未唯への手紙
未唯への手紙
『写真週報』友好国イメージの強調と批判の封印
『「写真週報」とその時代』より 若く強きドイツ 友邦ナチス・ドイツ礼賛
昭和八(一九三三)年に国際連盟脱退を表明し、昭和一二(一九三七)年に日中戦争に突入して諸外国の強い非難を浴びていた日本にとって、同じく連盟脱退国であり、かつ防共協定締結国であるドイツとイタリアは、数少ない友好国であった。ドイツは当初こそ日中戦争に関して中立的であったが、昭和一三(一九三八)年二月に満洲国を承認し、また中国から軍事顧問団の撤退を開始し、アジアにおける日本支持の姿勢を明瞭にしつつあった。
内閣情報部はこうした状況において、新聞各社に対して「独伊に対しては出来得る限り好感を表明」するように内面指導を行っていた。実際、程度の差はあるものの、新聞各紙はみな親独的立場に立って報道を行っていた。『写真週報』においても、ドイツについては創刊号から終刊号までほぼ一貫して、友好的イメージで紹介されている。つまり、情報部は各新聞社に示した方針を自ら実践していたのである。
具体的に言えば、日独友好を強調するようなイペントがグラビア頁で積極的に取り上げられ、大きなスペースが割かれて紹介されている。例えば二五号(昭和コ二年八月三口)では、日独伊親善協会が開催した「防共盟邦親善富士登山」がグラビア四頁で報道された。ドイツ、イタリア、ハンガリー、スペイン、満洲国など親日国の外交関係者や留学生か、日本の大学生とともに富士山に登り友好を深める姿を取材したのである。日本のシンボルである富士の山頂に枢軸国の国旗(日独両国のものが目立つ)が翻る姿が大きな写真で掲載され、枢軸国の結束が強調されていた(撮影者は土門拳)。同号ではさらに「日独学生の勤労交腱」と題して、長野県諏訪郡の農村で東京帝大生とドイツ交換学生が協力して勤労奉仕を行う姿を、グラビアハ頁にわたって紹介した。この号は表紙・裏表紙あわせて全二四頁であるから、全体の半分が日独友好関連の写真記事で構成されたことになる。どちらのグラビアぷ小も、日独青年が共に汗を流して交流を深める姿を、美談として紹介していたのである。
また、四〇号(一一月一六日)では日独伊防共協定一周年記念国民大行進式をグラビアニ頁で紹介した。少女たちが日独伊の国旗を持ち行進する姿や、彼らを歓迎する独伊両国大使館員の姿が掲載されている。四三号(一二月七日)では、日独防共協定二周年記念国民大会における大観衆をグラビア一頁で紹介した。一一五号(昭和一五年五月八日)では、河口湖畔で開催された日独学徒大会の模様を掲載した。会場にドイツ国旗が掲げられる写真や、会議関係者が談笑する写真などがグラビアニ頁で掲載されている。以上のような関連イベントを取材し、グラビア記事で積極的に取り上げることによって、日独友好を演出したのである。
日独伊三国同盟成立直後発行の一三七号(一〇月九日)では、松岡洋右外相と独伊両大使が乾杯する写真の他、枢軸国側と連合国側で色分けした世界地図、独伊両国の歩みを紹介した組写真、独伊の国力データ一覧表、同盟や独伊事情に関する解説読み物などを掲載し、三国同盟の意義を強調するとともに日独伊の結束を強調する誌面作りを行った。その後、一五一号(昭和一六年一月一五日)では、「日独伊三国のお嬢さんを迎えたお正月」と題して、日本㈲家荒木十畝の娘のもとを独伊の外交官・武官の令嬢が訪れ、屠蘇を飲んだり羽子板で遊んだりする様子を表紙とグラビアニ頁で紹介した。これは、『写真週報』が取材し報道したというよりも、同誌グラビア記事のために企画されたイベントなのかもしれない。独伊の少女が日本の伝統的正月を体験する姿を紹介することによって、日本に理解のある友好国という独伊のイメージを定着させようとしたのであろう。先に紹介した、三人が日独伊政治指導者をかたどった飾り羽子板を持つ表紙写真には、当時の日本外交の方向性が分かりやすく表現されている。また一六七号(五月七日)の表紙は、ドイツの少年が日本の子供とともに鯉のぼりを揚げる姿であった。風になびく鯉のぼりの姿が、「若い希望、枢軸国の未来」を象徴しているのである。ここにも、日本の伝統行事にドイツ人を参加させることにより、ドイツの友好イメージを強調する姿勢が見られる。その他、一八○号(八月六日)では山中湖畔で開かれた日独学徒合同野営大会を紹介し、二四一号(昭和一七年一〇月七日)では在京ナチス婦人団が陸軍省に贈り物をしたことを美談的に報じた。
かくの如く、日独友好に関するイペントを美談としてグラビア頁で紹介することによって、日本の友好国としての対独イメージを強調し、視覚を通じてそのイメージを読者に植え付けようとしたのである。
一方、かかるイメージを傷つけるような報道は、『写真週報』では回避されていた。たとえば、昭和一四(一九三九)年八月二三日に成立した独ソ不可侵条約である。ノモン(ンでソ連と対峙し、国内では防共協定強化を検討していた日本にとって、この条約が与えた衝撃は大きかった。条約成立後それまでの親独機運は一時的に冷・却化し、民間メディアにおいては、ドイツを強く非難したものも少なくなかった。にもかかわらず、『写真週報』においては、該条約に関する情報は全く存在しない。
第二次大戦勃発後の一一月八日に情報部が発した「新聞記事取締方針 其の六 欧州戦争の勃発に関する件」には、「独伊に関しては帝国との友好関係が依然持続せらるべきことを念とし」云々という箇所がある。つまり、情報部は、独ソ不可侵条約後も依然としてドイツは友好国であると認識していたのである。かかる認識を持つ情報部は、『写真週報』で独ソ不可侵条約について全く報じないことによって、友好国としてのドイツのイメージを維持しようと試みたと考えられる。
独ソ不可侵条約に限らず、ドイツに関するネガティブな情報は、『写真週報』では基本的に報道されていない。たとえば、ナチスのユダヤ人迫害については、批判はおろか情報自体がほとんど存在しない。ゲットーや強制収容所に関する情報がないのはもちろんだが、昭和一三年一一月に勃発し世界中の非難を浴びた「水晶の夜」事件(ナチスが煽動した大規模なユダヤ人迫害暴動)についても全く紹介されていない。唯一、例外的にユダヤ人問題を取り上げたものが、一〇五号(昭和一五年二月ニハ日)のグラビア記事「上海のパレスチナ」である。ここでは、上海でユダヤ人難民が日本軍の庇護のもと「幸福に」暮らしていることが強調されているが、彼らがどこから亡命してきたのか、なぜ亡命してきたのかといった説明が全く省かれており、友邦ドイッヘの配慮がなされている。
また、昭和二〇(一九四五)年にヒトラーが自殺したこと(当時は戦死と発表された)、その後ドイツが日本より先に連合軍に無条件降伏したことについても、『写真週報』は必ずしも批判的ではなかった。イタリアのバドリオ政権が降伏した際には「時の立札」(二九〇号、昭和一八年九月二二日)の中でこれを非難し罵倒したのだが、ドイツの降伏に対する恨み言や批判的文言はほとんどない。民間メディアでは、ドイツ降伏にいたって、ナチスやヒトラーの問題点を批判的に紹介し、敗因と断じる記事も見られたのだが、そういった記事は『写真週報』には存在しなかった。最後の最後までドイツは日本の友好国であり、批判の対象ではなかった。
以上、本節の内容をまとめると、『写真週報』は積極的に日独友好に関する写真記事を掲載し、日本の友好国としてのドイツ観を強調した。ドイツ批判はほとんど行われず、またドイツにネガティブな情報はすべて封印されたのである。
なお、当時のもう一つの友好国といえば、ムッソリーニ治下のイタリアである。しかし、『写真週報』のグラビア記俳でイタリア関連が取り上げられる場合は、ほとんどがドイツと抱き合わせの形式であった。イタリア関連が単独で収りヒげられたのは、ファシスト訪日親善使節団来日(七号、昭和一三年三月三〇日)、イタリア大使館での傷病兵慰問会(一六四号、昭和一六年四月一六日・、イタリア海空車の紹介(一六号、五月七日、在日イタリア人の挺身労働(三五一号、昭和一九年一二月一三日)など、数えるはどである(「海の彼方」「海外通信」など複数のニユース写真をまとめて紹介する頁に登場したケースを除く)。「日伊友好」が主張されることもほとんどなく、常に「日独伊」あるいは「日独」の枠糾みで友好が演出された.このことからも、友好国としてドイツが特別に強訓されていたことが分かる.
昭和八(一九三三)年に国際連盟脱退を表明し、昭和一二(一九三七)年に日中戦争に突入して諸外国の強い非難を浴びていた日本にとって、同じく連盟脱退国であり、かつ防共協定締結国であるドイツとイタリアは、数少ない友好国であった。ドイツは当初こそ日中戦争に関して中立的であったが、昭和一三(一九三八)年二月に満洲国を承認し、また中国から軍事顧問団の撤退を開始し、アジアにおける日本支持の姿勢を明瞭にしつつあった。
内閣情報部はこうした状況において、新聞各社に対して「独伊に対しては出来得る限り好感を表明」するように内面指導を行っていた。実際、程度の差はあるものの、新聞各紙はみな親独的立場に立って報道を行っていた。『写真週報』においても、ドイツについては創刊号から終刊号までほぼ一貫して、友好的イメージで紹介されている。つまり、情報部は各新聞社に示した方針を自ら実践していたのである。
具体的に言えば、日独友好を強調するようなイペントがグラビア頁で積極的に取り上げられ、大きなスペースが割かれて紹介されている。例えば二五号(昭和コ二年八月三口)では、日独伊親善協会が開催した「防共盟邦親善富士登山」がグラビア四頁で報道された。ドイツ、イタリア、ハンガリー、スペイン、満洲国など親日国の外交関係者や留学生か、日本の大学生とともに富士山に登り友好を深める姿を取材したのである。日本のシンボルである富士の山頂に枢軸国の国旗(日独両国のものが目立つ)が翻る姿が大きな写真で掲載され、枢軸国の結束が強調されていた(撮影者は土門拳)。同号ではさらに「日独学生の勤労交腱」と題して、長野県諏訪郡の農村で東京帝大生とドイツ交換学生が協力して勤労奉仕を行う姿を、グラビアハ頁にわたって紹介した。この号は表紙・裏表紙あわせて全二四頁であるから、全体の半分が日独友好関連の写真記事で構成されたことになる。どちらのグラビアぷ小も、日独青年が共に汗を流して交流を深める姿を、美談として紹介していたのである。
また、四〇号(一一月一六日)では日独伊防共協定一周年記念国民大行進式をグラビアニ頁で紹介した。少女たちが日独伊の国旗を持ち行進する姿や、彼らを歓迎する独伊両国大使館員の姿が掲載されている。四三号(一二月七日)では、日独防共協定二周年記念国民大会における大観衆をグラビア一頁で紹介した。一一五号(昭和一五年五月八日)では、河口湖畔で開催された日独学徒大会の模様を掲載した。会場にドイツ国旗が掲げられる写真や、会議関係者が談笑する写真などがグラビアニ頁で掲載されている。以上のような関連イベントを取材し、グラビア記事で積極的に取り上げることによって、日独友好を演出したのである。
日独伊三国同盟成立直後発行の一三七号(一〇月九日)では、松岡洋右外相と独伊両大使が乾杯する写真の他、枢軸国側と連合国側で色分けした世界地図、独伊両国の歩みを紹介した組写真、独伊の国力データ一覧表、同盟や独伊事情に関する解説読み物などを掲載し、三国同盟の意義を強調するとともに日独伊の結束を強調する誌面作りを行った。その後、一五一号(昭和一六年一月一五日)では、「日独伊三国のお嬢さんを迎えたお正月」と題して、日本㈲家荒木十畝の娘のもとを独伊の外交官・武官の令嬢が訪れ、屠蘇を飲んだり羽子板で遊んだりする様子を表紙とグラビアニ頁で紹介した。これは、『写真週報』が取材し報道したというよりも、同誌グラビア記事のために企画されたイベントなのかもしれない。独伊の少女が日本の伝統的正月を体験する姿を紹介することによって、日本に理解のある友好国という独伊のイメージを定着させようとしたのであろう。先に紹介した、三人が日独伊政治指導者をかたどった飾り羽子板を持つ表紙写真には、当時の日本外交の方向性が分かりやすく表現されている。また一六七号(五月七日)の表紙は、ドイツの少年が日本の子供とともに鯉のぼりを揚げる姿であった。風になびく鯉のぼりの姿が、「若い希望、枢軸国の未来」を象徴しているのである。ここにも、日本の伝統行事にドイツ人を参加させることにより、ドイツの友好イメージを強調する姿勢が見られる。その他、一八○号(八月六日)では山中湖畔で開かれた日独学徒合同野営大会を紹介し、二四一号(昭和一七年一〇月七日)では在京ナチス婦人団が陸軍省に贈り物をしたことを美談的に報じた。
かくの如く、日独友好に関するイペントを美談としてグラビア頁で紹介することによって、日本の友好国としての対独イメージを強調し、視覚を通じてそのイメージを読者に植え付けようとしたのである。
一方、かかるイメージを傷つけるような報道は、『写真週報』では回避されていた。たとえば、昭和一四(一九三九)年八月二三日に成立した独ソ不可侵条約である。ノモン(ンでソ連と対峙し、国内では防共協定強化を検討していた日本にとって、この条約が与えた衝撃は大きかった。条約成立後それまでの親独機運は一時的に冷・却化し、民間メディアにおいては、ドイツを強く非難したものも少なくなかった。にもかかわらず、『写真週報』においては、該条約に関する情報は全く存在しない。
第二次大戦勃発後の一一月八日に情報部が発した「新聞記事取締方針 其の六 欧州戦争の勃発に関する件」には、「独伊に関しては帝国との友好関係が依然持続せらるべきことを念とし」云々という箇所がある。つまり、情報部は、独ソ不可侵条約後も依然としてドイツは友好国であると認識していたのである。かかる認識を持つ情報部は、『写真週報』で独ソ不可侵条約について全く報じないことによって、友好国としてのドイツのイメージを維持しようと試みたと考えられる。
独ソ不可侵条約に限らず、ドイツに関するネガティブな情報は、『写真週報』では基本的に報道されていない。たとえば、ナチスのユダヤ人迫害については、批判はおろか情報自体がほとんど存在しない。ゲットーや強制収容所に関する情報がないのはもちろんだが、昭和一三年一一月に勃発し世界中の非難を浴びた「水晶の夜」事件(ナチスが煽動した大規模なユダヤ人迫害暴動)についても全く紹介されていない。唯一、例外的にユダヤ人問題を取り上げたものが、一〇五号(昭和一五年二月ニハ日)のグラビア記事「上海のパレスチナ」である。ここでは、上海でユダヤ人難民が日本軍の庇護のもと「幸福に」暮らしていることが強調されているが、彼らがどこから亡命してきたのか、なぜ亡命してきたのかといった説明が全く省かれており、友邦ドイッヘの配慮がなされている。
また、昭和二〇(一九四五)年にヒトラーが自殺したこと(当時は戦死と発表された)、その後ドイツが日本より先に連合軍に無条件降伏したことについても、『写真週報』は必ずしも批判的ではなかった。イタリアのバドリオ政権が降伏した際には「時の立札」(二九〇号、昭和一八年九月二二日)の中でこれを非難し罵倒したのだが、ドイツの降伏に対する恨み言や批判的文言はほとんどない。民間メディアでは、ドイツ降伏にいたって、ナチスやヒトラーの問題点を批判的に紹介し、敗因と断じる記事も見られたのだが、そういった記事は『写真週報』には存在しなかった。最後の最後までドイツは日本の友好国であり、批判の対象ではなかった。
以上、本節の内容をまとめると、『写真週報』は積極的に日独友好に関する写真記事を掲載し、日本の友好国としてのドイツ観を強調した。ドイツ批判はほとんど行われず、またドイツにネガティブな情報はすべて封印されたのである。
なお、当時のもう一つの友好国といえば、ムッソリーニ治下のイタリアである。しかし、『写真週報』のグラビア記俳でイタリア関連が取り上げられる場合は、ほとんどがドイツと抱き合わせの形式であった。イタリア関連が単独で収りヒげられたのは、ファシスト訪日親善使節団来日(七号、昭和一三年三月三〇日)、イタリア大使館での傷病兵慰問会(一六四号、昭和一六年四月一六日・、イタリア海空車の紹介(一六号、五月七日、在日イタリア人の挺身労働(三五一号、昭和一九年一二月一三日)など、数えるはどである(「海の彼方」「海外通信」など複数のニユース写真をまとめて紹介する頁に登場したケースを除く)。「日伊友好」が主張されることもほとんどなく、常に「日独伊」あるいは「日独」の枠糾みで友好が演出された.このことからも、友好国としてドイツが特別に強訓されていたことが分かる.
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