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フランス革命・ナポレオン戦争の影響

『逆転のイギリス史』より
2つの戦争の相違
 1789年に発生したフランス革命は、やがてその影響をヨーロッパ各地に広げていった。この革命により、フランスの貿易は一時的にストップし、フランス経済は壊滅的打撃を受けた。ただし、ヨーロッパ全体で見ると、フランス国外の港が代替港として発展し、フランス革命による破壊的影響は、最小限に抑えられた。
 さらに、フランス革命戦争(1793~1802)とナポレオン戦争(1806~1815)がヨーロッパ経済に与えた影響には、大きな差があったことを指摘しておくべきであろう。前者は主としてオランダに、後者はおおむねハンブルクに決定的なまでの影響をおよぼした。
 1795~1806年に、オランダはフランス革命軍によって占領され、バタヴィア共和国となった。この時代に、ョーロッパ最大の海運国家は、オランダからイギリスヘと変った。多くの商人がアムステルダムから逃げ出し、その一部はハンブルクに居住した。ナポレオン戦争の影響に関しては、次のクルゼの言葉がきわめて重要な示唆をしている。
  「したがって、ナポレオン戦争がヨーロッパ大陸に与えた影響のバランスシートを作成すれば、以下のようになる。『海運』業が崩壊し、リネン産業が衰退し、主要である鉄工業が衰退し、羊毛・絹・第二位の金属産業が少し成長し、綿業が比較的スムーズに成長した。さらに、工業全体としては、ゆるやかに成長した。……(中略)……戦争の影響はイングランドより大陸に深刻な打撃を与えた」
 ここでイギリスに目を向ければ、十数年間にわたりヨーロッパ大陸が戦場になったので、イギリスがもっとも有利な投資先になったことが指摘されよう。島国であるイギリスは、ヨーロッパの投資先として一番安全な場所だったのである。それはまた、イギリスの工業化に大いに役立つことになった。
 フランス革命・ナポレオン戦争は、非常に費用がかさむ戦争であった。しかしもしこのような長期間ヨーロッパ大陸で戦争がなかったなら、イギリスに大量の資本が投下されることも、イギリスに大陸の商人が来ることもなかったかもしれないのだ。
 したがって資本・商人の両面から、イギリスにとって、少なくともヨーロッパ諸国と比較するなら、これらの戦争は、プラスの結果をもたらしたであろう。この時代、密輸はふつうにおこなわれており、イギリスに非合法的にやってきた商人も少なくなかったはずである。
新しいシステムを生み出したイギリス
 1806年に発せられた大陸封鎖令により、ナポレオンは、イギリスを経済的に封鎖しようとした。しかし、それには失敗に終った。イギリスの製造部門が、ウェリントンの大陸政策に影響を受け、消費財の輸出に重点をおく軽工業から、軍需品生産をおこなう重工業へ、中心を移すという結末になったにすぎず、結局、イギリスの工業化を促進したからである。
 さらに、イギリスにあった外国資本は、大陸封鎖令のために国内にとどまり、鉄・運河・港湾の改善・有料道路などに投資されることになった。オランダ人をはじめとするヨーロッパ大陸の人々はアムステルダムから資金を引き揚げ、イギリスの国債に投資したのである。
 ハンブルクの動向に目を向けると、フランス革命直前に、ハンブルクからフランスに向かう船舶数が著しく増大し、しかしフランス革命によって大きく減少する一方で、フランス革命期にハンブルクからイギリスに向かう船舶数が増加した。
 1795年にフランス革命軍によりオランダが占領されると、アムステルダムの貿易・金融市場は大きな打撃を受けた。そのためハンブルクは、アムステルダムの代替港として台頭することになったからだ。
 しかもハンブルクは、中立を利用して大きな利益を得た。1802年には、ロンドンにとって、ハンブルクがヨーロッパ大陸最大の取引相手先になる。ナポレオンの大陸封鎖令が施行された1806年には、イギリスからヨーロッパ大陸に向かう船舶のうち、ハンブルク行きが最大になった。
 しかし、フランス革命軍によるドイツ占領は、ハンブルクの貿易に大きな痛手となった。しかも大陸封鎖令により、中立国の船舶でさえイギリスと取引することが困難になった。
 1808年には、ナポレオン軍によって占領されたハンブルクの商人の多くがこの都市を離れ、中立国スウェーデン西岸の貿易都市イェーテボリに向かい、イェーテボリで目覚ましい商業ブームが起こった。ナポレオン戦争が長引けば、おそらく、アムステルダムからハンブルクに移住し、さらにイェーテボリヘと移った商人もいたことであろう。しかしナポレオン戦争が終わると、イェーテボリの役割は終わったのである
 ロンドンとハンブルクを比較すると、アムステルダムの後継者として、おそらくロンドンの方が若干有利な立場にあったろう。ただその違いは、絶対的といえるほどには大きくはなかったと思われる。少なくとも大西洋貿易で取引される商品の物流に関しては、ハンブルクは十分にロンドンと対抗しえた。ロンドンは、砂糖に関してはイギリスの植民地のものしか輸入できなかったが、ヨーロッパ最大の製糖所地帯であったハンブルクには、さまざまな国の砂糖が送られた。
 ハンブルクは、アムステルダムと同様、国境を越えたコスモポリタンな商人が集う都市であった。ハンブルクを中心とするシステムは、物流を中心として形成された。それに対しロンドンを中心とするシステムは、大英帝国の形成と関連していた。ロンドンは、首都から帝都になった。ハンブルクとロンドンの競争は、ナポレオン戦争が終了した1815年になってようやく、ロンドンの優位で決着がつく。経済活動に国家が強力に介入することが、イギリスに成功をもたらしたのである。
 1792年にはロンドンはアムステルダム金融市場に従属していたが、1815年にはアムステルダムがロンドンに従属するようになった。イギリス「帝国」のシステムの勝利に、あるいは、大英帝国の確立につながり、国家が中央集権化しなかったオランダとは異なるシステムが誕生するのである。それはまた、これ以前のヨーロッパには見られなかった形態のシステムであった。そのシステムの特徴は、1815年以降にさらに明らかになる。

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