未唯への手紙
未唯への手紙
「すべて」という幻想
『未知との遭遇』より
それは「何事かのすべてを知る(把握する/獲得する)ことの絶対的困難による絶望」ということになるでしょう。時間の経過とともに「すべて」がひたすら増え続けているので、遅れて来た者には「すべて」を把握/所有することがどんどん難しくなり、しまいには不可能になってしまう、少なくともそう感じられてしまう、ということです。
だが、この「すべて」というのがクセモノだと思うのです。いったい「すべてを知る(把握する/獲得する)」とはどういうことなのでしょうか。何をもって「すべて」に至ったことになるのでしょう。ちゃんと考えてみようとすると、よくわからなくなってきます。
彼ら彼女らにあらかじめ到達不可能と判断されている「すべて」というのは、実際に数えてみる前からほとんど計量不能の、言ってみれば「無限」にも近いもののように感じられているのではないかと思うのです。
もう少し繊細に言うと、仮にそれが具体的な数を持っているとしても、そこまで自分が到達するためには決定的に時間が足りない、自分がそのために使える時間よりも、必要だと思われる時間のほうが圧倒的に長いということが、実際やってみたらどうであるのかということとは別にして、最初から歴然としてしまっている、という感覚が、ここでの「すべてを把握することの絶対的困難」の核心です。そして同じことは、それに投入できるお金についても言えるだろうと思います。
ところで、ここにはすでに、幾つかの誤解が挟まっていると思えます。まず第一に、もしかしたら有限かもしれないのに、どういうわけかはじめから「無限」であるかのように受け取ってしまっていること。第二に、そんな証明されざる「無限」を、これから把握するべき「すべて」に直結させてしまっていること。第三に、そんな「すべて=無限」を手にしなければ、それをわかった/知った/所有したことにはならない、と思い込んでしまっていること。そして僕が思うに、これらはどれも同じ根っこを持っています。
なぜかといえば、その頃の僕には「すべて」というものが見えていなかったからです。いや、もっと正しく述べると、その頃の僕にとっての「すべて」とは、現在の「すべて」とは違うものだったからです。
それともうひとつ、僕が若かった頃、今から四半世紀ほど昔には、まず「起源」に遡行して、そこから「現在」までに至る「すべての歴史」を把握する、という試み自体が、はなから無理な場合が多かった。というか、そんなことを考えること自体が、ほぼナンセンスなことだった。なぜなら「歴史」を確定するために参照可能な「記録」が、まだほとんど整備されていなかったからです。
話を戻すと、現在の「すべての把握の絶対的困難」は、時間が沢山流れたせいで数多の出来事、すなわち「歴史」が「堆積」してしまったから、というよりも、どこかのタイミングで、「すべて」イコール「無限」という短絡のスイッチが押されたからなのではないか、と僕は考えています。そしてまた、そのイコールを「絶対的困難」と感じてしまうような心性が、それ以降、刻々と醸成されていったのではないかとも思うのです。これが、先ほど述べた“根っこ”ということです。
では、そのタイミングとはいつなのでしょうか? 僕の考えでは、それはかなりはっきりと示すことができます。端的にいって、それはインターネット検索が広がってきてからだと思います。
それは「何事かのすべてを知る(把握する/獲得する)ことの絶対的困難による絶望」ということになるでしょう。時間の経過とともに「すべて」がひたすら増え続けているので、遅れて来た者には「すべて」を把握/所有することがどんどん難しくなり、しまいには不可能になってしまう、少なくともそう感じられてしまう、ということです。
だが、この「すべて」というのがクセモノだと思うのです。いったい「すべてを知る(把握する/獲得する)」とはどういうことなのでしょうか。何をもって「すべて」に至ったことになるのでしょう。ちゃんと考えてみようとすると、よくわからなくなってきます。
彼ら彼女らにあらかじめ到達不可能と判断されている「すべて」というのは、実際に数えてみる前からほとんど計量不能の、言ってみれば「無限」にも近いもののように感じられているのではないかと思うのです。
もう少し繊細に言うと、仮にそれが具体的な数を持っているとしても、そこまで自分が到達するためには決定的に時間が足りない、自分がそのために使える時間よりも、必要だと思われる時間のほうが圧倒的に長いということが、実際やってみたらどうであるのかということとは別にして、最初から歴然としてしまっている、という感覚が、ここでの「すべてを把握することの絶対的困難」の核心です。そして同じことは、それに投入できるお金についても言えるだろうと思います。
ところで、ここにはすでに、幾つかの誤解が挟まっていると思えます。まず第一に、もしかしたら有限かもしれないのに、どういうわけかはじめから「無限」であるかのように受け取ってしまっていること。第二に、そんな証明されざる「無限」を、これから把握するべき「すべて」に直結させてしまっていること。第三に、そんな「すべて=無限」を手にしなければ、それをわかった/知った/所有したことにはならない、と思い込んでしまっていること。そして僕が思うに、これらはどれも同じ根っこを持っています。
なぜかといえば、その頃の僕には「すべて」というものが見えていなかったからです。いや、もっと正しく述べると、その頃の僕にとっての「すべて」とは、現在の「すべて」とは違うものだったからです。
それともうひとつ、僕が若かった頃、今から四半世紀ほど昔には、まず「起源」に遡行して、そこから「現在」までに至る「すべての歴史」を把握する、という試み自体が、はなから無理な場合が多かった。というか、そんなことを考えること自体が、ほぼナンセンスなことだった。なぜなら「歴史」を確定するために参照可能な「記録」が、まだほとんど整備されていなかったからです。
話を戻すと、現在の「すべての把握の絶対的困難」は、時間が沢山流れたせいで数多の出来事、すなわち「歴史」が「堆積」してしまったから、というよりも、どこかのタイミングで、「すべて」イコール「無限」という短絡のスイッチが押されたからなのではないか、と僕は考えています。そしてまた、そのイコールを「絶対的困難」と感じてしまうような心性が、それ以降、刻々と醸成されていったのではないかとも思うのです。これが、先ほど述べた“根っこ”ということです。
では、そのタイミングとはいつなのでしょうか? 僕の考えでは、それはかなりはっきりと示すことができます。端的にいって、それはインターネット検索が広がってきてからだと思います。
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