goo

リー・クアンユー シンガポール「建国の父」

『シンガポールを知るための65章』より

リー・クアンユー(Lee Kwan Yew)は1959年から1990年まで初代首相、その後は上級相、2004年からは閣僚顧問として2011年まで内閣にとどまり絶大な影響力を行使し続けた。1819年にシンガポールを「発見」してイギリス植民地とし、その発展の礎を築いたラッフルズを「建設の父」とするなら、独立時に「未来のない都市国家」といわれたシンガポールに今日の繁栄をもたらしたリー・クアンユーは、まぎれもなく「建国の父」「開発の父」であろう。

リーは1923年にシンガポールの裕福な客家商人の家に生まれた。すでに曾祖父の時代からシンガポールに住んでいる彼の家族は、早くから祖国中国との感情的な絆を断ちきり、英語を学んでイギリスの文化に慣れ親しんでいた。彼らのような華人は「海峡華人」と呼ばれていた。リーの父は、彼自身もそうであったように5人の子どもたちすべてに幼い頃から英語を学ばせ、とくに長男クアンユーには「イギリス人と同様になる」ことを強く希望していた。リー・クアンユーはラッフルズ・カレッジ(1928年に大学レベルの高等教育機関として設立され、1949年にマラヤ大学となる)に進み、日本のシンガポール占領によって学業を中断されたが、戦後、奨学金を得てケンブリッジ大学で法律を専攻して弁護士の資格を得、1949年に最優秀の成績でケンブリッジを卒業した。彼の妻クワァ・ゲォクチュー(2010年死去)もまたケンブリッジを最優秀で卒業している。

もっともこのように成績優秀であっても、彼のような英語教育を受けた人びと(英語派)は当時のシンガポールではほんの一握りのエリートであり、大多数の華人は華語教育を受けるか無教育で、祖国中国との感情的絆を強く保持していた(華語派)。彼のような大衆から遊離したエリートが短期間のうちに権力を握るには、すでに大衆的基盤を持つ既存の勢力と連携しなければならないことは明らかである。リーはいくつかの労働組合や華語学校の学生組織の顧問弁護士を引き受けて、彼らに接近した。「1954年のある日、私たちは華語派の世界と接触した。華校の学生は徴兵令に強く反対し、あちこちで警察と衝突し、逮捕され、裁判にかけられていた。私たちは華語派世界--バイタリティとダイナミズム、革命に満ち、過去30年にわたって共産党が働きかけ、成功を収めてきた世界--に橋を架けた」。リーは華語派世界の若者との出会いとその後の連携をこのように回想している。この頃、彼は幼い頃から慣れ親しんだ英語名ハリーを捨てた。華語派と連携するには英語名は邪魔になるという判断であろう。

彼も創始者の1人となった人民行動党は、リーに代表される英語派と華語派の連携した政党で、1954年に結成式典が開かれた。イギリスから内政自治権を獲得した1959年、初の総選挙が行われて人民行動党は圧勝し、リーは36歳の若さで首相となった。だがその直後からマラヤ連邦との統合問題をめぐって両者は分裂し、左派の華語派は野党を結成した。もっとも野党はイギリスから徹底的に弾圧され、シンガポールが独立した1965年には人民行動党は覇権を確立、リーは絶大な影響力を持つようになっていた。

彼は決して国民に親しまれるリーダーではない。常に「シンガポールの進むべき道」を指し示し、国民を強引に引っ張っていくタイプである。「何か正しいのかを決めるのはわれわれです。国民がどう思うのかを気にする必要はありません」--こう明言する彼は、天然資源はなく、マレーシアとの関係は最悪で、政治的には吹けば飛ぶような独立時の都市国家を生存・繁栄させるために、徹底した介入を国民生活に対して行い、批判勢力を「合法的に」封じ込めるための法を次々と制定し、民主主義よりも開発を優先する「開発体制」の典型といわれる社会を作り上げたのである。

彼を突き動かしたのは、強い危機意識である。シンガポールを沼地に建つ80階建てのビルになぞられ、「我々は非常に不安定な地域にある。積極的な意味で周囲の国々から差別化でき、自分を守ることのできる政府や国民がいなければ、シンガポールは存続できないだろう」「欧米の民主主義は必ずしもよい統治機構や安定、繁栄につながらない」と断言し、政治的な異論を受けつけなかった。

シンガポールが生き残り、「アジアNIESの優等生」として繁栄するようになっても、彼の権威主義的な政治手法はあまり変わっていない。2011年総選挙キャンペーン期間の終盤、リーは野党優勢といわれたグループ選挙区で「野党が勝利したら、この選挙区の人びとは5年間ずっと後悔して暮らすことになろう」と脅しめいた演説をして、ひんしゆくを買った。

法立から50年を迎える2015年3月、彼は91歳で死去した。国葬までの6日間、国会議事堂に安置された彼の棺に哀悼の意を捧げた人、あるいは全国各地に置かれた祭壇で手を合わせた人は、のべ140万人にものばった。シンガポールの4人に1人が訪れたことになる。長い列に何時間も並んで哀悼の意を捧げた人の中には、彼の統治のやり方を快く思っていない人も多かっただろう。しかし、小国シンガポールに繁栄と安定をもたらした人物として、人々はそれぞれの政治的立場を超えて、彼の存在には一目置いていた。140万もの人々は、「長い間ご苦労様でした」と彼に最後の別れを告げたのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 未唯が母親に... 死のほんとうの顔 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。