未唯への手紙
未唯への手紙
歴史/物語の哲学
『哲学11 歴史/物語の哲学』より
ヘーゲル 『歴史哲学講義』
ヘーゲルはベルリン大学で「世界史の哲学」と題する半年単位の講義を、一八二二年から一八三一年の間に計五回行った。本書はこの講義を弟子と息子が編集して出版したものである。歴史をはじめて哲学の本格的な主題とした記念碑的な書である。
ヘーゲルによれば、世界史を哲学的に考察したとき、理性が世界を支配していること、世界史が世界精神の理性的かつ必然的な歩みであることが明らかになるという。そして、精神・理性の本質は自由であって、それゆえ世界史は、絶対の最終目的である自由の実現へ向かう過程にほかならないとヘーゲルは言う。
ヘーゲルはこの過程を次の四つの段階において考えている。
(1) 東洋世界の段階。ここでは、ただひとり専制君主だけが自由である。
(2) ギリシャ世界の段階。共同体のなかの特定の人々だけが自由となっている段階。ここでは、共同体と自由な個人とが共在している。
(3) ローマ世界の段階。特定の人々だけが自由となっている点ではギリシャ世界と変わらない。ただローマ世界においては、自由な個人は同時に、過酷な国家目的に身をささげる。
(4) ゲルマン世界の段階。キリスト教において潜在的に存在していた精神性が、ここで世俗の権力によって現実のものとなり、自由が最終的に到達される。
自由は国家においてはじめて実現する。
予備知識をもたない者には、へーゲルの歴史哲学は壮大にすぎ、いかにしてこのような認識が可能になるのか疑問を禁じることができないであろう。ヘーゲルが言おうとすることを正しく理解しようとすれば、さまざまな対立が弁証法的に統一され、位相を異にするさまざまな事柄が媒介されてゆく次第を踏まえなければならない。ヘーゲルによれば、啓蒙期以降の人間は、事物を単なる物質として、それ自体で存在するものと見なした、か、この「自体存在」も、あくまでそれを知る意識にとっての在りようであって、決定権を握っているのは人間の精神である。主導権を握る人間の精神・理性の本質は〈自由〉にほかならない。そして、この単なる知の運動に見えるものは同時に存在の運動でもあるがゆえに、精神・理性の本質である〈自由〉はまた、歴史が到達する最終目的とも見なされるのである。
ヘーゲルの歴史哲学をどのように受け止めるべきか、判定を下そうと思えば、へーゲルの哲学の根幹部分に対する評価を定めなければならないであろう。
クローチエ 『歴史の理論と歴史』
「すべての真の歴史は現代の歴史である」と喝破したことで知られるイタリアの歴史家、ペネデット・クローチェの主著。この言葉に示されているように、クローチエの主張の眼目は、過去の事実をそれ自体で存在するものとして見るのではなく、現代の研究者が現在の関心にもとづいて注視し探究することによって構成されるものと見なすところにある。周知のように、この見方は今日の歴史哲学の基調となっており、時に論争のテーマとなっているものである。この見方をすでにクローチエが先取りし、しかも確固たる姿勢で提示していたことは、瞳目に値する。本書は今日あらためて注目されるべき書であると言えよう。
本書の原題はTeoria e Storia della Storiagrafiaであり、丁寧に訳せば「歴史叙述の理論ならびに歴史叙述の歴史」となるであろう。この標題に対応して、本書の内容は「歴史叙述の理論」(第一部)と「歴史叙述の歴史」(第二部)とから構成されている。第一部では、年代記録をはじめとする、これまでのさまざまな歴史理論が、クローチエの観点から批判的に検討されている。目次を見て、はっとさせられるのは、第二部の「歴史叙述の歴史」という標題である。ここでクローチエは、古代ギリシャ以来さまざまな歴史家が歴史を語ってきたときの視点や枠組みについて考察し、歴史叙述のあり方が歴史的にどのように変遷してきたかを論じている。このように、歴史叙述が辿ってきた過程をさらに歴史的に探究しようとする試みは、今日ヘイドン・ホワイトが行っていることにほかならない。クローチエは「メタヒストリー」の先駆者だったのである。
扱われているのは、ギリシャ・ローマ、中世、ルネサンス、啓蒙主義、ロマン主義、実証主義の時代における歴史叙述である。たとえば中世においては、善と悪との対立図式を当てはめたり、勧善懲悪の観点に立って歴史が語られたりしたことが指摘されている。クローチエ自身の立場は、「新しき歴史叙述」と題された最終章において示されており、実証主義の後に来るものとして位置づけられている。そこでは文献学的な実証主義と文学性をそなえたロマン主義とが両立されるべきことや、歴史と哲学とが統一されるべきことなどが論じられており、興味深いテーマを提供しているが、説明としては残念ながら未完に終わっていると言えよう。なお末尾でへーゲルが言及されているため、その歴史哲学との類似を予想させるが、他方でクローチエは別の箇所で、ヘーゲルの歴史哲学を萌芽的で未熟なものにすぎないことを指摘しているため、両者を同傾向のものと見なすことはできない。
ヘーゲル 『歴史哲学講義』
ヘーゲルはベルリン大学で「世界史の哲学」と題する半年単位の講義を、一八二二年から一八三一年の間に計五回行った。本書はこの講義を弟子と息子が編集して出版したものである。歴史をはじめて哲学の本格的な主題とした記念碑的な書である。
ヘーゲルによれば、世界史を哲学的に考察したとき、理性が世界を支配していること、世界史が世界精神の理性的かつ必然的な歩みであることが明らかになるという。そして、精神・理性の本質は自由であって、それゆえ世界史は、絶対の最終目的である自由の実現へ向かう過程にほかならないとヘーゲルは言う。
ヘーゲルはこの過程を次の四つの段階において考えている。
(1) 東洋世界の段階。ここでは、ただひとり専制君主だけが自由である。
(2) ギリシャ世界の段階。共同体のなかの特定の人々だけが自由となっている段階。ここでは、共同体と自由な個人とが共在している。
(3) ローマ世界の段階。特定の人々だけが自由となっている点ではギリシャ世界と変わらない。ただローマ世界においては、自由な個人は同時に、過酷な国家目的に身をささげる。
(4) ゲルマン世界の段階。キリスト教において潜在的に存在していた精神性が、ここで世俗の権力によって現実のものとなり、自由が最終的に到達される。
自由は国家においてはじめて実現する。
予備知識をもたない者には、へーゲルの歴史哲学は壮大にすぎ、いかにしてこのような認識が可能になるのか疑問を禁じることができないであろう。ヘーゲルが言おうとすることを正しく理解しようとすれば、さまざまな対立が弁証法的に統一され、位相を異にするさまざまな事柄が媒介されてゆく次第を踏まえなければならない。ヘーゲルによれば、啓蒙期以降の人間は、事物を単なる物質として、それ自体で存在するものと見なした、か、この「自体存在」も、あくまでそれを知る意識にとっての在りようであって、決定権を握っているのは人間の精神である。主導権を握る人間の精神・理性の本質は〈自由〉にほかならない。そして、この単なる知の運動に見えるものは同時に存在の運動でもあるがゆえに、精神・理性の本質である〈自由〉はまた、歴史が到達する最終目的とも見なされるのである。
ヘーゲルの歴史哲学をどのように受け止めるべきか、判定を下そうと思えば、へーゲルの哲学の根幹部分に対する評価を定めなければならないであろう。
クローチエ 『歴史の理論と歴史』
「すべての真の歴史は現代の歴史である」と喝破したことで知られるイタリアの歴史家、ペネデット・クローチェの主著。この言葉に示されているように、クローチエの主張の眼目は、過去の事実をそれ自体で存在するものとして見るのではなく、現代の研究者が現在の関心にもとづいて注視し探究することによって構成されるものと見なすところにある。周知のように、この見方は今日の歴史哲学の基調となっており、時に論争のテーマとなっているものである。この見方をすでにクローチエが先取りし、しかも確固たる姿勢で提示していたことは、瞳目に値する。本書は今日あらためて注目されるべき書であると言えよう。
本書の原題はTeoria e Storia della Storiagrafiaであり、丁寧に訳せば「歴史叙述の理論ならびに歴史叙述の歴史」となるであろう。この標題に対応して、本書の内容は「歴史叙述の理論」(第一部)と「歴史叙述の歴史」(第二部)とから構成されている。第一部では、年代記録をはじめとする、これまでのさまざまな歴史理論が、クローチエの観点から批判的に検討されている。目次を見て、はっとさせられるのは、第二部の「歴史叙述の歴史」という標題である。ここでクローチエは、古代ギリシャ以来さまざまな歴史家が歴史を語ってきたときの視点や枠組みについて考察し、歴史叙述のあり方が歴史的にどのように変遷してきたかを論じている。このように、歴史叙述が辿ってきた過程をさらに歴史的に探究しようとする試みは、今日ヘイドン・ホワイトが行っていることにほかならない。クローチエは「メタヒストリー」の先駆者だったのである。
扱われているのは、ギリシャ・ローマ、中世、ルネサンス、啓蒙主義、ロマン主義、実証主義の時代における歴史叙述である。たとえば中世においては、善と悪との対立図式を当てはめたり、勧善懲悪の観点に立って歴史が語られたりしたことが指摘されている。クローチエ自身の立場は、「新しき歴史叙述」と題された最終章において示されており、実証主義の後に来るものとして位置づけられている。そこでは文献学的な実証主義と文学性をそなえたロマン主義とが両立されるべきことや、歴史と哲学とが統一されるべきことなどが論じられており、興味深いテーマを提供しているが、説明としては残念ながら未完に終わっていると言えよう。なお末尾でへーゲルが言及されているため、その歴史哲学との類似を予想させるが、他方でクローチエは別の箇所で、ヘーゲルの歴史哲学を萌芽的で未熟なものにすぎないことを指摘しているため、両者を同傾向のものと見なすことはできない。
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