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死ぬのは私だ

『死んだらどうなるのか?』より 死ぬのは私だ 私とは誰か
主観的視点は一つだけ
 T先生 主観的視点というのは不思議な存在の仕方をしている。
 Qさん 前、物質一元論について議論したときに、脳の中の同じ一つの活動が、主観的視点(内側からの視点・一人称の視点)からは「うれしいという感情」として見えて、客観的視点(外側からの視点・二人称の視点)からは「電気や化学物質の流れ」として見える。私はこういうふうに考えました。
 T先生 そうだったね。自分の感情・思考・記憶・欲求などは主観的視点から意識される。たとえば、自分が今「うれしい」という感情を持っていることが意識される。主観的視点は本人だけが持っている視点であって、他人に対しては隠されている。といっても、主観的視点は「空間的内部に隠されている」という意味で、他人に対して隠されているわけではない。だから、主観的視点は「脳の空間的内部」にあるのではない。これらのことが確認されたね。
 Qさん 結局、主観的視点の存在論的身分については未解決なままで、「脳内の電気や化学物質の流れ」と「うれしいという感情」の関係も未解決なままでした。
 T先生 そうだったね。しかし、今「二人ののび太君」をめぐって問題になっている「主観的視点の存在の不思議さ」は、また別の問題なんだ。
 Qさん どんな問題ですか。
 T先生 自分と他人の違いに関する問題だよ。
 Sくん 「自分と他人の違い」ですか?
 T先生 そう。主観的視点は他人に対して隠されているから、〈人間のび太〉と〈ロボットのび太〉は互いの視点を共有できないよね。
 Sくん そうです。
 T先生 〈人間のび太〉と〈ロボットのび太〉の間に起こることは、実は私たちの間で既に起こっている。
 Sくん どういうことですか?
 Qさん 「ここにT先生とS君とQがいる」という一つの事実をそれぞれ違った視点から見ているという点が同じだということですか。
 T先生 それとは別のことだよ。
 Qさん 何ですか。
 T先生 私たちは、「各自がそれぞれ主観的視点を持っている」というふうに、お互いのことを理解しているよね。
 Qさん そうです。ここまで、そういう前提で議論してきたと思います。
 T先生 しかし、「主観的視点」から見えるものとは、たとえば「私が感じているこの『うれしい』という感情」だ(感情だから「見える」というより「感じる」と言うべきかもしれないけれど)。そして、私が感じることができる感情は、私の感情だけだ。つまり、主観的視点は実は一つしかないんだ。だから、「各自がそれぞれ主観的視点を持っている」という言い方は、「主観的視点」の一番の特徴(一っしかなぃとぃうこと)を隠してしまう言い方なんだね。
 Qさん でも、「主観的視点は一つしかない」と私もS君もT先生も思っているんじやないですか。
 T先生 デカルトの「我あり」の議論を思い出してごらんよ。あのときQさんは「絶対に存在を否定できないのは、世界の中で私ただ一人だ」って言ってたよね。あの「世界の中で私ただ一人」というのが「主観的視点は一つしかいない」ということだよ。
 Qさん ああ、そうでした。思い出しました。
 T先生 自分が意識しているのはくこの主観的視点〉だけだ。〈他人の主観的視点〉を意識することは不可能だ。にもかかわらず、「各自がそれぞれ主観的視点を持っている」と私たちが普段言っているのは、理屈でそう思っているからだよ。
 Qさん 「他の人も主観的視点を持っている」というのは、ただの理屈だということですか。
 T先生 「理屈」ではなく「人間の生活に深く根ざした信念」と言った方がよかったかな。いずれにしても、これに対して、「自分はくこの主観的視点〉を意識している」というのは理屈でも信念でもない。
 Sくん 理屈でも信念でもなかったら、何ですか。
 T先生 事実さ。自分の場合だけ、主観的視点の存在を意識している。そして、意識のあるところにしか主観的視点は存在しない。つまり、主観的視点は一つしか存在しない。
 Qさん 主観的視点はIつしかない……。当たり前のような、とんでもなく不合理なような……。
言葉の限界
 Qさん 不思議です。「主観的視点は一つしかない」と私が考えるとき、確かにそういう気がします。でも、すぐに、きっと他の人も同じように「主観的視点は一つしかない」と考えているだろうなという気がしてきます。でも、みんながそう考えていたら、一つしかないはずの「主観的視点」が複数あることになります。それは矛盾です。
 T先生 そうだね。私たちは「主観的視点」についていろいろ話してきたけど、そのとき、まるで「主観的視点」について一般的に考えることができるような前提で話し合ってきた。つまり、「複数の主観的視点が存在する」ということを暗黙の前提にしていた。本当は「主観的視点」は一つしかないのにね。
 Qさん [主観的視点]という言葉を使うことが矛盾を引き起こしているんじゃないでしょうか。
 Sくん じやあ、僕たちは矛盾したことをずっと話してきたということ?
 T先生 哲学では「言葉の限界」の間際で議論するということがときどき起こるんだ。
 Sくん 「言葉の限界」ですか?
 T先生 そう。ある思考内容を言葉にしようとすると、その言葉が思考内容を裏切ってしまう。しかし、不思議とその思考内容は伝わる。そんな場面があるんだよ。
 Qさん 必ず伝わるんですか?
 T先生 いや、そうとは限らない。伝わる場合もあれば、伝わらない場合もある。料理のレシピみたいなものだ。レシピは料理そのものとは別だよね。
 Sくん それはそうです。レシピをいくら読んでも、味は分かりません。
 T先生 しかし、レシピに従って料理を作って食べてみれば、味は分かる。
 Qさん 哲学の言葉も料理すれば伝わるということですか。
 T先生 哲学の場合、「料理する」というのは、「自分の経験に照らして自分の頭で考える」ということだ。「主観的視点」という言葉もレシピにすぎない。この言葉を自分の経験に照らして自分の頭で考えれば、この言葉によって表現されようとしていた思考内容が分かることもある。もっとも、レシピを読んで作っても料理に失敗することもあるよね。その場合は、伝わらなかったということだ。
 Qさん でも、哲学をするとき、「自分の経験に照らして自分の頭で考える」ということをしない人がいるんですか。
 T先生 いるよ。料理しないでレシピだけを大量に頭に詰め込んでいる人がいるよ。哲学研究者の中にもいる。
 Qさん そうなんですか。
 T先生 残念ながら、そうだね。
死ぬのは私だ
 Sくん のび太君みたいに僕が二人になった場合、僕にとっての「自分の死」と、僕にとっての「もう二人のSの死」とはまったく別のことですよね。
 T先生 そうだね。自分の死は「主観的視点が消滅すること」だ。他人の死は(それがたとえ「もう一人のs」であろうと)この唯一の視点とは関係がない。
 Sくん とすれば、僕が死ぬとき、「死ぬのはSだ」というより、むしろ、「死ぬのは僕だ」ということになりますか。
 T先生 「僕」という語が「主観的視点」を意味している限り、そうなる。
 Qさん 私(唯一の主観的視点)が誰であろうと(つまり、〈この視点〉がどの人物から開けていようと)、死ぬのは私。つまり、死とは、「世界がそこから開けている唯一の視点が消滅してしまうこと」。こうなりますか。
 T先生 そうなるね。
 Qさん 私が誰であろうと、死ぬのは私。でも、そうすると、死ぬ私とは一体誰なんですか。
 T先生 誰だろうね……。私は、あるとき、自問自答したことがあった。「なぜ死ななければならないのだ。生まれてきたからか」「生まれてこなかったら死ななくてすんだのか」「では、生まれてきたこの私とは一体誰なのか。いずれ消滅するこの私とは一体誰なのか」。こんなふうにね。
 Sくん 自問自答して、答えは出ましたか。
 T先生 いや、出なかったよ。死(「死神」と言った方が分かりやすいかな)に向かって私は詰問した。「私が消滅することなどありえない」。そしたら言い返された。「なぜありえないと言えるのだ」「私の知っている『私』は消滅するようなものではないのだ」「お前はお前自身が何者であるのかを知らないのだ」。こんな会話をしたよ。
 Qさん 結局、答えは出なかったんですね。
 T先生 ああ、出なかった。
 Qさん そうですか……。この問題について考える上で参考になる本はありますか。
 T先生 「唯一の私」について哲学者の永井均(一九五一~)がいくつも本を書いている。読んでごらんよ。
 Qさん でも、それらの本もレシピにすぎないんですよね。
 T先生 もちろんだ。レシピとして読まないと理解できないよ。

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