未唯への手紙
未唯への手紙
アレクサンダー大王の東征 イッソス
『トルコの歴史』より イッソス アレクサンダー大王の東征
イッソス
決戦に名前を残したイッソスは、トルコのシリア国境(タイ県北部にあるエルズイン市にある。この辺りは南のシリア、北のアナトリア、東のメソポタミアに続く三つの道の結節点で、西は天然の良港であるイスケンデルン湾だ。つまり、陸海の交通の要衝である。
イッソスは東地中海の古代民族であるフェニキア人や、ヒッタイトの人々も使った港町だったが、今では五〇〇メートル内陸になる。湾に土砂が堆積したからで、イッソスが淘汰された要因だ。わずかな都市遺跡が、農地の中に取り残されている。真横にあったピナロス川がなく緑の低地があるのは、川の流れが変わり、三キロメール南に河口を持つデリ川になったと見られるからだ。
ただし、この古代遺跡がマケドニア軍とペルシア軍の衝突現場だったのではない。それは、もう少し南に位置するパヤスという別の町。対戦に至る経過はあとで述べるが、当時はイッソスが最寄りの都市だったため、イッソスの戦いとして歴史に残ったのだ。
イッソスの戦いは、メディア時代から通算するとアナトリアで二五〇年続いたペルシア時代を終わらせ、ヘレニズム時代の幕を開けた。「ヘレニズム」とは近代の造語で、広い意味でのギリシア文化が東に及び、東方を啓蒙したとのニュアンスで、東西の融合が起こったことを言う。とはいえ、もともと西アナトリアにはギリシア性の文明があったし、東方自体がギリシアに勝るとも劣らぬ高度な地域だったのだが。
現存するイッソスの古代遺跡は、アレクサンダーがここを通ってから三〇〇年後に、彼が開いたヘレニズム時代を終わらせたローマ時代に再建されたものである。往年の繁栄をしのばせるのは唯ベ長いローマ水道橋だけだ。他は畑に埋もれてしまい、あるいは持ち出され、わずかに保護されたうちの一つのローマ浴場からは、みごとな床モザイク画が出土している(非公開)。
決戦
マケドニア軍は東地中海に出るとイッソスに進む。ここから南方面は、すぐ東にヌル山脈(古代名アマヌス)がせり立つため沿岸地帯は陰路になっており、アレクサンダーはペルシア軍が南から来ると想定していたため、そのままこの路に入り込んだ。今も、国道と国鉄が平行して走る沿岸線だ。
ところがペルシア軍は策略により、一部の軍をアマヌス山脈の北の峠からイッソス経由で入り込ませ、それに気づいたマケドニア軍は北へと来た道を戻る。両軍が相見たのが、ィッソスから五〇キロメートル南のハタイ県パヤス市だ。沿岸に中世十字軍の城郭とオスマン時代のキャラバンサライが残る歴史都市で、戦闘現場は背後の山の中のパヤス川だ。小さな川だが、所々に深い陥没があり岩場が多いことが、この戦いを死闘にした。
勝敗の結果を歴史に刻むのが、さらに三〇キロメートル南におけるイスケンデルンという都市の存在である。マケドニア名はアレクサンドレッ夕(アレクサンダーのまち)と言った。イッソスで勝者になったアレクサンダーが、このままシリア、エジプト征服を続ける決意をし、造らせた進軍拠点だったのである。アダナ県とハタイ県の沿岸がつくる湾の名前にもなったイスケンデルンとは、この地域が九七〇年後イスラム圏に入り、アラビア語読みに変わったものだ。
ただしアレクサンダーが英雄になれたのも、ベルシアに憧れ、ペルシアを尊敬したからだ。彼はマケドニア軍のひんしゅくを買いなから、アケメネス朝の後継者を自負した。その前から「全アジアの卜」とまで自認していた。ペルシアの理想を受け継いだからこそ、ペルシアのサトラニフ制度も踏襲した。彼は、広大な異邦の地のすべての民の支配者になろうとした。さまざまな民族がそれぞれの信仰や文化を守り、違いを認め合ってともに生きられる、共通の世界を創ろうとしたからだ。これは、アレクサンダー亡きあと、共和政ローマが再度試み、ビザンツ帝国が失敗し、オスマン帝国が再度成功させたことだ。出陣から一一年後、三三歳でバビロンにおいて崩御した彼のものとされる石棺は、イスタンブール考古学博物館が所蔵している。
イッソス
決戦に名前を残したイッソスは、トルコのシリア国境(タイ県北部にあるエルズイン市にある。この辺りは南のシリア、北のアナトリア、東のメソポタミアに続く三つの道の結節点で、西は天然の良港であるイスケンデルン湾だ。つまり、陸海の交通の要衝である。
イッソスは東地中海の古代民族であるフェニキア人や、ヒッタイトの人々も使った港町だったが、今では五〇〇メートル内陸になる。湾に土砂が堆積したからで、イッソスが淘汰された要因だ。わずかな都市遺跡が、農地の中に取り残されている。真横にあったピナロス川がなく緑の低地があるのは、川の流れが変わり、三キロメール南に河口を持つデリ川になったと見られるからだ。
ただし、この古代遺跡がマケドニア軍とペルシア軍の衝突現場だったのではない。それは、もう少し南に位置するパヤスという別の町。対戦に至る経過はあとで述べるが、当時はイッソスが最寄りの都市だったため、イッソスの戦いとして歴史に残ったのだ。
イッソスの戦いは、メディア時代から通算するとアナトリアで二五〇年続いたペルシア時代を終わらせ、ヘレニズム時代の幕を開けた。「ヘレニズム」とは近代の造語で、広い意味でのギリシア文化が東に及び、東方を啓蒙したとのニュアンスで、東西の融合が起こったことを言う。とはいえ、もともと西アナトリアにはギリシア性の文明があったし、東方自体がギリシアに勝るとも劣らぬ高度な地域だったのだが。
現存するイッソスの古代遺跡は、アレクサンダーがここを通ってから三〇〇年後に、彼が開いたヘレニズム時代を終わらせたローマ時代に再建されたものである。往年の繁栄をしのばせるのは唯ベ長いローマ水道橋だけだ。他は畑に埋もれてしまい、あるいは持ち出され、わずかに保護されたうちの一つのローマ浴場からは、みごとな床モザイク画が出土している(非公開)。
決戦
マケドニア軍は東地中海に出るとイッソスに進む。ここから南方面は、すぐ東にヌル山脈(古代名アマヌス)がせり立つため沿岸地帯は陰路になっており、アレクサンダーはペルシア軍が南から来ると想定していたため、そのままこの路に入り込んだ。今も、国道と国鉄が平行して走る沿岸線だ。
ところがペルシア軍は策略により、一部の軍をアマヌス山脈の北の峠からイッソス経由で入り込ませ、それに気づいたマケドニア軍は北へと来た道を戻る。両軍が相見たのが、ィッソスから五〇キロメートル南のハタイ県パヤス市だ。沿岸に中世十字軍の城郭とオスマン時代のキャラバンサライが残る歴史都市で、戦闘現場は背後の山の中のパヤス川だ。小さな川だが、所々に深い陥没があり岩場が多いことが、この戦いを死闘にした。
勝敗の結果を歴史に刻むのが、さらに三〇キロメートル南におけるイスケンデルンという都市の存在である。マケドニア名はアレクサンドレッ夕(アレクサンダーのまち)と言った。イッソスで勝者になったアレクサンダーが、このままシリア、エジプト征服を続ける決意をし、造らせた進軍拠点だったのである。アダナ県とハタイ県の沿岸がつくる湾の名前にもなったイスケンデルンとは、この地域が九七〇年後イスラム圏に入り、アラビア語読みに変わったものだ。
ただしアレクサンダーが英雄になれたのも、ベルシアに憧れ、ペルシアを尊敬したからだ。彼はマケドニア軍のひんしゅくを買いなから、アケメネス朝の後継者を自負した。その前から「全アジアの卜」とまで自認していた。ペルシアの理想を受け継いだからこそ、ペルシアのサトラニフ制度も踏襲した。彼は、広大な異邦の地のすべての民の支配者になろうとした。さまざまな民族がそれぞれの信仰や文化を守り、違いを認め合ってともに生きられる、共通の世界を創ろうとしたからだ。これは、アレクサンダー亡きあと、共和政ローマが再度試み、ビザンツ帝国が失敗し、オスマン帝国が再度成功させたことだ。出陣から一一年後、三三歳でバビロンにおいて崩御した彼のものとされる石棺は、イスタンブール考古学博物館が所蔵している。
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