未唯への手紙
未唯への手紙
民主主義と未来
『デモクラシーの世界史』より 民主主義の歴史を民主化する
しかしながら、そうした不安を越えたところに本書の中心的テーマがある。民主主義それ自体が変化に富む、適応可能な有機体であると示すことだ。五大陸で五千年以上にわたって、小さな村から国家まで、バッフアローハントのような集団行動からイスラームのフェミニストまで、民主主義はさまざまな方法で、多くは生産的な形で機能してきたことがわかる。このおおいなる多様性の中から人々が民主主義を「所有」しているという感覚を引き出すことにより、抑圧された人々に闘争を促し、社会の連帯と平等の達成を手助けできると実感している。人々に自分たちの社会固有の伝統と土着の文化に目を向けるように促し、民主主義の精神を体現した瞬間、習慣や慣習、伝統や物語を取り戻すことを手助けしたい。民主主義の形態の幅広さに認識を広げることで、人々は民主的な習慣と民主主義をより広く宣伝する機会を深め、強化し、発達させる手段を得るだろう。
民主主義の形態の多様さは、ひとつの理論だけで民主主義をとらえようとしている人々に折よく思い出させることができる。ひとつの選挙を別の選挙と、ひとつの選挙制度を別のものと、ひとつの国と別の国を比べて民主的な質を図ることによって厳格な基準を考案するほうがたしかに容易かもしれない。しかし、民主的な瞬間一つひとつが、人間の創造力と妥協の歴史の産物である。世論調査のデータの粗雑さや人間同士の相互関係と達成を学問モデルに収めようとするのは見当違いで、人々による政治の力の質的経験はそれよりもっと先へ進んでいる。民主主義がもたらす違いを祝福し、人々の民主主義の経験を評価するのは不可能だと悟り、彼らが民主主義を守り継続させるためなら驚くほどの闘いを繰り広げるものだと認めている理論家は賢明なのである。
各章から浮き彫りになるもうひとつのテーマは、世界中の国や社会が、外ではなく内に目を向ける必要があるということである。民主主義は単なる思想や制度ではない。人々がたがいにかかわり合う方法でもある。秘密の歴史の数々の重要な瞬間において--儒教哲学、アボリジニの儀式、アフリカの部族、シーア派アラブ人の抗議--人々が対立と決別するときにはいつも、文化と民主主義の感情的、ときには精神的な側面を考えることを重視していた。民主主義とその歴史の研究は、これまであまりにも合理性に集申し、結果ばかりを強調してきた。しかし人々の感性とそれが育ち発展する歴史的背景を理解することなしでは、市民に最も深く関係する問題を議題に乗せることはできない。実際的であることと個人的であることの間でバランスをとることで、民主主義を機能させるための中心におかれるべき共通の良識、集団の団結の基礎を見定める機会が見つかる。個人が他人の反応の中に自分の力とその限界を見いだすのは、この問題に取り組むためにわれわれが使う複雑で変化に富んだプロセスの中なのである。それを選ばなければ、残るのは聞くことを拒否し、交渉を否定し、仲間の人間の必要を無視するしかなく、そうすれば社会は蝕まれて暴力か独裁に終わる。
最後に、本書で論じられた民主的制度と時代背景は、古い民主主義の概念が新しい民主主義の改善に役立つものを含んでいると示唆している。民主主義の仕事はまだ完成からは程遠い。そして、刻々と変化する環境が民主主義を実践する新しい方法、過去について考える新しい方法を求めている。これまでの簡潔すぎる民主主義史を越え、より広範な力強い物語、すなわち脇に押しやられてきた運動、歴史、エピソードを加えた物語へと目を向ける差し迫った必要が生じている。現代人が民主主義の従来の物語をさらに広くとらえ、二十一世紀以降の人々がまた別のビジョンをもとに新しいルールを見つけるためには、まだ多くの学術的探求の余地が残されているのだ。
しかしながら、そうした不安を越えたところに本書の中心的テーマがある。民主主義それ自体が変化に富む、適応可能な有機体であると示すことだ。五大陸で五千年以上にわたって、小さな村から国家まで、バッフアローハントのような集団行動からイスラームのフェミニストまで、民主主義はさまざまな方法で、多くは生産的な形で機能してきたことがわかる。このおおいなる多様性の中から人々が民主主義を「所有」しているという感覚を引き出すことにより、抑圧された人々に闘争を促し、社会の連帯と平等の達成を手助けできると実感している。人々に自分たちの社会固有の伝統と土着の文化に目を向けるように促し、民主主義の精神を体現した瞬間、習慣や慣習、伝統や物語を取り戻すことを手助けしたい。民主主義の形態の幅広さに認識を広げることで、人々は民主的な習慣と民主主義をより広く宣伝する機会を深め、強化し、発達させる手段を得るだろう。
民主主義の形態の多様さは、ひとつの理論だけで民主主義をとらえようとしている人々に折よく思い出させることができる。ひとつの選挙を別の選挙と、ひとつの選挙制度を別のものと、ひとつの国と別の国を比べて民主的な質を図ることによって厳格な基準を考案するほうがたしかに容易かもしれない。しかし、民主的な瞬間一つひとつが、人間の創造力と妥協の歴史の産物である。世論調査のデータの粗雑さや人間同士の相互関係と達成を学問モデルに収めようとするのは見当違いで、人々による政治の力の質的経験はそれよりもっと先へ進んでいる。民主主義がもたらす違いを祝福し、人々の民主主義の経験を評価するのは不可能だと悟り、彼らが民主主義を守り継続させるためなら驚くほどの闘いを繰り広げるものだと認めている理論家は賢明なのである。
各章から浮き彫りになるもうひとつのテーマは、世界中の国や社会が、外ではなく内に目を向ける必要があるということである。民主主義は単なる思想や制度ではない。人々がたがいにかかわり合う方法でもある。秘密の歴史の数々の重要な瞬間において--儒教哲学、アボリジニの儀式、アフリカの部族、シーア派アラブ人の抗議--人々が対立と決別するときにはいつも、文化と民主主義の感情的、ときには精神的な側面を考えることを重視していた。民主主義とその歴史の研究は、これまであまりにも合理性に集申し、結果ばかりを強調してきた。しかし人々の感性とそれが育ち発展する歴史的背景を理解することなしでは、市民に最も深く関係する問題を議題に乗せることはできない。実際的であることと個人的であることの間でバランスをとることで、民主主義を機能させるための中心におかれるべき共通の良識、集団の団結の基礎を見定める機会が見つかる。個人が他人の反応の中に自分の力とその限界を見いだすのは、この問題に取り組むためにわれわれが使う複雑で変化に富んだプロセスの中なのである。それを選ばなければ、残るのは聞くことを拒否し、交渉を否定し、仲間の人間の必要を無視するしかなく、そうすれば社会は蝕まれて暴力か独裁に終わる。
最後に、本書で論じられた民主的制度と時代背景は、古い民主主義の概念が新しい民主主義の改善に役立つものを含んでいると示唆している。民主主義の仕事はまだ完成からは程遠い。そして、刻々と変化する環境が民主主義を実践する新しい方法、過去について考える新しい方法を求めている。これまでの簡潔すぎる民主主義史を越え、より広範な力強い物語、すなわち脇に押しやられてきた運動、歴史、エピソードを加えた物語へと目を向ける差し迫った必要が生じている。現代人が民主主義の従来の物語をさらに広くとらえ、二十一世紀以降の人々がまた別のビジョンをもとに新しいルールを見つけるためには、まだ多くの学術的探求の余地が残されているのだ。
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