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ハンナ・アーレントのメッセージ

『未来をはじめる』より

ハンナ・アーレント(一九〇六-一九七五)という二〇世紀の政治思想家です。最近、映画にもなったので、名前を聞いた人もいるかもしれません。『人間の条件』(ちくま学芸文庫)や『全体主義の起原』(みすず書房)といった著作を残しています。ユダヤ人である彼女は、ナチス・ドイツに追われてアメリカに亡命しました。結果として、彼女は全体主義を経験した二〇世紀という時代にあって、人間の生きる意味や政治の意義について考えました。アーレントの言葉には、とても印象深いものがたくさんあるので、そのうちのいくつかを紹介しますね。

1.「思考しないことが凡庸な悪を生む」

 アーレントの著書に『イェルサレムのアイヒマン--悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)という本があります。ナチス・ドイツでュダヤ人を大量虐殺したアドルフ・アイヒマンという人物の裁判記録です。逃亡したアイヒマンは南米アルゼンチンで捕まり、イスラエルで裁判が行われたのですが、アーレントはこの裁判をずっと傍聴しました。

 あのナチスで何百万人を殺した責任者です。どのような凶悪な人物だろうかと思いますよね。ところが、裁判でアイヒマンは、「いえ、私は上の人に指示されてやっただけです」「忠実に職務を実行しただけです」と繰り返すばかりでした。

 アーレントは考えます。世の中には巨大な悪がある。それを行うのは悪魔のような人物にちがいないと思いがちだけれど、実は違うのかもしれない。多くの場合、悪を実行する人間は、このアイヒマンのようにごくごく平凡な人だ。このような凡庸な人が思考を放棄したとき巨大な悪が生まれる。アイヒマンは感覚が麻痺した結果、自分のサインで多くの人が殺されることに何も感じなくなってしまった。そのために彼は、来る日も来る日も何も考えず、ただ書類にサインをしていった。その結果、何百万人ものュダヤ人が殺されたのだ、と。

 少しでも想像すれば、自分が何をしているのかわかったはずです。ところが、人はしばしば思考停止の状態に陥ります。凡庸な人が何も考えなくなるとき、巨大な悪を生み出すのです。これが二〇世紀の人類の経験でした。世の中には巨悪と言えるような人もいるかもしれないけれど、多くの場合、ごく普通の人が、どこか感覚が麻痺して思考停止に陥った結果、悪を生むのに加担してしまうのです。僕らだって思考をしなければ、何らかの悪に加担してしまう可能性だってあります。

2.「世界に住むのは一人ではなく、複数の人間である」

 次の言葉です。「世界に住んでいるのは一人の人間ではなく、複数の人間である」。政治とは何かを問われたアーレントは、そう答えました。人間は一人で生きているわけではない。世界はつねに複数の人間によって構成されているのです。

 複数のΛがいれば、意見が違うのは当たり前です。感覚が違う人、考え方が違う人、そもそも話の通じない人、世の中にはたくさんいますよね。逆にみんなが同じになっては、世界は死滅してしまいます。複数の、互いに異なる人間がいるからこそ世界があり、そこに政治が生まれるのです。世界に存在する多様な人間のあり方を否定するのは暴力です。複数の人が一緒に生きていこうとするのが政治であり、それが脅かされることで大量虐殺を繰り返したのが二〇世紀でした。

3.「人々が自由であるのは、人々が活動している限りである」

 みなさんは、自由というと、制約や拘束がなく、自分で好きなことができることだと思っているかもしれません。でも、アーレントに言わせれば、それは違います。彼女のキーワードは「活動」でした。活動とは、他の人と言葉を交わし、共に何かをすることです。もしそのような活動がなければ、あなたはいつまでも一人のままです。一人で孤立することが自由ではありません。むしろ他の人に声をかけ、共に何かをするとき、むしろ人は自由を感じるのです。独特な定義ですね。

4.「人間が生まれてきたのは始めるためである」

 僕が最も素敵だと思うのが、この言葉です。

 人間は何のために生まれてきたのか。この問いに対し、アーレントは「人間が生まれてきたのは始めるためである」と答えた。何かを始めること、プラグマティズムではありませんが、最初はささやかなことかもしれません。でも誰かと何かを始めなければ、世の中は変わっていきません。何かを始めて最終的に素晴らしい成果が生まれるかもしれないし、生まれないかもしれない。でもとにかく「始める」ために人間は生まれてきたとアーレントは言います。すてきな言葉ですよね。

 ハンナ・アーレントが生涯テーマにしていたのは政治でした。人間が自由になるためには、他の人と共に活動し、世界をつくっていくことが重要です。人間は何かを始めるために、生まれてきたのです。これからもみなさんが仲間と共に、新たな世界をつくっていくことに期待しています。

 これがこの講義の最後のメッセージです。どうもありがとうございました。
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