未唯への手紙
未唯への手紙
人口はどのように増加してきたか?
『私たちの国際経済』より 人口と食料
□食料が「なくても」増える、「あっても」増えない
それでは、今日まで、世界の人口は実際に、どのように増加してきたのでしょうか。マルサスの悲観的な見通しは正しかったといえるのでしょうか。
皆さんが高校で学習したように、近年、世界人口は急激に増加し、また増加し続けています。国連の推計によると、世界の人口が10億人に達したのは1800年代の初めでした。人口がさらに10億人増えて20億人に達したのはそれから100年以上たった1927年でした。ところが、またさらに10億人増えて30億人になったのは、わずか32年後の1959年です。そして2000年には、さらにその倍の60億人を超えたのです。まさにマルサスのいう「幾何級数的」人口増加ではないでしょうか。
しかし、ちょっと注意してみると、おかしなことに気づきます。人口の増加は地域によって大きな差があります。日本のような先進国では人口の増加率が低く、国によっては人口がむしろ減少し始めています(日本の人口も、21世紀の半ばには、およそ1億人にまで減少すると予測されています)。これに対し、発展途上国の人口増加率は一般に高いものになっています。マルサスは、食料がある限り人間の本能的な日青熱」によって、人口は「幾何級数的」に増加するといいました。しかし、皮肉なことにむしろ食料の乏しい途上国で人口は急速に増え、食料のあり余っている先進国では人口はあまり増えていないのです。このことから、人口の増加を制限する要因として食料だけを考えるのは、不十分な考えだということがわかります。
□人口転換
今日、人口があまり増えていない先進国も、歴史のある時点では急速な人口増加を経験してきました。たとえば、明治の初めの日本の人口はおよそ3300万人ほどでしたが、その後の日本の経済的発展の過程で人口は増え続け、今日の1億2500万人を超える数にまで増えてきたのです。
それでは、人口が増えたり減ったりするということは、どのように考えたらよいのでしょうか。たぶん「風呂桶の水」の例を考えるとわかりやすいと思います。風呂桶の水が増えるのは、水が水道の蛇口などから入ってくるからです。風呂桶の水が減るのは、桶の底の排水口から水が流れ出すからです。赤ん坊が生まれたり、人が死んだりするのは、水が入ってきたり、出て行ったりするのに似ています。風呂桶の水と同じように人口が増えるのは「入る(生まれる)人」が、「出る(死ぬ)人」より多い場合です。
多くの先進国における人口の歴史を観察してみると、「入る人」の割合にれを「出生率」といいます)と「出る人」の割合にれを「死亡率」といいます)の変化に一定のパターンがみられます。人口が増えも減りもしない状態では、「入る人」と「出る人」の割合は同じです。すなわち、出生率と死亡率は同じです。しかし、一般に経済が発展し始めると、最初に死亡率が低下し始めます。出生率は以前と同じ水準にあり、死亡率だけが低下するのですから、「入る人」は同じで「出る人」が減り、人口は増えることになります。しかしやがては、出生率も低下し始めます。そして、先に低下した死亡率に出生率が追いつくと、「入る人」と「出る人」の割合は再び同じになり、人口増加は止まります。さらに、これ以上出生率が低下すると、ちょうど21世紀の日本のように、人口は減ってゆくことになります。
以上のような出生率と死亡率の変化の歴史的なパターンを全体としてみると、最初は生まれる人の割合も死ぬ人の割合も、両方が高い多産多死の状態です。死亡率が低下し始めると、多産少死の状態になって、人口が増加します。そして再び出生率が低下して死亡率に追いつくことで、少産少死の状態になり、人口増加は止まります。人口の歴史的変化のこのようなパターンは、人口転換と呼ばれます。
□出生率はなぜ低下するか?
出生率の低下については、本当のところ、よくわからないことがたくさんあります。たしかに皆さんのご両親に、「なぜもっとたくさん子どもを産まなかったのか」と質問すれば、考えられる限りの直接的な理由の多くがわかると思います。でも、社会的な観点からより重要な問題は、どのような経済的・社会的な条件のもとで、出生率が低下するかということです。
出生率の低下に関する多くの経済学者の回答は、おそらく「所得水準の上昇にともない、子どもをより多くもつことの『便益』は減少し、『費用』は上昇する」といったものでしょう。このような考え方についてはこれ以上立ち入りませんが、参考文献をあげておきますので、興味のある方は読んでみてください(加藤久和[2007],『人口経済学』日本経済新聞社)。以下では、より具体的で、より複雑な社会を考えてみましょう。
まず、本当はたくさんの子どもが欲しくはないのに、出産を制限するための十分な知識や手段がないのであれば、知識や手段が容易に手に入るようになることで、出生率は低下するはずです。また、出産はとりわけ女性に大きな肉体的・精神的負担をかけますが、子どもを実際に産むかどうかを決定する権利が、女性には認められていない社会が多く存在します。そのような場合には、女性の社会的、経済的、政治的な地位が高まることが、出生率の低下に結びつくかもしれません。
しかし、もっとむずかしいのは、人びとが本当にたくさんの子どもを欲しがっている場合です。たとえば、子どもが成人になる前に死亡する率が高い国では、両親は当然、子どもの死亡という万一の不幸に備えて、実際に欲しいと考えるよりも多くの子どもを出産するでしょう。そのような社会では、子どもの医療や衛生状況を改善し子どもたちの死亡率を低下させることが、出生率を低下させ、むしろ人口の急増をおさえることになるかもしれません。また、多くの途上国では、子どもは小さいときから働いて家族に収入をもたらし、年老いた両親を経済的に支えることが期待されています。このような場合には、子どもの働きがなくてもやっていける十分な収入を両親が確保できるようになり、老後の社会保障の制度が整備されることで、出生率が低下するようになるでしょう。さらに子どもが働くよりも学校に行く方が有利な社会になれば、経済的な支えとして子どもをもつ意味は少なくなります。
しかし、最後の難問は、人間の「価値観」に直接かかわる問題です。たとえば、日本ではあまり問題にならないかもしれませんが、いくつかの宗教では、避妊や中絶を認めない場合があります。皆さんは、国や社会が、そのような信念をもつ人びとに「国家(あるいは民族・人類)のため」といった理由でならば、出産の制限を強く勧めたり、強制したりしてもよいと考えます
□食料が「なくても」増える、「あっても」増えない
それでは、今日まで、世界の人口は実際に、どのように増加してきたのでしょうか。マルサスの悲観的な見通しは正しかったといえるのでしょうか。
皆さんが高校で学習したように、近年、世界人口は急激に増加し、また増加し続けています。国連の推計によると、世界の人口が10億人に達したのは1800年代の初めでした。人口がさらに10億人増えて20億人に達したのはそれから100年以上たった1927年でした。ところが、またさらに10億人増えて30億人になったのは、わずか32年後の1959年です。そして2000年には、さらにその倍の60億人を超えたのです。まさにマルサスのいう「幾何級数的」人口増加ではないでしょうか。
しかし、ちょっと注意してみると、おかしなことに気づきます。人口の増加は地域によって大きな差があります。日本のような先進国では人口の増加率が低く、国によっては人口がむしろ減少し始めています(日本の人口も、21世紀の半ばには、およそ1億人にまで減少すると予測されています)。これに対し、発展途上国の人口増加率は一般に高いものになっています。マルサスは、食料がある限り人間の本能的な日青熱」によって、人口は「幾何級数的」に増加するといいました。しかし、皮肉なことにむしろ食料の乏しい途上国で人口は急速に増え、食料のあり余っている先進国では人口はあまり増えていないのです。このことから、人口の増加を制限する要因として食料だけを考えるのは、不十分な考えだということがわかります。
□人口転換
今日、人口があまり増えていない先進国も、歴史のある時点では急速な人口増加を経験してきました。たとえば、明治の初めの日本の人口はおよそ3300万人ほどでしたが、その後の日本の経済的発展の過程で人口は増え続け、今日の1億2500万人を超える数にまで増えてきたのです。
それでは、人口が増えたり減ったりするということは、どのように考えたらよいのでしょうか。たぶん「風呂桶の水」の例を考えるとわかりやすいと思います。風呂桶の水が増えるのは、水が水道の蛇口などから入ってくるからです。風呂桶の水が減るのは、桶の底の排水口から水が流れ出すからです。赤ん坊が生まれたり、人が死んだりするのは、水が入ってきたり、出て行ったりするのに似ています。風呂桶の水と同じように人口が増えるのは「入る(生まれる)人」が、「出る(死ぬ)人」より多い場合です。
多くの先進国における人口の歴史を観察してみると、「入る人」の割合にれを「出生率」といいます)と「出る人」の割合にれを「死亡率」といいます)の変化に一定のパターンがみられます。人口が増えも減りもしない状態では、「入る人」と「出る人」の割合は同じです。すなわち、出生率と死亡率は同じです。しかし、一般に経済が発展し始めると、最初に死亡率が低下し始めます。出生率は以前と同じ水準にあり、死亡率だけが低下するのですから、「入る人」は同じで「出る人」が減り、人口は増えることになります。しかしやがては、出生率も低下し始めます。そして、先に低下した死亡率に出生率が追いつくと、「入る人」と「出る人」の割合は再び同じになり、人口増加は止まります。さらに、これ以上出生率が低下すると、ちょうど21世紀の日本のように、人口は減ってゆくことになります。
以上のような出生率と死亡率の変化の歴史的なパターンを全体としてみると、最初は生まれる人の割合も死ぬ人の割合も、両方が高い多産多死の状態です。死亡率が低下し始めると、多産少死の状態になって、人口が増加します。そして再び出生率が低下して死亡率に追いつくことで、少産少死の状態になり、人口増加は止まります。人口の歴史的変化のこのようなパターンは、人口転換と呼ばれます。
□出生率はなぜ低下するか?
出生率の低下については、本当のところ、よくわからないことがたくさんあります。たしかに皆さんのご両親に、「なぜもっとたくさん子どもを産まなかったのか」と質問すれば、考えられる限りの直接的な理由の多くがわかると思います。でも、社会的な観点からより重要な問題は、どのような経済的・社会的な条件のもとで、出生率が低下するかということです。
出生率の低下に関する多くの経済学者の回答は、おそらく「所得水準の上昇にともない、子どもをより多くもつことの『便益』は減少し、『費用』は上昇する」といったものでしょう。このような考え方についてはこれ以上立ち入りませんが、参考文献をあげておきますので、興味のある方は読んでみてください(加藤久和[2007],『人口経済学』日本経済新聞社)。以下では、より具体的で、より複雑な社会を考えてみましょう。
まず、本当はたくさんの子どもが欲しくはないのに、出産を制限するための十分な知識や手段がないのであれば、知識や手段が容易に手に入るようになることで、出生率は低下するはずです。また、出産はとりわけ女性に大きな肉体的・精神的負担をかけますが、子どもを実際に産むかどうかを決定する権利が、女性には認められていない社会が多く存在します。そのような場合には、女性の社会的、経済的、政治的な地位が高まることが、出生率の低下に結びつくかもしれません。
しかし、もっとむずかしいのは、人びとが本当にたくさんの子どもを欲しがっている場合です。たとえば、子どもが成人になる前に死亡する率が高い国では、両親は当然、子どもの死亡という万一の不幸に備えて、実際に欲しいと考えるよりも多くの子どもを出産するでしょう。そのような社会では、子どもの医療や衛生状況を改善し子どもたちの死亡率を低下させることが、出生率を低下させ、むしろ人口の急増をおさえることになるかもしれません。また、多くの途上国では、子どもは小さいときから働いて家族に収入をもたらし、年老いた両親を経済的に支えることが期待されています。このような場合には、子どもの働きがなくてもやっていける十分な収入を両親が確保できるようになり、老後の社会保障の制度が整備されることで、出生率が低下するようになるでしょう。さらに子どもが働くよりも学校に行く方が有利な社会になれば、経済的な支えとして子どもをもつ意味は少なくなります。
しかし、最後の難問は、人間の「価値観」に直接かかわる問題です。たとえば、日本ではあまり問題にならないかもしれませんが、いくつかの宗教では、避妊や中絶を認めない場合があります。皆さんは、国や社会が、そのような信念をもつ人びとに「国家(あるいは民族・人類)のため」といった理由でならば、出産の制限を強く勧めたり、強制したりしてもよいと考えます
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