦争を求めているわけではないだろうし、経済的な結びつきも深くなっている。しかし、多くの日本人が戦争を嫌うあまり意識しないが、必要とあれば軍事力を行使するというのが国際政治の現実でもある。そういう事態を防ぐために、各国は自国の軍事力の増強や、多国間の防衛協力などを実施している。そして日本も、そうした取り組みを進めようとしているのが現状なのである。
たしかに、「安全保障のジレンマ」と言われるように、軍事力の安易な増強は、他国の不信感を招き、軍備増強競争に陥って国際的不安定さを増大する場合がある。そうならないためには、軍事力だけではなく、多面的な外交努力が必要なことは言うまでもない。こうした当たり前とも言えることが、日本では軍事問題が関係すると、極端な議論に陥りやすいのは、きわめて残念である。それは国会の議論でも、ジャーナリズムさらにはアカデミズムの中でも言えることであり、長く続いた五五年体制の時代に、現実的な安全保障論議を行ってこなかった弊害が表れているのかもしれない。
重要なことは、現在の国際秩序に力による変更が加えられようとしている現状を認識した上で、日本が何をなすべきか、何ができるのかを議論することである。いわば、日本という国家の国際的なあり方を考えるということである。その際、戦後日本が作ってきた「平和国家」というイメージをいかに活かすか、という視点も必要だろう。ただし、戦後平和主義の中で寄木細工のょうに組み立てられてきた防衛関係の法制度は、流動化する国際情勢に対応できなくなっているのも事実である。本論で見てきたように、自衛隊の国際的な平和協力活動も、今では自衛隊法上に掲げる任務に加えられているが、現状では自衛隊が対応できない場合も多い。東南アジア諸国など、日本に対する期待が大きいが、それに応えていくにもさまざまな法制の改革が必要になってくる。日本の中だけで通用する蛸壷のょうな法律論ばかりで議論を続けていてはならない時期に来ている。それは憲法にも関係してくるわけで、立憲主義を大事にするためにも、憲法の平和主義を活かしつつ、改めるべき点はないかどうかを真剣に議論することから、逃げていてはいけないのではなかろうか。
ここで考えておかねばならないのが「普通の国」という問題である。日本も「普通の国」になるべきだとしばしば語られる。ただ、「普通の国」というと、対イラク戦争を行った米国々英国のようになることだと、単純に思われていないだろうか。また、日本は米国の意向に唯々諾々と従うはずだという意見もあるが、それは自分たちが選ぶ政府を信用していないということになる。米国もそうであるが、大国とはたしかに身勝手な振る舞いをするものである。しかし集団的自衛権の行使ができたとしても、何を行い、何を行わないかは主権国家として、当然自らが選択できるのである。実際、ドイツのように直接的な武力行使ではなく後方支援を中心とした協力を行っている例もある。大事なことは、国際社会における軍事の常識を知った上で、日本という国家が何を行うのか議論する必要があるということである。日本における軍事に関する議論は特殊日本的で、国際社会では通用しないことが多い。日本だけで通用する議論ではなく、国際的な協調を目指すための建設的な議論を行っていくべき時期に来ている。
さて、警察予備隊が創設された時期には、「税金泥棒」という罵声を浴びたこともあり、六〇年代には自衛隊員やその家族への人権侵害と言える差別待遇も行われていた。そうした時代から比べると、国民の間での自衛隊への好感度ははるかに高まり、期待も大きい。軍事を語ることがタブー視されていた時代があったことが信じられないほど、今は多くの人が軍事を語っている。ただ気がかりなのは、軍事についての知識が広まり、多くの人が議論すること自体は望ましいが、少し安易に考える風潮になっていないかということである。軍事は、武器についてのカタログ・データだけで判断できるものではないし、武器自体、カタログどおりに動くものでもない。実際の戦闘はゲームとは異なり、うまくいかないならリセットしてやり直すというものではない。軍事の否定ではなく、しかし過剰な期待でもない議論を行うべきなのである。
日本の防衛政策では、「専守防衛」にしても、最近唱えられている「離島防衛」にしても、政治的スローガンであったり、内容がよくわからないままに、あるいはわかったつもりで使われているものも多い。それらも再検証すべきだろう。もっとも大事なことは、自衛隊を使うのは政治の責任であるということ、そしてその政治家を選ぶのは国民だということである。繰り返すが安全保障政策の転換にあたって問われているのは、日本の民主政治であり、さらにいえば日本国民全体が安全保障を自らの問題と考えることができるかどうか、そして日本という国家のあり方をどう考えていくのかということなのである。
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