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イスラーム アフラシアの結節点

『2100年の世界地図』より イスラーム
アフラシアの結節点
 アフラシアを束ねる根拠は、植民地支配を繰り返してはならないという認識である。そこで提示されるべきものは、西洋列強による植民地支配をふりかえったうえで、私たちは「他者の自由を奪わない」「寄生しない」「覇権を求めない」という歴史的な決意であり、知恵である。私たちは二二世紀に向かう百年の構想を考える。そうであれば同じ長さのスケールを用いて、過去の百年から教訓を得なければならない。そこで前章では、二〇世紀のアフリカとアジアの汎民族主義者の言説を紹介したのだった。
 二一世紀に入った同時代において反西洋のイデオロギー的な言説が最も強く語られているのは、イスラーム世界である。サミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』(一九九六年)において、ポスト冷戦時代には異なる文明の断層線において紛争が生じやすくなると指摘し、とりわけ西洋世界とイスラーム世界、儒教世界の対立を予告した。世界はこうなるという予言を受け入れた者が、その予言が求める通りに行動し、その結果として(実現するとは限らなかった)予言が実現してしまうことを「自己実現的予言」という。人間は信仰が違えば互いに信用できないという言説が繰り返し語られるほど、人々はそのような言説にとらわれて行動し、実際に宗教間の対立が深まってしまうかもしれない。
 冷戦時代には「安全保障のジレンマ」という現象が注目され、盛んにシミュレーションが行われていたものである。A国が新たなミサイルの配備を準備していると考えたB国は、自衛のためにミサイルの配備を準備する。その様子を見たA国は、B国の脅威に備えてミサイルを増強しようとする。それを見たB国がまた同じことをしようとする。こうして軍備増強と相互不信に歯止めがきかなくなり、偶発的な核戦争の危険が高まる。冷戦時代、大規模戦争を引き起こす当事者になりかねない核大国は、こうしたジレンマの構図をふまえ、軍拡に乗り出す反面で信頼醸成と戦略対話を積み上げる努力を重ねてきた。第二次世界大戦後、軍事対立の空間から自らを切断することで平和を維持してきた日本は、自らのプレイヤーとしての位置を客観視することに核大国ほどに慣れていないので、ポピュリズムに煽られて安全保障のジレンマを加速させる当事者になってしまう可能性がある。
 この「安全保障のジレンマ」の構図は、現在では西洋世界とイスラーム世界の間において典型的に見られるようになった。地域の住民を巻き込んだ相互不信の構図は、欧米社会からアフラシア社会にまで伝染しようとしている。その根底には、アフラシアの結節点である中東・北アフリカ世界が西洋世界の介入によって切り裂かれてしまったという状況がある。
 第一章で触れたように、歴史家トインビーの用語法では、アフラシアという言葉は、現在の中東・北アフリカを指すものであった。文明の揺藍の地であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという三大一神教が誕生したこの地は、第二次世界大戦以降、戦乱によって引き裂かれ続けている。一九四八年以降、イスラエルと周辺諸国は戦争を繰り返してきた。レバノンの内戦は一九七五年から一九九〇年まで続いた。七八年のイラン革命によって米国とイランの関係は著しく悪化し、そのイランとイラクは八〇年代に百万人以上の犠牲者を出す消耗戦を繰り広げた。アフガニスタン--地理的にはパキスタンの隣国として、南アジアに分類されることが多い--は七九年にソ連に占領され、二〇〇一年には米国などが地上軍を派遣した。イラクは大量破壊兵器を保有する嫌疑をかけられ、二〇〇三年にフセイン体制が崩壊した。二〇一一年にはリビアのカダフィー体制が崩壊し、シリアでは同年から、アサド体制のもとで激しい内戦が戦われた。すべての戦乱において多くの難民が生み出されてきた。
 この狭義のアフラシアの地においては、ソ連が崩壊した後も、西洋の大国が全面的に介入する暴力的紛争が終わらない。独裁的な体制が崩壊した後も政権は安定しない。世界が平和にならない限り、アフラシアは平和にならない。アフラシアの内発的な平和が実現すれば、世界には希望が見えるだろう。しかし、不安と怒りは伝染し、国境を越える。
アフラシアを結ぶ旅
 西洋の植民地支配によって分裂を余儀なくされたイスラーム世界の再興を願って活動した人物といえば、ジャマールッディーン・アフガーニーを忘れることはできない。一八三八年頃にイランとアフガニスタンが交わる地域に生まれ、一九世紀を生き抜いたアフガーニーは、汎イスラーム主義者だった。インド、トルコ、エジプト、イギリス、ロシアなどを精力的に旅したアフガーニーは、西洋文化がもたらす脅威について警鐘を鳴らすとともに、スンナ派とシーア派が団結し、非イスラームの民族主義者を味方につけることによって、帝国主義を効果的に撃退すべきだと説いた。狭義のアフラシア地域の植民地を解放する「共同戦線」をつくろうとしたのである。アフガーニーは合理的な科学を重視したが、彼が呼びかけたのは世俗的な民族主義ではなく、あくまでイスラームの刷新と団結であった。
 アフガーニーは、文明史家イブン・ハルドゥーンの著作を、よく読んでいたようである。イブン・ハルドゥーンは、一三三二年に北アフリカのチュニスで生まれたムスリムの総合的知識人である。イベリア半島で暮らしたあと、エジプトのカイロで学究生活を送ったハルドゥーンが念頭に置いていた世界は、まずもって北アフリカだった。北アフリカの地中海沿岸部には繁栄した商業都市が点在し、その内陸部では砂漠の遊牧民が暮らしている。この構図に親しく触れていたイブン・ハルドゥーンは、名著『歴史序説』において、より一般的な都市と後背地の関係性をめぐる社会学的な議論を展開した。彼が観察するところでは、都市は経済の原理、その後背地の砂漠は政治の原理で動いており、後者に属する「族的」集団が前者を周期的に征服してきた。そしてイスラームの教義は、遊牧民の政治と都市民の経済活動の双方に存在の根拠を与えることで、社会の均衡をもたらしてきた。イスラームは、共同体「内」よりも共同体「間」の関係を統御するネットワーク型の宗教として広がっていったのである。
 イブン・ハルドゥーンと同じ一四世紀に活躍したイブン・バットゥータは、イスラーム世界をくまなく周遊し、さらにその外部にまで精力的に足を伸ばした旅行家である。一三〇四年にモロッコで生まれた彼は、アラブ系ではなくベルベル系であった。イブン・バットゥータは、中東・北アフリカ、東アフリカのインド洋沿岸を巡り、南アジアに逗留した後、東南アジアから中国まで旅したとされる(ただし、中国の記録は伝聞の可能性がある)。訪問先の人間と文化を生き生きと記録したイブン・バットゥータは、晩年にはサハラ砂漠を縦断し、西アフリカの内陸部を訪れた。彼は、イブン・ハルドゥーンが濃厚な「血の結合」を見て取った砂漠の遊牧民たちの交易ルートを内陸へとたどり、現在のニジェール、マリ、モーリタニアを訪問している。
 マルコ・ポーロもそうであるが、この時代の旅行者たちは既存の交易ルートをなぞって旅をしているのであり、かれらの偉大さは旅をしたことそれ自体よりも、自分たちが見聞したことを生き生きと記録したところにある。イブン・バットゥータの旅行記は、一四世紀の広大なアフラシア世界の豊かな接続性を活写するものだった。イスラーム世界が当時のアフラシア世界の経済的、文化的な中心に位置していたことは明らかであるが、そのネットワークの周辺にはハイブリッドな精神世界が広がっていたことも伝わってくる。

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