未唯への手紙
未唯への手紙
デトロイト破綻 街はなぜスラムとなったのか
『世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠』より デトロイト破綻からの間違った教訓
デトロイト市の深刻な問題は、市内だけに見受けられる問題である。近郊の都市圏に範囲を広げれば、豊かな経済活動が観察されるのだ。ブルームフィールドヒルズのような近郊地域では、世帯収入の中央値が一二万五〇〇〇ドルを超えているし、デトロイトから車で四五分のアナーバーは、ミシガン大学を中核として、研究と知識を生みだす世界有数の街を築きあげている。
デトロイトの苦悩が生まれた一因をたどると、アメリカの分断された経済と社会が示す特徴に行きつく。社会学者のショーン・F・リアドンとケンドラービショフが指摘したとおり、アメリカは経済面での隔離がきわめて大きくなってきている。この状況は、人種隔離よりも破滅的な結果を招きかねない。裕福な(ほとんど白人ばかりの)エリートが郊外の居留地に引きこもる、という鮮やかな実例を示してくれるのがデトロイトだ。外との交流を避けたがる姿勢には、彼らなりの正当な理由がある。裕福でない隣人たちのために、地元の公共財と公共サービスの資金を負担したくないから、そして、社会経済的地位の低い家庭の子供たちが通う学校に、自分たちの子供を通わせたくないからだ。
不平等が自己増幅していく流れは、とりわけ教育の分野で目立っており、社会の上層へのぼるのをますます困難にしている。貧困地区の学校はどんどん劣化し、金持ちの親たちは豊かな地区へ転出していく。そして、現世代だけでなく次世代でも、さらに格差は広がりつづけるのだ。
絲済力の差から生じる居住地の隔離は、大人のあいだの不平等をも拡大させる。貧困者はどんどん雇用が減っていき、自宅から遠く離れた場所で低賃金のパートタイム職にありつかなければならない。こうした市の無秩序な拡大と、不充分な公共輸送機関が組み合わさると、労働者の街を、人口が減少したスラム街へ変えるための土台ができあがる。
計画性のない都市のスラム化から発生する問題に加え、デトロイト都市圏は政治上の管轄区によって分断されている。貧困層は地理的にも政治的にも、スラム街に閉じ込められたのだ。この結果、市の中心部に資源不足の貧しい隔離地区ができあがってしまった。追い討ちをかけるように、税基盤の中核をなしていた工場群が閉鎖されていった。
破産法第九章による地方公共団体の破産保護申請を決断したのは、ケヅィン・D・オアだった。彼は市の財政を取り仕切るべく、選挙を経ずに、共和党のリック・スナイダー州知事から緊急財政管理官に指名された。民主党のディヴ・ビング市長は、二期目への挑戦をしないと決断しており、市の将来--と累積債務--が法廷で論じられているときも、市の役人たちと事態を傍観していた。だから、州知事によるオアの指名は意外でも何でもなかった。
トーマス・J・サグルーなどの歴史学者が実証してきたとおり、デトロイトが崩壊する前には、社会福祉政策と人種にかんする衝突(一九六七年の暴動を含む)があり、製造業の空洞化と、人種差別と、地理的孤立の芽が出はじめていた戦後期にまでさかのぼることができる。要するに、わたしたちは自らまいた種を数十年ぶりに刈り取らされたわけだ。
デトロイト都市圏内には政治的連携が存在しないため、貧しい市中心部と豊かな郊外のあいだに、インフラと公共サービスを整備するというしくみも存在していない。貧困層は手持ちの資源に頼るしかないが、もちろんそれだけでは不充分だ。車は故障し、バスは遅れ、労働者は〝いいかげん〟のレッテルを貼られる。しかし、本当にいいかげんなのは、デトロイトの不公正な都市設計なのだ。
地方レベルでデトロイトを破滅させた歪んだ優先順位は、連邦政策のレペルでも同じような失政をくり返している。どんな国家でもどんな社会でも、上昇する地域や産業があれば、下降する地域や産業もある。しばらく前からシリコンヴァレーは、アメリカの輝く星の座についている。一〇〇年前は中西部の北側がその地位にあった。しかし技術進歩とグローバル化により、中西部は比較優位性を失い、世界の製造業の中心からすべり落ちていった。理由はよく知られているので、あえてここでは説明しない。しかしながら、復活を市場任せにしてうまくいった試しは少ない。
アメリカ政府は数十年のあいだ、変化する経済環境に断固たる態度で対処せず、ほかの産業の成長を促す有用な政策もとらず、ただ弱体化する経済の糊塗に力を注ぎ、金融セクターが狂ったようにバブル頼りの〝成長〟を創りあげていくのを許してきた。アメリカは市場の行く末を傍観していたわけではない。むしろ積極的に、短期的利益と大規模な非効率性を選んだのだ。
製造業がアメリカ経済の中心からはずれたのは、構造変化上の必然という面もあっただろう。しかし、変化にともなう無駄や、痛みや、都市住民の絶望は必然ではなかった。代わりに、富の保全と不平等の是正を図りつつ、移行をソフトランディングさせる政策は存在したのだ。デトロイトから四時間の距離にあるピッツバーグも、〝白人の郊外脱出〟と格闘してきた。だが、ピッツバーグはいち早く、鉄鋼と石炭に依存する経済から脱却し、教育と医療と法律・金融サービスを重視する方向へ舵を切った。一世紀以上、イギリス繊維産業の中心地だったマンチェスターは、教育と文化と音楽の中心地に変貌してきた。
アメリカ政府も都市再生プログラムを持っているが、共同体の維持や修復ではなく、建築物の復旧や高級化に主眼が置かれている。アメリカの労働者たちは、勝者が敗者に補償するという約束のもと、〝自由〟貿易政策をまんまと売りつけられた。そして、敗者はいまだに補償を待っているのである。
デトロイト市の深刻な問題は、市内だけに見受けられる問題である。近郊の都市圏に範囲を広げれば、豊かな経済活動が観察されるのだ。ブルームフィールドヒルズのような近郊地域では、世帯収入の中央値が一二万五〇〇〇ドルを超えているし、デトロイトから車で四五分のアナーバーは、ミシガン大学を中核として、研究と知識を生みだす世界有数の街を築きあげている。
デトロイトの苦悩が生まれた一因をたどると、アメリカの分断された経済と社会が示す特徴に行きつく。社会学者のショーン・F・リアドンとケンドラービショフが指摘したとおり、アメリカは経済面での隔離がきわめて大きくなってきている。この状況は、人種隔離よりも破滅的な結果を招きかねない。裕福な(ほとんど白人ばかりの)エリートが郊外の居留地に引きこもる、という鮮やかな実例を示してくれるのがデトロイトだ。外との交流を避けたがる姿勢には、彼らなりの正当な理由がある。裕福でない隣人たちのために、地元の公共財と公共サービスの資金を負担したくないから、そして、社会経済的地位の低い家庭の子供たちが通う学校に、自分たちの子供を通わせたくないからだ。
不平等が自己増幅していく流れは、とりわけ教育の分野で目立っており、社会の上層へのぼるのをますます困難にしている。貧困地区の学校はどんどん劣化し、金持ちの親たちは豊かな地区へ転出していく。そして、現世代だけでなく次世代でも、さらに格差は広がりつづけるのだ。
絲済力の差から生じる居住地の隔離は、大人のあいだの不平等をも拡大させる。貧困者はどんどん雇用が減っていき、自宅から遠く離れた場所で低賃金のパートタイム職にありつかなければならない。こうした市の無秩序な拡大と、不充分な公共輸送機関が組み合わさると、労働者の街を、人口が減少したスラム街へ変えるための土台ができあがる。
計画性のない都市のスラム化から発生する問題に加え、デトロイト都市圏は政治上の管轄区によって分断されている。貧困層は地理的にも政治的にも、スラム街に閉じ込められたのだ。この結果、市の中心部に資源不足の貧しい隔離地区ができあがってしまった。追い討ちをかけるように、税基盤の中核をなしていた工場群が閉鎖されていった。
破産法第九章による地方公共団体の破産保護申請を決断したのは、ケヅィン・D・オアだった。彼は市の財政を取り仕切るべく、選挙を経ずに、共和党のリック・スナイダー州知事から緊急財政管理官に指名された。民主党のディヴ・ビング市長は、二期目への挑戦をしないと決断しており、市の将来--と累積債務--が法廷で論じられているときも、市の役人たちと事態を傍観していた。だから、州知事によるオアの指名は意外でも何でもなかった。
トーマス・J・サグルーなどの歴史学者が実証してきたとおり、デトロイトが崩壊する前には、社会福祉政策と人種にかんする衝突(一九六七年の暴動を含む)があり、製造業の空洞化と、人種差別と、地理的孤立の芽が出はじめていた戦後期にまでさかのぼることができる。要するに、わたしたちは自らまいた種を数十年ぶりに刈り取らされたわけだ。
デトロイト都市圏内には政治的連携が存在しないため、貧しい市中心部と豊かな郊外のあいだに、インフラと公共サービスを整備するというしくみも存在していない。貧困層は手持ちの資源に頼るしかないが、もちろんそれだけでは不充分だ。車は故障し、バスは遅れ、労働者は〝いいかげん〟のレッテルを貼られる。しかし、本当にいいかげんなのは、デトロイトの不公正な都市設計なのだ。
地方レベルでデトロイトを破滅させた歪んだ優先順位は、連邦政策のレペルでも同じような失政をくり返している。どんな国家でもどんな社会でも、上昇する地域や産業があれば、下降する地域や産業もある。しばらく前からシリコンヴァレーは、アメリカの輝く星の座についている。一〇〇年前は中西部の北側がその地位にあった。しかし技術進歩とグローバル化により、中西部は比較優位性を失い、世界の製造業の中心からすべり落ちていった。理由はよく知られているので、あえてここでは説明しない。しかしながら、復活を市場任せにしてうまくいった試しは少ない。
アメリカ政府は数十年のあいだ、変化する経済環境に断固たる態度で対処せず、ほかの産業の成長を促す有用な政策もとらず、ただ弱体化する経済の糊塗に力を注ぎ、金融セクターが狂ったようにバブル頼りの〝成長〟を創りあげていくのを許してきた。アメリカは市場の行く末を傍観していたわけではない。むしろ積極的に、短期的利益と大規模な非効率性を選んだのだ。
製造業がアメリカ経済の中心からはずれたのは、構造変化上の必然という面もあっただろう。しかし、変化にともなう無駄や、痛みや、都市住民の絶望は必然ではなかった。代わりに、富の保全と不平等の是正を図りつつ、移行をソフトランディングさせる政策は存在したのだ。デトロイトから四時間の距離にあるピッツバーグも、〝白人の郊外脱出〟と格闘してきた。だが、ピッツバーグはいち早く、鉄鋼と石炭に依存する経済から脱却し、教育と医療と法律・金融サービスを重視する方向へ舵を切った。一世紀以上、イギリス繊維産業の中心地だったマンチェスターは、教育と文化と音楽の中心地に変貌してきた。
アメリカ政府も都市再生プログラムを持っているが、共同体の維持や修復ではなく、建築物の復旧や高級化に主眼が置かれている。アメリカの労働者たちは、勝者が敗者に補償するという約束のもと、〝自由〟貿易政策をまんまと売りつけられた。そして、敗者はいまだに補償を待っているのである。
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